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『1946年、北京から引揚げ船で送還された“少年A”の物語』7-2

クリークの氷は毎日溶けては薄くなっていた

 僕にも危険がよく分っていた。氷は毎日溶けては薄くなっていた。ドブ川でも落ちこんだ子供がいたし、クリークの氷は物々交換に来る中国人の舟に何度も割られて、一層弱くなっている筈だった。チビはそんなことを気にする様子もなく、悪戯っぽい笑いを見せて振り返り、向う岸を目指すのだった。独りのチビは味噌っかすではなかった。誰もいない広いクリークの氷の上をチビは力いっぱいすべっていった。だが真中辺で、水は鋭い音を立てて裂け目を走らせた。チビは音もなく倒れ、その割れ目に姿を消した。そして次の瞬間にはチビを呑みこんだ氷はもう、元の位置にかえって、持ち上げた氷をゆるゆると振るい落としていた。

 チカラさんは鉄条網をくぐろうと素早く身をかがめた。運動なら何でも来いという若々しいチカラさんにとって、それはいともたやすい動作に違いなかった。だがそのために慎重さを欠いていた。チカラさんは駆けっこのほてりをさまそうと、皮ジャンパーの胸をはだけていた。そのことに気を配る余裕がなかったのかもしれないが、ともかく忘れていたのだ。鉄条網のトゲは先ずその裏のすり切れた羊の毛皮にしっかりと喰いいって、チカラさんを引き戻した。そしてチカラさんがいきり立って引っぱると、表の古皮に固くささってしまったのだ。あせって身をもがくチカラさんの頬は紅潮し、眼尻は引き上げられた。

 僕は言葉にならぬ叫びを上げ、全身の血をたぎらして焦った。しかし鉄条網は杭までふるわして怒り猛っていた。僕は近づくことさえ出来なかった。いつものほがらかな優しいチカラさんは其処にいなかった。そして狂ったように血だらけの手を振りまわしている若者は僕の存在を無視しているようだった。僕はうなり声を立てる鉄条網のトゲを恐れたのではなかった。ただそこには、僕の理解を越えた凄じいものがあって、僕を寄せつけなかったのだ。隣り合った杭がメリメリと音を立てて倒れた。チカラさんは倒れた鉄条を引っぱってなおも闘っていた。

 僕はその闘いとは違う激しい物音が急速に近づいてくるのを感じて振り返った。ぶらさげた鉄砲をカタカタと不吉にならして、牛のように頑丈な中国兵が走ってくるのだ。僕はそれまでに荒れ狂っていた恐怖の予感がはじめて形をとり、僕の全身を侵すのを知った。


(7)-3 僕等の恐怖と狂気が中国兵に乗り移ったへ進む┃


資料編 第11回(メルマガ2008年10月16日号分)

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写真1:著者の幼年時代(北京に渡る前のものです)

図版2:『ボクの満州 漫画家たちの敗戦体験』中国引揚げ漫画家の会編 亜紀書房 1995年7月26日
詳しい内容は目次と執筆者紹介参照(別ページが開きます)
「中国引揚げ漫画家の会」には第14回に引用の『中国からの引揚げ少年たちの記憶』ミナトレナトスもあります。

「●2008年8月11日 朝日新聞夕刊14面「街 メガロポリス 人」に次の記事がありました。
「日本兵が銃殺される現場ぼくは見てしまった
 中国東北部(旧満州)で過ごした幼年時代や、敗戦の混乱の中での引き揚げ体験とその後を、漫画「丸出だめ夫」などで知られる森田拳次さん(69)=写真、横浜市金沢区=が「だめ夫伝―我思我(われおもうわが)漫画的人生」にまとめた。東京の出版社が企画した漫画家の引き揚げ体験記録の第1弾。第2弾は「釣りバカ日誌」の北見けんいちさん(67)を予定している。 (隅田佳孝)
引き揚げ体験「だめ夫伝」
漫画家森田さん「いつも犠牲は子ども」
 森田さんは1939年、生後3カ月で両親に連れられて旧満州・奉天(藩陽)に渡った。45年8月、ソ連軍が侵攻。日本人男性は連行され、女性は男装してソ連兵の目を逃れるように過ごした。6歳だった森田さんは日本兵がソ連兵に銃殺されるのも見た。
引き揚げが始まると、3歳だった弟を「500円で売れ」と中国人が訪ねてきた…(以下別ページへ)

●上記の「日本兵が銃殺される現場」に関連して
図版3:『北京収容所 私の獄中日記』 佐藤亮一 サイマル出版会 1986年12月
(終戦後に河出書房、荒地出版社から刊行され絶版となっていた旧版の改版)

