『読売新聞・歴史検証』(3-6)

第一部 「文学新聞」読売の最初の半世紀

電網木村書店 Web無料公開 2003.12.1

第三章 屈辱の誓いに変質した「不偏不党」 6

松山経営による読売中興の夢を破った関東大震災

 そのころの東京で「三大新聞」と呼ばれていたのは、発行部数で約三六万の報知新聞、ともに約三〇万前後の時事新報、国民新聞であった。大阪を本拠とする東京朝日と、大阪毎日の傘下にある東京日日が、それぞれ約二〇数万の第二グループとなり、先頭の第一グループを追い上げていた。読売は、そのあとの第三グループのなかでドンジリ争いをしている状態だった。

 松山忠二郎の読売経営は四年四ヵ月であるが、部数では三万部前後まで落ちていたものを、関東大震災前には一三万部にまで伸ばした。東京朝日と東京日日の、第二グループに接近しつつあったのである。

 読売の社史はいずれも、この時期を順調な発展として描いている。すでに紹介したように、東京制圧をねらう朝日、毎日が、それぞれ新鋭の高速輪転機を導入し、大型の新社屋建造を競う時期である。それらの強敵に歯向かって販売競争を繰り広げながら、読売再生の道を切り開いたのだから、松山の読売経営は決して失敗どころではなかった。

 念願の新社屋も、貸し事務所付き一〇階建て、新聞専用は六階までの総合計画として発表されていた。一九二三年(大12)八月一九日には、第一期工事で完成した三階建て新館への移転が始まっていた。そこへ関東大震災が襲いかかったのである。

『読売新聞百年史』では、つぎのように記している。

「大正十二年九月一日、その日に新社屋の新築落成記念祝賀会が、丸の内の東京会館で催されることになっていた。

 ちょうどその六時間前、午前十一時五十八分、大震災は突如関東を襲い、大火災は東京、横浜を中心に関東地方を大惨劇に中にたたき込んだ」

 関東大震災という不測の事態さえ発生しなければ、読売の歴史はまったく別の方向へ発展していたであろう。松山には、その後に正力松太郎が得た「中興の祖」という評価が与えられていたに違いない。もちろん、その場合には、元警視庁警務部長の正力が読売に「乗りこむ」などという異常事態は、絶対に起こりえようがなかった。

 ただし、松山を社長にすえた財界、または日本の当時の支配層の目から見ると、松山の経営姿勢は期待を裏切るものだったであろう。というのはこの時期、読売の紙面はまたしても「文学新聞」としての伝統を復活し、婦人運動やプロレタリア文学運動にまで発表の機会を与えてしまうのであった。

 どうしてそうなったかという疑問に対しては、松山個人の性格によるところもあるだろうが、そのことだけを考えても回答は得られないだろう。新聞は「社会の窓」にたとえられたりするが、確かに、そういう側面を持っている。よほど特殊な思想傾向の持主が独裁的な経営権限を握るなら別だが、普通の新聞人が一般読者の好みを普通に意識して紙面を作るとすれば、その紙面は同時代の社会を反映せざるを得ないのである。

 松山が読売社長だった一九一九年から一九二四年という時期は、すでに見たような「大正デモクラシー」の高揚期であった。なお、この「大正デモクラシー」という用語は後年になって作られたものである。その時代の最中に精一杯のはたらきをしていた人々は、決して大正期だけの「あだばな」で終りを告げるつもりではなかったに違いない。

 だが、日本の近代における最初の民主主義の短い春は、同時に、ファッシズムへの暴力的な雪崩れの襲来の季節でもあった。当時の世界の近代国家に、全体的な規模で展開されていた政治ドラマの一幕が、未成熟な日本の社会をも襲ったのである。「白虹事件」はそのひとつの頂点であった。

 大正デモクラシーの時期区分や歴史用語としての適確性については諸説あるが、大正年号の一九一二年(大1)から一九二六(大15、昭1)を中心とし、特にロシア革命の翌年で第一次大戦が終った一九一八年に時代の転換点を見ることに関しては、ほぼ異論はないようである。

 政治的に目立つ成果は一九二五年(大14)の(男子)普通選挙法実現であるが、注目すべきことには、同時に悪名高い治安維持法も成立している。

 メディアの世界では同年、半官半民の社団法人東京放送局が発足し、のちに大阪・名古屋との合同によって日本放送協会の独占体制が確立する。経済学では一九二〇年前後を日本のいわゆる帝国主義、または国家独占資本主義の確立、具体的には国家権力と独占資本の癒着関係が深まった時期としている。

 このような世界規模の革命、または民主主義とファッシズムの激突期に際して、日本の大手メディアは、ただ単に被害者にとどまっていたばかりではない。抵抗もしているが、みずから積極的に体制側に荷担する場合も多かった。それだけ矛盾に満ちた時代だったのである。だから、松山の読売経営そのものだけを追ってみても、時代の必然的な流れはつかみにくい。その前に、当時のメディアの全体像を押えておく必要がある。その意味で本書では、松山の読売経営を見る前に「白虹事件」と、それに続く「大正日日」の幕間狂言を紹介したのである。

 松山は決して独裁型の新聞経営者ではなかった。以上のような時代の大波に揺られながら、読売の再生と発展に八方手をつくして、着実な成功を収めた。だが、不幸にして、最後には予測すべくもなかった関東大震災を契機として、奈落の底にたたき落とされてしまったのである。

 以下、松山が正力に取って代わられる原因が、決して新聞経営の能力によるものではなっかったことを確認するために、再び読売自身の社史の記述に沿って、松山経営の読売の有様を要約してみよう。


(3-7)朝日を仮想敵とみなして抜き返しを図った読売再生策の成功