『読売新聞・歴史検証』(3-1)

第一部 「文学新聞」読売の最初の半世紀

電網木村書店 Web無料公開 2003.12.1

第三章 屈辱の誓いに変質した「不偏不党」 1

絵入り小新聞だった朝日が議会傍聴筆記を付録に部数増大

 一九一九年(大8)に財界の匿名組合が読売を買収したときに、新社長として就任した松山忠二郎は、元東京朝日編集局長だった。松山は、社長の村山龍平以下の東西朝日首脳陣のほとんどが退社のやむなきにいたるという、日本の新聞史上最大の筆禍、「白虹貫日事件」または略して「白虹事件」に立場上連座して、浪人中の身だったのである。

 前項で紹介した青野の『一九一九年』の友人の報告のなかには、「K[松山]は札つきの財閥の御用記者」という表現があった。はたして真相はどうだったのだろうか。

 別の立場からの評価と比較してみよう。『伝記正力松太郎』という講談社発行の単行本は、読売による合併以前の元報知で社会部長だった御手洗辰雄の筆になるものである。わたしは、この本を「正力講談」の典型だと評価している。

「文は人なり」という。文章には人格が表われる。御手洗は、報知が没落しはじめたころに退社して独立し、文藝春秋に「政界夜話」などを寄稿していた。その後、日本の支配下にあった朝鮮で、『京城日報』の副社長に就任する。その際、同時代の『現代新聞批判』(36・10・1)には、「時の新聞人/御手洗辰雄論」が載った。かなり手厳しい批判の文章である。要点だけ書き抜いてみよう。

「京城日報の副社長になった御手洗辰雄は総督南の乾児[子分]である。[中略]彼がそれからそれからと縁故を手繰って相当深く政界に食い入っていたことは事実だ。[中略]御用新聞の番頭など俺はいやだなどという生意気は言わない。[中略]文章の方面でも抜群、平凡無能な日本の新聞記者群の間では、まあ鶴群の一鶴位の褒め言葉はくれてやってもいい方だろう。しかし、彼の踏んでいるような途は、本当は新聞記者の邪道なのだ」

 要するに「遊泳術」が上手で、典型的な御用記者といったところだ。戦後も、調子の良い万能型評論家として、さまざまなメディアに登場していた。

 その御手洗が、旧友の正力の提灯持ちとして書いた『伝記正力松太郎』では、松山を、つぎのように描いている。

「東京朝日の経済部長として東京の実業家に信用を博していた」

 この御手洗の表現は、松山への「ほめことば」といっても良いだろう。青野の友人の「札つきの財界の御用記者」という「けなしことば」とは、うらおもての関係で呼応し合っていることになる。

 松山は、典型的な日本の近代的新聞エリートの一人である。早稲田大学の前身、東京専門学校政治科を卒業後、東京経済雑誌を経て東京朝日に入社した。一八九八年(明31)には、アメリカに特派されてコロンビア大学に留学し、帰国後は財政経済記者として論壇をにぎわした。

 退社の原因になった「白虹事件」の火元は、本家の大阪朝日の記事にあった。現在のような紙面電送の技術はない時代だから、東西の記事編集は別作業である。東京朝日の編集局長としての松山個人には、直接の監督責任はなかった。それなのに、なぜ、大阪朝日だけでなく東京朝日の編集局長までが連座させられたのであろうか

 そこで、松山個人の評価以前に考える必要があるのは、東西の朝日という当時では最先端の、全国紙体制が持つ政治的な影響力である。その際、「白虹事件」発生の遠因は「輪転機」にあり、というのがわたしの考え方である。何をまた「風が吹けば桶屋が儲かる」式の話を、と思われるかもしれないが、わたしがこういうのは、「出る釘は打たれる」という意味でもある。当時の朝日が権力に狙われた理由の中心には、朝日が高速輪転印刷機の導入に先駆け、東京と大阪を拠点に全国紙体制の先陣を切っていたという事実があった。それゆえに朝日の政治的影響力が大きかったという意味である。この技術革新によるメディアの巨大化現象の重要性に、とくに目を向ける必要があると考えるのである。