「●カバーより引用:
一九四六年四月、従軍記者であった私は、理由もわからぬまま突然、国民軍憲兵にとらえられた。蒋介石主席の「暴に報ゆるに寛容と温情を以ってし……」の布告にもかかわらず、日本軍武装解除をともに、北京は略奪、暴行、日本人・漢奸狩りの、百鬼夜行の府と化していた。
奇怪な“復讐”裁判、刑場に引かれていく同室の“戦犯”たち、金に左右される獄吏や役人、酷寒酷暑と無残な食事――この運命的な獄中体験を私は克明にメモし、中国服のなかに秘めて命がけで持ち帰った……。       ――著者

「林語堂『北京好日』、リンドバーグ『翼よ、あれがパリの灯だ』、チャーチル『第二次世界大戦史』、バターフィールド『中国人』など160点に及ぶ名翻訳で知られ、〈国際翻訳大賞〉を受賞した著者は、日中戦争下、毎日新聞特派員として中国戦線を取材、終戦・国共相克の混乱のなかで抑留された。
これは、そのときの苛酷な体験を綴った獄中日記で、戦争が残した傷跡の記録である。

「●著者紹介より引用:
佐藤亮一 翻訳家。日本翻訳家協会副会長
1907年青森県に生まれ、慶應義塾大学を卒業。時事新報社を経て毎日新聞記者。戦時中は、従軍記者として中国戦線を取材報道した。慶大・慈恵医大講師、共立女子大教授をつとめた。数々のヒット作、名作の翻訳者として知られ、84年には、国債翻訳家連盟から〈国際翻訳大賞〉を受賞。
『北欧・フィヨルド紀行』などの著書のほか、チャーチル『第二次世界大戦史』、リンドバーグ『翼よ、あれがパリの灯だ』、林語堂『北京好日』、パール・バック『大地』、ウィノカー『SOSタイタニック』、バターフィールド『中国人』など、多数の訳書がある。

図版4:『14歳の眼がとらえた 戦争・狂気の時代 「鬼畜米英」から「一億層懺悔」に至る逆転の舞台劇!』 岡健一 光人社 2003年10月26日発行

「●プロローグ――狂気の凄い時代だった(7頁~より抜粋引用)
 物心ついた頃、多分、五歳くらいの頃だと思うが、すでに戦争が始まっていた。支那事変(日中戦争)である。
小学校が国民学校となり、その四年生の時、真珠湾の奇襲で、太平洋戦争(当時は、大東亜戦争と呼ばれていた)が始まり、中学(旧制)で勉強したのは一年生の一学期だけで、中学二年・一四歳の夏、戦争が終わるまで、勤労学徒として農山村で、敵の上陸予想海岸で、そして海軍軍需工場での厳しい労働に明け暮れた。
そして八月一五日を境に、一八〇度の方向転換。何がどうなるのか、一四歳の少年の頭では想像すらできなかったが、ひもじい空腹はいつまでも続いていた。
戦場で敵兵と直接戦うことはなかったが、連夜の空襲警報のサイレンの恐怖の下でのひもじい生活と激しい労働は、すべて戦場と連動していた。
(中略)
「何も知らされない時代」「知る手段が何もない時代」の中にいた子供、そして神話と軍国主義一色の教科書を使って行なわれた学校教育の中にいた子供は、どういう大人になっていったかを記してみたい。
私たちはごく自然に、水の流れに身をまかせるように、軍国少年に育っていったのであった。ある日を境に突然、軍国少年に変身したわけではない。
「洗脳」とか「マインドコントロール」といった言葉は、いずれも戦後のものであり、誰からも洗脳されたり、マインドコントロールされたわけではない。ごく自然にである。僅かな情報と少国民(年少の国民)教育、そして敵愾心を煽る歌唱指導や強烈なスローガンの中で、軍国少年が育まれた。
物心ついたときには「戦争」の中におり、その「戦争」は次第に膨らみ、生活は少しずつ苦しくなっていった。
特に食べ物である。食べ物は次第に少なくなり、配給制になり、その配給量は日を追うごとに少なくなり、遅配、欠配と続き、遂に底をついた。
食べ物をはじめとする生活物資の窮乏の下降カーブは、このように「徐々に、少しずつ、段階的」に進められたので、ある種の馴れとあきらめが日常になっていた。
(中略)
敗戦によるコペルニクス的転回の事例を、何としても書き留めておきたいと思う。
敗戦一年前に、「比島(フィリッピン)決戦の歌」が作られ、私たちは大きな声で、
「♪いざ来い ニミッツ マッカーサー 出て来りゃ 地獄へ 逆落とし」
と歌いまくっていた。
敗戦の年・昭和二〇年(一九四五年)の二月には、ラジオで歌唱指導が行なわれ、私たちも、動員先での作業開始の時に歌い続けていた。
そして、敗戦。
“地獄へ逆落とし”しようとした当のマッカーサーが日本占領軍の最高司令官として、私の家の隣町である大和・綾瀬町にある海軍厚木基地に降り立ってからほぼ一年後。占領軍総司令部が最初に置かれた横浜の闇市跡の野毛に、新しい映画館が開設されたが、なんとその名称は「マッカーサー劇場」。
(後略)


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