『読売新聞・歴史検証』(3-3)

第一部 「文学新聞」読売の最初の半世紀

電網木村書店 Web無料公開 2003.12.1

第三章 屈辱の誓いに変質した「不偏不党」 3

米騒動と「朝憲紊乱罪」で脅かされた新聞史上最大の筆禍事件

 この時期に起きたのが、日本新聞史上最大の筆禍といわれる「白虹貫日事件」、または省略して「白虹事件」である。政治的背景はあとまわしにして、まずこの事件のあらすじだけを紹介しよう。

 一九一八年(大7)八月、シベリア出兵を当てこむ買占めによって米の値段が暴騰した。怒った富山県の漁村の主婦たちが大挙して米屋に押しかけ、打ちこわしをはじめた。火の手は、たちまち全国に広がり、東京・大阪・神戸などの都市では焼きうち、強奪の大暴動となり、警察のみならず軍隊までが出動した。いわゆる米騒動である。

 時の寺内内閣は暴動拡大防止を理由に八月一四日、米騒動に関する一切の新聞報道を禁止した。新聞社側は東西呼応して、「禁止令の解除」および「政府の引責辞職」を要求し、記者大会を開いた。『朝日新聞の九十年』によれば、八月二五日に開かれた関西記者大会には、九州からの出席もふくめて八六社の代表一六六名が参加し、それぞれ口をきわめて政府を弾劾した。

 大阪朝日のその日の夕刊には大会の記事が掲載されたが、その中に問題の「白虹」という言葉があった。

「『白虹日を貫けり』と昔の人が呟いた不吉な兆しが[中略]人々の頭に電の様に閃く」という文脈であるが、漢文で「白虹貫日」と記す中国の故事は、「革命」を意味していたのである。しかも、その一節の前には、つぎのような字句があった。

「我が大日本帝国は、今や怖ろしい最後の審判の日が近づいているのではないか」

 寺内首相は一挙反撃に転じた。朝日新聞の報道を「朝憲紊乱罪」(天皇制国家の基本法を乱す罪)という当時最大の罪にも当たるとし、新聞紙法違反により、これも最強力の罰則である「発行禁止処分」、つまりは廃業、会社解散にいたる処分で脅かした。

 寺内内閣でシベリア出兵を推進した外務大臣は、すでに見たように読売の社主、本野一郎であった。本野が病で倒れたのちには、それまで内務大臣だった後藤新平が、外務大臣に転じた。この後藤新平という名前は、ぜひ記憶しておいてほしい。本書の第二部では、ほとんど主人公並みとなる。

 検事局は、問題の記事の執筆者、大西利夫記者と編集兼発行人の山口信雄を起訴し、各六月の禁固のうえに朝日新聞の発行禁止処分を求刑した。右翼のボスの組織である大同団結浪人会は、朝日新聞を「非国民」と断じて、その処分に関して司法権を監視すると決議した。

 朝日新聞の村山社長は、当局にたいして監督不行届きを陳謝し、社内の粛正を誓ったが、新聞社からの帰途、中之島公園内で数名の暴漢におそわれた。乗っていた人力車は転覆し、村山は暴漢に杖でなぐられたのちに「代天誅国賊」と記した布切れを首にむすばれ、石灯籠にしばりつけられた。おそった暴漢たちは、人力車の車夫が姿を消しているのに気づいて警察への通報をおそれ、「檄文/皇国青年会」と記した印刷物数百枚などを現場に残して逃走したが、その後の調べによると黒龍会の所属であった。

 寺内内閣は九月に入ると倒れ、原敬が首相兼法相となった。原はすでに、読売の買収話やストライキの件で登場しているが、元大阪毎日社長などの経歴の押しも押されぬ新聞界出身であった。だからかえって新聞操縦術にも長けていたといえるだろう。村山は原を訪れて寛大な処置をもとめ、編集首脳とともに自分も辞任した。結果として朝日新聞は「発行禁止」、つまりは廃業をまぬかれた。一件落着を記す『原敬日記』には、ことの次第が詳しくつづられている。

 原は新社長の上野理一を電報で呼びよせ、「鈴木司法次官立会にて」決意をたしかめ、起訴された社員にたいして判決には控訴しないよう説得することまで約束させたのである。この会談の三日後にあたる一二月四日に、二人の被告はともに「禁固二月」を言い渡されたが控訴せず、朝日新聞は発行禁止処分を受けなかった。

『朝日新聞の九十年』では、この判決とその後の経過を、つぎのように簡略に記している。

「心配された発行禁止はなく、禁固刑にしても求刑よりははるかに軽かった。山口・大西ともに控訴せず、一審判決に服した」

 ところが、同書発行の八年後には、問題の記事の執筆者、大西利夫記者が、『別冊新聞研究』(5号、77・10)の「聴きとり」に答えて、たった四文字の「控訴せず」に閉じ込められていた真相を、詳しく物語った。そのためもあってか、さらに一四年後に出た『朝日新聞社史/大正昭和戦前編』では、「大西記者の進退」のゴシック見出し項目を設けている。しかし、そこでも話は、社側に都合の良いきれいごとに終わっている。『別冊新聞研究』の大西自身の、実感のこもった回想とくらべると、大違いであり、まさに「朝日エセ紳士」の面目躍如たる編集ぶりである。とくに重要なニュアンスが違っていたり、脱落している重要部分を本人談から要約すると、つぎのようである。

 西村天囚編集長は、判決当日に大西を呼んだ。理由は何もいわずに、「本社は服罪することに決めましたから、そのつもりで」といい渡した。大西は、「頭ごなしにいいよったんで、ぼくとしては非常にしゃくにさわったんです」という。だが、その日は「おだやかに引きさがり」、翌日、「友人に託して社へ辞表を出し、『朝日新聞』は服罪されたがよい(そのために編集兼発行人がある)、私は私の言い分があるから、別の立場で善処すると言い送りました」。すると社側は「あわてたらしい」、「金で説得です。『金三千円出す』と言うんです。[中略]人をバカにしてやがると思いました。もとより金なんか私には論外のことで、耳をかすはずもなく、控訴の手続きを急いでいると、間にいろいろな人が入ってきて話があり」、「身体は社で引きうける」などの「話になってきたんで」、「そこまでいうてくれるなら[中略]ということで服罪したんです」。

 結局、冬場の寒い刑務所で「禁固二月」に服した大西は、釈放の翌日に辞表をだした。「あとの身のことはご心配くださるな。お金なんかもいりません……浪花節のヤクザ仁義ですな……」と大西は語る。そこで社側は「喜んで」、「問題の金三千円を退職金として」支給した。大西はその後、松竹に入り、専属作者、演劇評論家となる。

「聴きとり」の終わり際の質問に答えて、大西は、つぎのように厳しく長年の想いを語る。

「――白虹事件というのは、日本の言論史の上でかなり大きな意味をもっておりまして、『朝日』もこれから変わりますし、他の新聞も、うっかりしたことは書けん、というように……。

 そうなんです。その時の『朝日』のあわて方もひどかったんです。天下の操觚(そうこ)者[言論機関]を以って任じ一世を指導するかのように見えた大朝日も権力にうちひしがれて、見るも無残な状態になる有様を私、見たような気がして、余計ニヒリスティックになるんです。世の中のことすべていざという時には、こんなものか、というのが若い頭にピシと入った。これはいまだに入っています」


(3-4)朝日が権力に救命を懇願した日本版「カノッサの屈辱」誓約