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(3章-5)
大正日日の非喜劇を彩ったメディア梁山泊的人間関係

「白虹事件」に引きつづいて、もうひとつの悲劇的、または、見方によっては大正時代風に喜劇的で、かつ牧歌的な幕間狂言が演じられていた。しかも、この幕間狂言には、その後の読売につながる当時の日本の新聞人の、生臭い人間関係のドラマが織りこまれていたのである。

 幕間の悲劇の舞台、または喜劇の主人公は、八か月のはかない大輪の花を咲かせた『大正日日新聞』である。大正日日は、その名の通りに大正ジャーナリズムの典型であり、「時代の申し子」であった。そこに展開された人間ドラマに光を当てる試みによって、当時のメディア事情だけでなく、その後の日本の大手メディア支配構造に押された刻印が、すこしは具体的な姿形を見せてくれるのではないだろうかと思う。

 大正日日は一九一九年(大8)一一月二五日、大阪で創刊され、八ヵ月後に会社解散で廃刊となった。最大の出資者の勝本忠兵衛は、第一次大戦中に続出した鉄成金の一人であった。二〇〇万円という資本金がそれまで最大だった朝日の一五〇万円よりも多いため、「日本一の大新聞」を呼号した。社長にかつがれたのは貴族院議員の藤村義朗だった。大株主の中には、元首相細川護煕の祖父、細川護立がいた。元熊本藩主の家柄の侯爵、つまりは大殿様である。

 勝本は営業局長となったが、新聞経営はズブのしろうとである。ではなぜ、しろうとの勝本が大金を投じて新聞経営に乗りだしたかというと、直接のきっかけは前年に起きた大阪朝日の「白虹事件」だったのである。

「白虹事件」に連座して東京朝日編集局長を辞任した松山は、読売に入り、一九一九年(大正8)一〇月一日の紙面で社長就任を発表している。ところが、その後二ヵ月を経ずして大阪で創刊された大正日日の実質的なトップである主筆兼専務は、「白虹事件」の火元、大阪朝日の編集長を辞任した鳥居素川だった。鳥居は、元熊本藩士の家柄であるから、細川侯爵は主筋に当る。

「白虹事件」の退社組には鳥居だけではなく、当時の大記者として名を知られていた大阪朝日退社の丸山幹治、稲原勝治、花田大五郎(比露思)、東京朝日退社の宮部敬治がいた。さらには読売解雇組からは青野李吉、報知からは戦後に社会党委員長になる経済記者、鈴木茂三郎や、徳光衣城らの名のある記者が一斉に馳せ参じたというから、これはまさに大正日本のメディア梁山泊(りょうざんぱく)とでもいうべき言論の砦だったのではないだろうか。

『日本新聞百年史』では、この編集局を「第一級の陣容」とし、「さらにワシントンとロンドンに最初から特派員を置いて特電を打たせたのであるから、その紙面は第一号から優秀なものであった」と評価している。資金は豊富で、「朝・毎も及ばぬ豪華な設備を整え」、編集陣は第一級だった。それなのになぜ「日本一の大新聞」の夢は幻に終わったのであろうか。

 たしかに紙面は優秀でも、新聞経営の能力、とくに販売面には弱点があったようである。主筆兼専務として実務の中心に座ったはずの鳥居は、文章にかけては当代屈指の大記者ではあったが、小切手も使い方さえ知らなかったという。鳥居とともに大阪朝日から退社し、大正日日の最後まで行動をともにした伊豆富人は、『別冊新聞研究』(4号、77・4)の「聴きとり」に答えて、当時の内情を語っている。鳥居自身にも、「感情の激する前に事業はない」というような気ままな性格があったらしい。いわゆる武家の商法である。

 船成金、貴族院議員、大殿様の寄り合い世帯に加えての武家商法だから、まとまりは良くない。

 そういう内部の弱点に加えて、外部からは、商売仲間というよりも商売「敵」からの新参いじめがあった。大正日日がたったの八ヵ月で廃刊にまで追いこまれた決定的な原因は、先発の同業者、大阪朝日(大朝)と大阪毎日(大毎)の連合軍によるに徹底的な業務妨害にあったようだ。『日本新聞百年史』では、まさに日本新聞販売戦国史のトップクラスの大事件として、つぎのような有様を描いている。

「社外では、大朝、大毎両社が提携して極力この新聞の発展を妨げた。平素、仲の悪い両社も、共通の敵出現となって手を握ったわけである。

 第一に電話の架設から電力の引き込みまで妨害して工事のはかどりを妨げた。新聞社の印刷工員は普通の工場の工員では役に立たぬ。どうしても二百人くらいの工員を集めねばならぬが両社から引き抜こうとしても事前に手が打ってあって歯が立たない。