 わたしの考えでは、高速輪転印刷機や最新鋭の電子機器などという二〇世紀の高額巨大設備の発達こそが、新聞社、ラディオ放送局、テレヴィ放送局のようなマスメディアの運命の基本的決定権を握っていた。高額の資金、巨大な設備、多数の従業員を必要とし、それゆえに、収入の大半を日常的に広告費に依存し、事実上、財界を最大のスポンサーとせざるをえないマスメディアの出現、これこそが明治時代と、それ以後の日本の言論のありかたを左右する基本的な条件であった。新聞業界の場合にはさらに、輪転印刷機の導入とともに急速に用紙の使用量が増大したことによって、製紙業界との関係が深まった。この関係はのちに、「用紙統制」の名の下に行われた新聞統合政策にもつながる。

 日本で輪転印刷機を最初に導入したのは朝日である。

 東京朝日では一八九〇年(明23)九月二七日以降、数回にわたって、大阪朝日では同年一一月二二日以降、やはり数回にわたって、つぎのような書き出しの社告を掲載した。

「愛読者諸君

 帝国議会開設の期来り。是れ政治上に於て最大機会なり。[中略]乃ち知る。我が新聞事業伸張の必要迫れるを、何を以て之に応ぜん」

 朝日が「何を以て之に応」じたのかというと、当時の世界でも最新鋭の技術導入である。日本で初めて開設される議会の「傍聴筆記」の新聞付録こそが、「社告」による宣伝の目玉商品だった。朝日は、その特別付録を即日大量印刷するために、フランス製のマリノニ輪転印刷機を一台だけ購入し、それも本家の大阪朝日ではなくて議会に近い東京朝日の方に設置したのである。極秘裏に準備されたこの速報印刷体制の発表は、『朝日新聞の九十年』によれば、「同業各社に強烈な衝撃を与えた」という。

『日本新聞通史』(新泉社)では、この朝日の輪転機による印刷体制の導入を、つぎのように評価している。

「従来の平盤ロール機は、一時間に四ページ新聞千五百枚の印刷能力しかなかったのに、朝日のこの二枚がけ機は『八ページ掛にて実際は三万部印刷』(十一月二十日社告)だったので、能力は二十倍、まさに新聞印刷上の革命であった」

 マリノニを一台しか購入しなかったのは、それだけ高額だったからだが、前年には新橋と神戸間に東海道線が全通し、新聞の配達体制にも革命が起きていた。東京で印刷された新聞付録の議事録は、名古屋、大阪、神戸と、東海道沿線には即日配達できるようになっていた。

 すでに本書の冒頭に紹介したように、日本の新聞は、明治から大正前期(一八六八~一九一八頃)まで、ほぼ二種類に分れていた。現存の大手紙の代表格である朝日・読売はともに大衆紙の小新聞(こしんぶん)、毎日は政論紙の大新聞(おおしんぶん)を出発点としている。だが、小新聞も二〇世紀に入ってからは徐々に、政論も加える総合紙に転じ、中新聞という表現もでたりして、両者の境界は定かではなくなっていた。朝日と毎日は大阪の財界をバックとする点で共通していたが、両者ともに首都東京への進出をも果たし、一九一〇年代半ばの高速輪転機導入にも先駆けて、急速に発行部数をふやした。

 輪転機による日本の新聞の高速印刷体制の最初が、朝日のマリノニ採用である。『朝日新聞の九十年』の表現によれば、本家の大阪朝日は「最も大衆に親しまれていた絵入り新聞としてスタートを切った」のだが、創業一一年にして、マリノニで印刷する議会「傍聴筆記」を付録として読者拡大を狙うという戦術で、全国的な総合紙のトップクラスに踊りでたのである。


(3-2)政府官報局長と「極秘」同行で輪転機を購入した朝日の政治姿勢