『読売新聞・歴史検証』(1-3)

第一部 「文学新聞」読売の最初の半世紀

電網木村書店 Web無料公開 2003.12.1

第一章 近代日本メディアの曙 3

国会開設の世論形成から社会主義の紹介に至る思想の激動期

『読売新聞八十年史』では、つぎのような「高級紙」化の努力をも強調している。

「高田主筆は、本紙を文学新聞として育成する一方、明治二三[一八九〇]年の国会開設を機として、憲法、国会に対する読者の啓発に自ら論陣を張り、落潮の本紙をして高尚な指導性を持ったものに改編し、大衆新聞から中流以上、特に知識階級に読者層を開拓した。この策は一応当って、本紙は一万五千部内外で第四、五位にあった」

 一八九八年(明31)以後には、文芸欄を含む社会部長に、島村抱月、徳田秋声という自然主義文学の中心人物が就任した。読売はさながら、自然主義文学の本部のごとくであったという。小杉天外の大胆な恋愛小説『魔風戀風』が連載された。正宗白鳥が日曜版の編集長となり、文芸評論にも筆をふるいはじめた。

 一九〇四年(明37)から翌五年にかけては、日露戦争が起きた。

 日露戦争の際には、『君死にたもうことなかれ』の詩で有名な与謝野晶子らのように、反戦の声をあげる文化人が多かった。開戦以前から主戦論に反対し、「非戦論」を掲げていた幸徳秋水、堺利彦らは「平民社」を結成した。反戦論者のトルストイをはじめとするロシア文学者への関心が、急速に高まったのも、そのような時代風潮の典型的な表われであった。トルストイ、チェホフ、プーシキンらに関する記事が、読売の文芸欄をにぎわし、ゴリキーの『コサックの少女』が徳田秋声訳で掲載された。

 その後、河上肇も読売に入社し、「千山万楼主人」のペンネームで『社会主義評論』を連載した。内容は、社会主義思想の歴史的説明にしかすぎなかったが、いわゆる“冬の時代”の開幕期のことだっただけに、大評判となった。『読売新聞百年史』によれば、のちの日本共産党初代委員長、堺利彦は、当時の読売の足立主筆への手紙のなかで、つぎのように記していた。

「読売の如き紙上において社会主義が評論せらるるは(とくに公平の態度をもって評論せらるるは)、われわれの深く感謝するところであります」

 読売で育った記者たちも健筆家ぞろいだった。当時の読売の内情そのものについても、上司小剣の『U新聞年代記』や青野季吉の『ある時代の群像』(のち『一九一九年』に改題)による具体的な描写が残されている。

 上司の文壇における交際範囲はひろく、そのなかには、のちに“冬の時代”の到来を画した「大逆事件」で死刑に処せられる運命の幸徳秋水もいた。大逆事件は、一九一〇年(明33)に告訴、翌年の判決で即処刑という、典型的な弾圧目的のデッチ上げ冤罪事件であった。中心的に狙われたのは社会主義的な運動と思想であったが、結果は当然のこととして自由な言論全体への弾圧につながり、メディアにも強い影響を与えることになった。

『U新聞年代記』では、渦中の幸徳から読売の編集局宛てに手紙が届いたときのことを、手紙の全文を引用しつつ、たんたんと記している。手紙の内容は、上司が幸徳の恋愛事件をモデルにした小説を書いたことに関するものだが、その終りはこうなっている。

「検事の方から控訴したから多分体刑になるだろう、入獄前に会って大いに語ろう。
 作者自身(手紙を卓上におき)『あゝア。……』[中略]
 政治部の若い記者『幸徳さんの手紙ですか。新聞の種になるようなもんじゃありませんか。
[中略]あの人は少年の時、小説家を目的にして上京したんですってね』」

 上司自身も、二〇代に堺利彦をたよって上京した文学青年で、平民社の一員でもあった。

「文学新聞」の伝統は以後二〇年近くつづいた。のちにプロレタリア文学で名を残す青野李吉は、大逆事件以後の一九一五年(大4)に入社する。このときすでに、第一次世界大戦(一九一四~一九一八年)が始まっていた。青野は私小説『一九一九年』のなかで、先輩記者の上司小剣を、Y社(読売)の編集長格の庄司という作中人物として描いている。青野は、上司をつぎのように観察していた。

「文学界におおきな地位を占めていて、早くから社会小説風の作風で、特色を発揮していた」

「何時も洗練された皮肉と、直截な観察で、人々を一段と高いところから見下している風があった」

 青野はまた、義一(自分)がY社(読売)に入った時の感想をも、詳しく記している。新聞社の仕事自体に「生きた社会に潜入する興味」を抱いてはいたが、読売に関してはそれだけではない。

「そういう一般的な理由の外に、Y[読売]社だけに関する特殊な理由があった。この社の新聞は、日本で唯一の文化主義の新聞で、たとえば文芸とか、科学とか、婦人問題とかいった方面に、特に長い間啓蒙的な努力を払ってきた。だから、Y[読売]新聞といえば、文芸学術の新聞として、一般に世間に知られていた。また事実、社の内部でも、そういった文化主義的な空気が、他のさまざまな、たとえば営利主義的な空気とか、卑俗なジャーナリズムの空気とかの間にあって、最も濃厚で、支配的であった。その文化主義的な伝統が、義一には直接の環境として、決して、快適でないものではなかったのだ。この新聞で仕事をすることが、何らか、日本の文化の発達といったものに奉仕する所以だと、まあそういった風に考えられたのだ」

 ここで実に面白いのは、「ジャーナリズム」の形容が「卑俗」となっていることだ。青野の時代には、「ジャーナリズム」が「日刊」「速報」の原意通りに解釈され、その「事件屋」的な底の浅さが軽蔑されていたのである。


第二章 武家の商法による創業者時代の終り
(2-1)本野子爵家の私有財産化した読売の古い経営体質の矛盾