 両社の販売店には厳命して大正日日の取り次ぎを禁じ、いやおうなく新規販売店の設置に巨額の経費を投じさせる。京都、神戸、和歌山などの隣接地には深夜、新聞専用電車を運転しているが、当局を圧迫して大正日日だけは積ませない。しかたなく毎夜トラックの特便をもって各方面に発送せねばならぬ始末である。四国行きの新聞は船のデッキ貨物となっている。大正日日の梱包は毎夜のように海中に投げこませてしまう。大広告主に向かっては、おどして大正日日への広告契約を妨げるなど至れりつくせりの妨害ぶりであった。

 これがため二百万円の資本金は二、三ヵ月後には一文も残らず、新聞代、広告料金も前記の次第で、内外の妨害からほとんど入金はない。両社の横暴に反感をもつ大阪市民は熱烈に大正日日を支持したので、取りあえず百万円の増資を計画、勝本が五十万円を負担することになったが運悪く戦後の恐慌が襲い財界は倒産続出、中でも鉄と船は最もひどい打撃を受け勝本も一夜こじき同様となり五十万円の資金どころではなくなった」

 かくして創刊数か月をもって、出資者去り、社長去り、主筆兼専務の鳥居素川も退社し、ついに八か月で会社解散の憂き目を見ることになった。

 大正日日の攻防戦には、しかし、さらに奥深い政治的な圧力、官憲の暗躍をにおわせるものがある。妨害工作の内容を項目別に点検すると、「電話」、つまりは当時は逓信省の管轄下にあった業務とか、公共事業的性格のある「電力」業務とかで「妨害して」いる。「新聞専用電車」の件では「当局を圧迫して」いる。大広告主を「おどして」いる。とうてい大阪朝日と大阪毎日の両新聞社だけの仕業とは思われない要素がある。大阪の官界、財界あげての圧力と見られるふしがある。

 大正日日の紙面を一応めくって見たところ、政権批判あり、ストライキ報道あり、まさに大正デモクラシーの典型のようであった。とくに政治的に重要なのは、(男子)普通選挙の即時実施を求める論調である。

「白虹事件」のために大阪朝日での筆を折られた大記者たちが、思う存分に筆をふるっていたのではないだろうか。ところがそれを、当の大阪朝日が、日頃は商売敵の大阪毎日と連合して、あらゆる非合法手段を駆使してまでたたきつぶしにかかったのである。

 なお、以上のような大正日日との異常極まりない「販売競争」の次第は、朝日・毎日の社史にはまったく記されていないことを付記しておく。朝日の社史は、「白虹事件」で退社した先輩のその後についても、『朝日新聞の九十年』にはまったく記さず、『朝日新聞社史』で、やっと取り上げたという冷たさである。背後には、お定まりの醜い派閥争いがあったのである。

 ところが、それより先に出ていた『読売新聞百年史』の方には、松山が「編集の陣容を強化」するに当たって朝日退社の仲間を迎えたため、簡略ながら、つぎのように記されていた。

「松山が朝日新聞の編集局長を退いたのは[中略]「白虹事件」が原因だった。[中略]大阪朝日の編集局長鳥居素川とともに東西の論陣を動かしていた責任をとったのである。この時、東西朝日の編集陣は大量に退社したが、その中から大庭柯公、稲原勝治、伊藤義藏、細井肇、村田懋麿らが松山のもとにはせ参じた。[中略]花田比露思、丸山幹治、宮部敬治らも、松山とともに朝日を退社した後、鳥居素川を中心とした大正日日新聞の創刊に参画していたが、一年たたぬ間に解散したため、松山のもとに加わった」

『読売新聞百年史』では、かれらが「歴史ある読売を舞台に理想的な新聞をつくる決意に燃えていた」と記しているが、これはあながち手前味噌の記述ではあるまい。それ以上に大変な、大正期メディア人間たちのドラマだったのではなかっただろうか。仮にもせよ、一時は「朝憲紊乱罪」によって廃刊に追いこまれかけた朝日の東西編集局から、当時名のある大記者たちが続々と、一時は二手に分れながらも、最後には「文学新聞」の伝統に輝く読売の再建に結集してしまったのだ。これではまるで、大阪の大正日日に築かれ始めた梁山泊がさらに求心力を強め、首都東京に移動したがごとき観があるではないか。

 以上のような、いわば「読売梁山泊」論は、わたしの知るかぎりでは旧著『読売新聞・日本テレビ・グループ研究』で、初めて展開したものである。『巨怪伝』ではさらに、つぎのような直接的証言を記録している。

「大正八年六月に読売入りした望月百合子は、正力時代以前の読売を知る数少ない証人である。アナーキスト石川三四郎の娘で、平成六[一九九四]年九十四歳になるその望月によれば、大正日日新聞の残党が入社してきたとたん、読売の社内は急に生き生きした雰囲気にかわったという」


(3-6)松山経営による読売中興の夢を破った関東大震災 へ続く

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2003.11