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第十三章「独裁主義」の継承者たち

(第13章-1)
「ワンマン正力」の後継者決定の七か月の骨肉の争い

 正力没後の読売の社長は、務台、小林、渡辺と、すでに三代を経ている。

 いずれの場合も、読売の経営上では個人的な独創を生みだすことができなかった。すべて正力の延長線上の亜流に終始している。部数のうえでは、三大紙の順序が「読・朝・毎」に逆転したが、それも従来のままのヤクザ拡張販売の結果だ。事実上の「押し売り」によるガリヴァー化であって、何ら自慢の種にはならない。

 読売は、戦時体制下で「中央紙」の位置を確保した。しかし、朝毎と並ぶ「全国紙」となるためには、戦後に、関西の大阪本社、九州の西部本社など、各地への進出拠点を築く必要があった。だが、それらの経過は、本書の目的とする読売の歴史的本質の解明とは、とくに関係がないので省く。マスメディアとしての最大の問題点は、かつて青野李吉が「文化主義的」と形容した明治初期以来の伝統が破壊された状態のまま、正力が「武力」で築いた「独裁主義」の伝統の方が、そのまま継承されていることである。「独裁主義」は、「言論の自由」と決定的に相対立する概念である。

 正力の我執が、晩年になってますます露骨に発揮された経過については、『巨怪伝』に詳しい。衆議院議員、科学技術庁長官としての原子力発電導入、首相就任への妄念、などなどである。本書では、読売グループに関係する部分のみの、簡略な経過、結果と問題点を指摘するにとどめる。

 読売の紙面にも、日本テレビの画面にも、「正力コーナー」とか「お召し列車」と陰口された正力持ち上げ報道が毎度登場した。紙面と画面の露骨な私物化であり、公共の電波を免許をえて使用する放送の場合には違法の疑いが濃厚であった。

 正力は晩年、親族による後継の配置を急いだ。長男の亨は、日本テレビの副社長にした。妾腹の異母弟、武は、日本テレビに入れて審議室長という役職を特設し、つぎには取締役にした。長女の婿の小林与三次は、読売の副社長にした。この三人の内、小林だけは一応、元自治省事務次官という経歴だから、それなりの世間的な実力の評価があった。血のつながる二人の息子には、さしたる実績はなく、むしろ逆の評価しかなかった。亨の場合にはとくに、関係者の危惧の念が強かった。巨人軍オーナーとして優勝の際にテレヴィ放送する短いスピーチだけが、人前にさらされる機会であったが、しゃっちょこばってしゃべる内容には繰り返しが多くて、いつ終わるのかと関係者をいつもはらはらさせていたのである。わたしたち一般社員は、亨と武の二人の「御曹司」の、何ともチグハグな姿を日本テレビの廊下で見かけては、顔を見合わせて肩をすくめているほかなかった。

 労働組合だけが唯一の批判の砦だった。正力が死んだ時期には、わたしは執行委員だった。だが、労働組合と名乗ってはいっても、日本の労働組合全体に共通する「社員組合」の限界を越えることは、非常にむずかしかった。

 たとえば、正力の晩年の誇大妄想的大失敗とされる事業のひとつに、新宿の通称「正力タワー計画」があった。死の前年には、ホテル・ニューオータニで関係者四〇〇〇人を集める起工披露宴まで開かれていた。総工費は二〇〇億円とも二五〇億円ともいわれていた。東京タワーを上回る規模という宣伝であったが、だれの目にも無駄で無茶な計画であったし、建設責任者に長男の亨を任命したことにも陰口が絶えなかった。だが、労働組合の執行部が、この衆目一致の無謀な計画にたいして、反対とまでは明言できずに、とりあえず疑問を呈する方針提案を決定するまでにさえ、なんとも重苦しい議論を経なければならなかった。ましてや、後継者人事を公然と批判するのは、到底無理であった。正力の死後にも、労組執行委員会の中心人物に、「死者を鞭打つなかれ」という圧力がかかってきた。「ワンマン正力」の鎖は、それほど重かったのである。

 正力が死んだのは、一九六九年(昭44)一〇月九日である。

 後継人事決定の結果の方からさきにいうと、長男の亨は、日本テレビで平取締役に降格された。読売の方では社主、読売興業社長、巨人軍オーナーという、肩書きだけの神棚に祭り上げられ、読売経営の実権を奪われてしまった。「正力タワー計画」は中止となった。異母弟の武は、日本テレビでは非常勤取締役に降格され、よみうりランド常務取締役という閑職に遠ざけられた。読売社長には務台光雄、日本テレビ社長には小林与三次が就任したが、これらの人事が決定したのは、翌年の一九七〇年(昭45)五月二九日になってからであって、正力の死後、七か月半を経ていた。

 この七か月半の間に、何が起きたのであろうか。

 務台の自伝のような半生記、『闘魂の人』には、「日本テレビの社長」人事の経過について、つぎのように記されている。

「副社長正力亨が社長になるというのが常識であった。正力松太郎と生前親しかった河合良成、石坂泰三といった財界人も、はじめはそう考えていた。[中略]日本テレビの社長は読売から求めなければならない。一番いいのは正力亨で、これなら故正力松太郎の意思にも添い、いろいろの意味でもいいのだが、万一のことを考えなければならない」

 正力の「意思」が遺言書として残されていたか否かについては、何の証拠もない。だが、務台が、こういう回りくどい釈明をしなければならなかったこと自体が、何らかの形での「意思」の表明があったことの証明であろう。では、正力の「意思」でもあり、「財界人」の「常識」でもあった亨の日本テレビ社長就任が実現しなかった理由は、何であろうか。

