『読売新聞・歴史検証』(10)

第三部「換骨奪胎」メディア汚辱の半世紀

電網木村書店 Web無料公開 2004.2.9

(第二部 扉の図版)

銀座の旧本社屋

デパート「プランタン」に衣替えした銀座の旧本社屋
(1945年の大空襲で被災、1947年復旧)
写真撮影:T.H.


 以上のような第二部の「入り口」を通って、話は再び、正力の読売「乗りこみ」の時点に戻る。

 元読売販売部員、大角盛美は、『別冊新聞研究/聴きとりでつづる新聞史』(8号、79・3)のインタヴュアーの「聴きとり」質問にたいして、以下のように答えていた。

「――正力さんが『読売』を買いとられたときの『読売』の部数はどれくらいなんですか。

 当時は、なんぼあったかな、六~七万あったかな。

 ――そんなにあったんですか。

 あったでしょう。地方と市内と両方ですから、六、七万はありましたね。その当時最高の新聞が三十万前後、『読売』も、地方もやってましたから、そのぐらいはあったでしょうね。

 ――それは有代部数ですか。

 有代部数です。

 ――『読売』の社史(読売新聞八十年史)によると、四万と書いてありますが。

 あの『読売新聞八十年史』という社史はね、非常に松山さん時代のことを悪く書いていますよ。極端にいってますよ。当時『読売』は東京都内だけでも四万位もあったでしょう。直営店を持ってますからね、だから、そんな少ないことはないですよ」

 大角は、報知、読売、朝日と、東京の主要紙三社の販売を経験している。朝日から系列下の九州タイムズと埼玉新聞に出向したこともある。戦争中の新聞共販時代には、日本新聞配給会に出向している。つまり、全国的な新聞販売の、戦前から戦後にかけての舞台裏の実情を総合的に知る点では、ベテラン中のベテランの生き証人だといえよう。読売には正力の乗りこみ以前に入社している。読売から朝日に移籍したきっかけは、正力との販売政策上の意見の対立だという。読売の販売部で、正力の乗りこみ以前と以後を経験したわけだが、とくに興味深いのは、大角が報知から読売に移籍した理由である。

 報知は当時、発行部数約三〇万で、東京紙のトップを切っていた。全国的な直営店設置でも他紙に先駆けていた。だが、直営店方式も、「ある程度までくると、そのうち具合がわるくなってきた」。そうなった理由は、「人の関係、その他の関係」だと大角は語る。どの商売にも、微妙な内部事情があるものだ。販売競争の激化につれて、報知の上層部は「売り捌き」と呼ばれる共販店の方式をも研究しなおす必要にせまられ、大角に密命を託した。

「『どこへ行くんです』と言ったら、『大きいところ、『朝日』とか『東日』じゃまずいから、ひとつ『読売』へ行ってきてくれないか』と、というのが震災の少し前です。[中略]その当時でも、そういうものは受け入れるわけはないんだから、『読売』には伏せて行った」

 つまり、大角は今でいう「産業スパイ」として、意図的に読売の販売部に潜入したのである。その役割からしても、大角が記憶するデータの信頼度は高いといえよう。

『読売新聞八十年史』にも、『読売新聞百年史』にも、大角が語ったような「非常に松山さん時代のことを悪く書いていますよ。極端にいってますよ」という部分が、何か所もあるにちがいない。正力講談型の著作ともなれば、なおさらのことである。

 もとより問題は数字だけにとどまらない。内容にも、多くのごまかしがあるし、さらにさぐれば、背後に隠されていた重大な政治的謀略が浮かびあがってくる場合もある。そういう事情を念頭においたうえで、正力の読売乗りこみ以後の状況を見直してみよう。

 正力の読売乗りこみは、単に一つの新聞を支配するだけでは終わらなかった。当初からラディオの支配のための布石を兼ねていた可能性があるし、その勢いは、戦後のテレヴィ支配へとつながっていった。少なくとも結果として、新聞、ラディオ、テレヴィという、現代の巨大メディアの中心構造が、正力を先兵とする勢力によって支配されるようになったのだ。


第十章 没理想主義の新聞経営から戦犯への道
(10-1)「エロとグロ」から「血しぶき」に走った正力と「言論弾圧」