『読売新聞・歴史検証』(3-2)

第一部 「文学新聞」読売の最初の半世紀

電網木村書店 Web無料公開 2003.12.1

第三章 屈辱の誓いに変質した「不偏不党」 2

政府官報局長と「極秘」同行で輪転機を購入した朝日の政治姿勢

 だが、ここで注目しておくべきことは、当時の朝日の経営トップの政治姿勢であろう。『朝日新聞の九十年』では「極秘に高橋官報局長と同行」という小見出しつきで、マリノニ購入の経過についての、つぎのような秘話を明かしてる。

「政府は、いよいよ国会開設ともなれば詳細な議事録を翌日の官報に掲載しなければならず、これまでの印刷機では心もとないとして、官報局に命じて諸外国の印刷機械を調査させた結果、輪転印刷機を最適と見てこれを購入することに決め、官報局長高橋健三をフランスに特派することになった。村山社長は、高橋の渡欧の目的を知り、直ちに輪転機の購入を決意し、高橋に依頼して大朝社員津田寅治郎を同行させた。本社の輪転機購入は全く秘密のうちに運ばれ、[中略]命令書が津田に与えられた」

 以上の記述だけだから、朝日の村山社長が「高橋の渡欧の目的を知」った経過については定かではない。大蔵省詰め記者へのリークなのかもしれないが、明らかに朝日は、高級官僚と結託した抜け駆けを策している。「秘密のうちに運ばれ」た輪転機購入が、「同業各社に強烈な衝撃を与えた」という当時の業界事情を考慮に入れてみれば、これは本来なら、一大政治問題だったのではないだろうか。朝日の経営陣の尻には、「政商」のブランドが、すでに深く刻印されていたというべきであろう。

 以後、一九一〇年代半ばには各社とも、さらに高速で高価な輪転機を導入するようになった。

 ということは同時に印刷部数の数十倍への増大を意味したし、設備投資に見合う新読者獲得競争の一層の激化につながった。新聞社全体の規模も大きくならざるをえず、各社ともコンクリート製の新社屋を競って建造するようになった。以下、『朝日新聞の九十年』と『毎日新聞百年史』によって、その状況を簡単に紹介する。

 朝日の場合は、大阪朝日が一九一六年(大5)一一月二〇日に、「近代ルネサンス・耐震耐火・鉄筋コンクリートの四階造り」の新社屋を完成した。

 毎日の場合は、買収した東京日日の社屋が工場を残して焼失したため、一九一七年(大6)三月に「鉄筋コンクリート三階建ての新社屋」を新築し、同時に大阪本社の新築を準備中だと発表した。大阪の「鉄筋コンクリート、地上五階、地下一階」の新社屋が完成したのは一九二二年(大11)三月一四日のことである。

『戦争とジャーナリズム』(茶本繁正、三一書房)では、この状況を、つぎのように記している。

「第一次大戦を契機として、新聞は木鐸型から報道型に変わり、近代的報道体制を確立した。

 印刷機も明治のころ輸入したマリノニ機が旧型化し、かわって高速輪転機が登場した。印刷能力も時速二万五〇〇〇部だったのが、一八万部ぐらいにスピードアップ。機械の新鋭化とともに、印刷した紙面もきれいに鮮明になった。[中略]

 新聞はこうして戦争を機に大衆化し、さらに肥大化した。また、時流はマスコミの勢力分野を微妙に変化させていて、第一次大戦まえまでは二流であった『東京朝日』『東京日日』[大阪毎日系]の両紙を、一流に押しあげていた。

 大戦をバネとして、当時の新聞がどのくらい伸張したか、資本の変化はつぎのとおりである。

       大正七[一九一七]年   大正一五[一九二五]年
 報知新聞    匿名組合      →  一一〇万円(株式)
 中外新聞    一〇万円(株式)  →  一五〇万円(株式)
 時事新報    一〇万円(合名)  →  四五〇万円(株式)
 都新聞     個人        →  一三〇万円(株式)
 大阪毎日    六〇万円(合資)  →  四〇〇万円(株式)
 大阪朝日    五〇万円(合資)  →  五〇〇万円(株式)」


(3-3)米騒動と「朝憲紊乱罪」で脅かされた新聞史上最大の筆禍事件