『読売新聞・歴史検証』(1-2)

第一部 「文学新聞」読売の最初の半世紀

電網木村書店 Web無料公開 2003.12.1

第一章 近代日本メディアの曙 2

文学の香りに満ちて銀座の一時代を築いた明治文化の華

 読売の社史には、『読売新聞八十年史』、『読売新聞百年史』、『読売新聞百二十年史』の三種がある。以下、本書では、それぞれから、こもごも都合に応じて引用する。

 全体として見ると、それぞれが一冊の豪華本にまとめられているので、勢い、正力松太郎「乗りこみ」以前の歴史部分が縮小されていく傾向にある。ただし、長さだけにとどまらず、評価も変化している。『読売新聞八十年史』は、正力が社主として存命中に編集発行された。『読売新聞百年史』の方は、正力の没後、務台光雄社長時代のものである。正力も務台も、ともに独裁的権限をふるってたから、社史には、その影響が強く残っている。ところが面白いことに、一九五五年(昭30)という発行年度には、まだまだ戦後に起きた歴史感の民主化の影響が残っていたのであろうか、正力を必要以上に持ち上げる部分を除けば、『読売新聞八十年史』の方に、二一年後の一九七六年(昭51)に発行された『読売新聞百年史』よりも、生き生きした描写が多いのである。『読売新聞百二十年史』ともなれば縮小の度が激しくて、歴史部分の材料にはならない。現在の社長、ナベツネこと渡辺恒雄の独裁的編集によるものなので、問題点はのちに記す。

 さて、話を歴史に戻すと、読売は最初から東京の芝琴平町で発行され、その後、京橋に進出した。当時の町名は京橋だが、その後、銀座になっている。

 芝琴平町で最初は隔日刊二〇〇部で発行しはじめ、鈴を鳴らして街頭で売り歩いたのだが、『新聞販売百年史』によると、「紙面が大衆に認められるにつれ、部数も増え」、半年後には日刊になった。しかも、「なんと二万部の多きに達して大小新聞中、その発行部数はトップとなった。まさに驚異的な伸張というべきであろう」とまで特筆されている。部数のことだけではなくて、「小新聞の中でも読売新聞は社格も高く」と評価されている。さらに、この年には大阪にも販売店ができて、「一日ざっと六百枚を売った」とある。

 三年後の西南の役報道でも、読売は、号外三万部と他を圧倒し、本紙二万六〇〇部に達した。その翌年には、さらに二万二〇〇〇部と東京での最高記録を更新した。そこで銀座に新社屋を構えたのだから、読売の創刊時の経営政策は大成功だったといえよう。

『日本新聞百年史』では「新聞の黄金時代」という見出しを立てて、こう記している。

「いうまでもなく、銀座は今も昔も変らぬ首都東京の中心地である。“土一升に金一升”の高価な地代は相当の支出である。ほとんどが商売抜きで創刊され、収支のほども定かでなかった新聞社が、そろって銀座に集中してきたことは、よほど新聞社の経営に余力がついてきたことを証明しているようなものである。当時は、四千部も発行すれば新聞社の経営は楽にできたといわれた時代で、このとき東京日日新聞が七、八千部、朝野が一万部あまり、小新聞の読売は二万部をはるかに越えていたのだから、いわば新聞の黄金時代だったわけである」

 今とは桁こそ違うが、読売にはすでに明治初年、部数トップの「はなやか」な時代があったのだ。子安社長が実業界、社交界で華々しい活躍を繰り広げることができたのは、この初期の成功あればこそであった。

 だが、「新聞の黄金時代」は同時に、今にいたるメディア同士の競争時代の幕開けでもあった。読売は「俗談平話」を根本方針とする小新聞(こしんぶん)として出発し、それ以前からの政論をこととする大新聞(おおしんぶん)を追い上げた。西南の役、自由民権運動の嵐のなかで、小新聞も政論をまじえるようになる。一八七九年(明12)には、現在の社説に相当する「読売雑譚」(よみうりざふだん)という欄も設けられた。

 販売競争も激化した。部数は他紙とシーソーゲームを演ずるようになった。明治初期の「黄金時代」の終りは、読売にとってだけのことではなかった。一八八一(明14)年からは、新しい紙面競争の時代に入る。

『新聞販売百年史』では、つぎのような競争の激化を指摘する。

「明治一八年頃は『小新聞』で互いに競争して、読者の吸収に集中した時代で、互いに活字の改良、速報体制の確立をはじめ、小説挿絵の重視、題号の改良、逓送無料の配達等々と、苦心を重ねたものであった」

 この競争のなかで、一時は読売も読者を他紙に奪われるが、これを教訓にして「文学新聞」への道が開かれた。

 読売は一八八六年(明19)に、オネー作『鍛冶場の主人』の翻訳小説連載によって、定期読者の確保をはかった。これは、シェークスピア紹介で知られる坪内逍遥の発案だといわれている。読売はまた、のちに衆議院議員、文部大臣、貴族院議員、早稲田大学学長などとなる教育者の高田早苗を主筆に招いた。高田主筆は、坪内逍遥、尾崎紅葉、幸田露伴、森鴎外らにつぎつぎと執筆させた。熱海の名所、お宮の松に名を残す尾崎紅葉の『金色夜叉』は、読売の連載小説として成功したものである。『読売新聞八十年史』では、この時期を、つぎのように描いている。

「ここにおいて、その退勢をばん回しようとして試みたのが、明治二〇[一八八七]年の主筆高田早苗の招請であり、高田と坪内逍遥合作になる文学新聞としての発足であった。すなわち、坪内逍遥、尾崎紅葉、幸田露伴の三文豪が期せずして本社に集まり、それに森鴎外を加えて、小説では紅葉・露伴時代を、文芸評論では逍遥・鴎外時代を現出したのであった。

 紅葉の入社によって硯友社一派はことごとく本紙に筆をとり、本紙の小説、評論はいよいよ活況を呈し、ことに、明治三〇[一八九七]年一月、紅葉が力作『金色夜叉』を執筆するに及んで、読者はひでりに雨雲をのぞむが如く、読売の紅葉か、紅葉の読売かとまでいわれるに至り、ここに文学新聞としての評価は定まったのである」


(1-3)国会開設の世論形成から社会主義の紹介に至る思想の激動期