『読売新聞・歴史検証』(6-1)

第二部「大正デモクラシー」圧殺の構図

電網木村書店 Web無料公開 2004.1.5

第六章 内務・警察高級官僚によるメディア支配 1

思想取締りを目的に内務省警保局図書課を拡張した大臣

 後藤新平という個人を論ずる以前に、内務省の構成と権限の強大さを知る必要がある。

 内務省は、一口に「天皇制警察国家」とよばれる当時の大日本帝国の最高官庁だった。現在の政府や行政官庁の実態とくらべれば、その権力の強さには、まさに月とスッポンほどのちがいがあった。

 内務省が入っていた建物は、現在も、そのまま残っている。桜田門の警視庁と隣り合っており、国家公安委員会、警察庁などが入っている。鉄筋コンクリート造りの壁は、長い歳月を経てかなり薄汚れているが、その正面の玄関口をくぐって見ると、いきなり階段を昇る構造になっている。西洋式の宮殿風とでもいえばいいのだろうか、いかにも威張りくさって庶民を見下す構造である。

『日本の政治警察』(大野達三、新日本新書)では、つぎのように要約説明している。

「[内務省は]要するに内政にかかわるいっさいの行政権を一手ににぎっている中央官庁であった。[中略]おしなべて現在の国家公安委員会と警察庁・公安調査庁・消防庁・自治省・厚生省・労働省・建設省・農林省の一部・法務省の一部がより集まって内務省という一官庁になっていたといえる。全国の知事と高級官僚は内務官僚が任命されて派遣された。地方行政は市町村議会の監督権までふくめて内務省が一手ににぎっていた。土木、建築、治山、治水、消防交通、検閲出版、著作権、選挙、労働および小作争議の調停、営業許可、伝染病予防、神社管理、社会福祉、保険、出入国管理なども内務省の権限内のものであった。それに加えて、天皇制官僚である内務(警察)官僚閥は、議会にたいしても独自性をもち、法律にかわる緊急勅令権と警察命令権をもって自由にその権限と機構をひろげることができ、さらに警察機構をにぎっていたのだから、その権力の大きさは想像に絶するものがあった」

 この強大な内務省の中核には、権力の暴力装置としては世界最強を誇った警察があり、さらには悪名高い「特高」が設置されていた。「特高」こと高等課特高係の設置は、すでに見た大逆事件の年、一九一一年(明44)である。それがさらに特別高等部に昇格し、「特高ルート」とよばれる特別な指揮系統に編成されていった。

 新聞の統制などの言論弾圧の専門機関としては、特高のなかに検閲課があり、さらには全国の警察機構を一手ににぎる内務省警保局のなかに図書課が設けられていた。図書課の方がいわゆる本省に当たる。特高のなかの検閲課は出先機関であった。

 戦後に元内務官僚OB組織が編集した『内務省史』には、つぎのように記されている。

「地方で発行される新聞等については、その地の都道府県庁の特別高等警察課(検閲課)で検閲して、問題になる点だけを電話で本省に照会して指示を仰ぎ、係が係長たる事務官または検閲官の意見を聞き即答することが例であった」

 内務省本省の図書課は、ロシア革命への対応を意識して拡張されたが、そのときの内務大臣こそが後藤新平であった。後藤自身の報告の要旨が『内務大臣訓話集』に収められている。一九一七年(大6)九月、ロシア革命の進行中に開かれた警察部長会議の席上で、後藤は思想取締の要点をのべ、「臨時議会の議決を経て図書課の拡張を行なえり」と報告していた。同時に後藤は、警視庁の人員増強を求めた。当時の六〇〇〇名が六年後には一万二〇〇〇名に倍増された。特高は同時期とくに、一二名から八〇名へと約七倍に増えた。


(6-2)言論の封殺に走った後進資本主義国日本の悲劇の分岐点