 まずは、正力の後継者たちの仲は、どういう本音の関係にあったのだろうか。

 すでに紹介済みの元中部読売専務、大浦章郎は、「私史・販売現場33年」の「番外編」(94・3・10)で、つぎのように記している。

「恐らく務台さんも販売幹部には本音が出るのだろう。さすがに正力さんには『さん』づけだったが、彼は[中略]、小林[与三次]が、[中略]あるいは[正力]亨(とおる)が、と呼び捨てで批判していた」

 大浦の回想にも、かれ自身の「本音」がうかがえる部分が多い。務台に代表される紙面内容と関係がない競争のための拡張販売競争には、「本当に情けない気がして涙が出た」とまで記している。その想いが、引退後の、意外な真相告白の底辺に流れているのではないだろうか。

 務台は、気性の強さでは、だれにも引けを取らない方だった。正力とも衝突を繰り返していた。読売を大きくしたのは自分だという自負もある。正力松太郎本人は別格としても、新聞経営の実績がない娘婿や息子たちにまで遠慮する気は、さらさらなかったのであろう。むしろ、正力の読売グループ私物化を、苦々しく思っていたに違いない

 日本テレビの社長人事よりも重要なのは、本体の読売の社長人事であるが、こちらの方に関しても、正力の「意思」を伝える材料は、何も残されていなかったのであろうか。

 読売の社長の座は、すでに記したように「空席」のままだった。正力社主の下には、務台と小林が同じ副社長の立場で、販売と編集を分担する形になっていた。日本テレビの社長人事で、副社長だった亨が社長になるのが財界人の「常識」だというのなら、読売の社長人事の場合にも、当然、副社長だった務台か小林のどちらかが社長になるのが、やはり「常識」であろう。

 問題は、二人の内のどちらに正力の「意思」があったかである。正力と務台との長年の奇妙な対抗関係、および正力が内心、務台の実力を恐れていたらしいことなどを考慮に入れれば、正力の「意思」は娘婿の小林にあったとする方が自然である。務台がいったん社長になれば、読売は正力家のものではなくなってしまう可能性が高かったのだ。

 九年後のことになるが、企業の内幕物を専門とする『経済界』(79・4・24)が、「読売の社内事情に詳しい関係者」の発言だという形で、つぎのような裏話をのせた。

「正力さんは後任に小林さんを決めていた。[中略]業界の長老が両氏の間に分け入って、務台氏が当座の三期六年をやって、その後に小林氏にまかせるということで収めたんです」

 つまり、正力の「意思」は小林の読売社長就任にあったが、務台が一向に譲る気配を見せないので、「業界の長老」が調整役を買って出たという話の筋書きになる。これも、よくある裏話のような気がする。しかし、正力の「意思」があったにしても、肝心の小林の方に、そこまでのギリギリのにらみ合いを半年ほど続けて、対決をせまるだけの実力と迫力があっただろうか。

 元読売社会部記者、三田和夫は、正力の生前から『軍事研究』誌に「読売新聞の内幕」を連載中だった。正力が死んで二か月後に発表した『正力松太郎の死の後にくるもの』と題する単行本のなかで、三田は、いわゆる「禅譲」型の予測をしていた。

 三田はまず、読売における務台の「事実上の“社長”」としての、ゆるぎない実績と位置づけを強調する。さらに重要な要素としては、当時、進行中の大手町の読売新社屋計画があった。三田は、この務台の主導権の下に進められていた計画を踏まえて、つぎのように指摘していた。

「さらにまた、小林側にしてみても、務台と覇を競うべき、何の必然もないのである。現時点で、務台を追放してみても、なんのメリットがあるのだろうか。務台を排してでも、社長の地位につかねばならぬ年齢と健康ではない。まして、新社屋の資金、二百億の金繰りなどは、務台を措いて、誰になし得よう。新聞界に日の浅い小林には、到底無理なことである。[中略]新社屋完成は二年後。務台に花をもたせて、ポスト・ムタイの構想を描くのに、小林にとって、三年、五年を待つのは、少しの難事ではあるまい」

 もちろん、事態の進展状況は、もっとドロドロしたものだった可能性がある。だが、どうやら、結果から判断すると、三田の予測が一番現実的だったようだ。むしろ、務台と小林の二人の脳裏では、共通の問題に関する危険信号が、チカチカと音を立てていた可能性が高い。それは三田が、つぎのように記している「問題」である。

「問題は、日本テレビである。正力なきあとに“正力コンツェルン”から、脱落し、あるいは離反するものは、日本テレビに違いない」

 日本テレビは「ワンマン正力」の独裁的支配下にあった。だが、あまりにも正力個人の独裁性が強かったために、かえって読売色が薄かった。三田も、つぎのように書いていた。

「読売で十五・三六%の株をもち、正力一家三人が重役に列していながら、日テレ全体の雰囲気は、全く冷たくよそよそしくて、読売人や報知人にとっては、他人の家である」

 常任の重役や主要幹部は、ほとんどが日本テレビ育ちであった。その日本テレビを、たとえ筋からいえば「常識」とはいえ、正力直系の亨が社長で、武が取締役または昇格して常務取締役とか専務取締役という体制にしてしまったら、結果として、取り巻きの手中に落ちる。日本テレビ育ちの放送のベテランに牛耳られてしまう。本当に「他人の家」になってしまうという不安があったようだ。

 七か月半後の後継者決定の陰には、どうやら、務台と小林の二人のにらみ合い以上に、読売グループの行く末に関する懸念と骨肉の争いが潜んでいたようなのである。しかも、その懸念と争いを解決する上で、結果としてにせよ、日本テレビの経営が抱えていた時限爆弾が役立ったのだから、事態はまさに複雑怪奇であった。


(13-2)「日本テレビ、粉飾決算」の爆弾犯人は誰だったのか へ続く

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2003.11