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『1946年、北京から引揚げ船で送還された“少年A”の物語』6

妹が生まれて、和代 ― 平和な時代、という名がつけられた

 二月になると母が入院したので、ドブ川の氷を横目で見ながら、反対側にある病院に通うのが僕の日課になった。湯タンポを運ぶのだ。夕方に熱湯を入れて、朝は途中で冷えた中身をぶちまけながら持ち帰るのだ。新しく生れてくる弟か妹を期待して僕は責任感から急に大人になったようだった。その上、僕等は男手だけで食事の用意をした。隣の小母さんも時々手伝ってくれたが、貧しくまちまちな材料のために、一緒に料理することは出来なかった。チカラさんはカレーライスが得意だった。僕は大騒ぎして手伝いながら、誇らしく張り切っていた。

 この充実した時は、まもなく頂点を極めることになった。僕の妹が生れたのだ。真赤な湯気の立つ顔をしかめて泣きわめく小さな妹だった。チカラさんは僕のことを、これからお兄さんとよぶことにしよう、と言った。

「兵隊さんがみんな負けちゃったのに、中隊長が一人だけ残ってちゃおかしいからな。」

 僕は中隊長と呼ばれるのも、威勢が良くて悪い気はしなかったのだが、妹が出来たのだから、お兄さんは満足だった。

「うん、いいよ。」

と僕は答えた。すると看護婦が、

「お兄ちゃん、おいくつ。」

なんて気取った口をきいたので、急に面白くなくなった。しかし、妹を抱いてあやしている看護婦を怒るわけにはいかなかった。

 小さい妹には、和代、という名がつけられた。平和な時代になったから、と父は説明してくれた。戦争が終ったら平和になるのだ。戦争は国と国との喧嘩だから、平和になると、国と国は仲良しになるのだろうと思った。


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資料編 第9回(メルマガ2008年10月2日号分)

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写真1:著者の幼年時代の家族写真(北京に渡る前のものです)

図版2:佐野洋子『こども』の表紙
さのようこ/絵本作家・エッセイスト。一九三八年北京生まれ。武蔵野美術大学デザイン科卒。一九六九年ベルリン造形大学でリトグラフを学ぶ。絵本に『わたしのぼうし』『百万回生きたねこ』エッセイ集に『わたしの猫たち許してほしい』『アカシヤ・からたち・麦畑』等がある。(『こども』リブロポート 1984年6月15日の奥付より引用)
『こども』:北京で過ごした幼年時代が描かれている。グルトーゲンのミルク 北京大学の病院 干しなつめいりのむしパン チャーガオ屋 ラクダ 水屋 あひる 万寿山 アマ ヤンチョ コウリャン畑 兵隊さん 桜のやに……

●文庫版『こども』(1990年4月5日 福武書店)の後書きを引用
《(前略)……しかし『こども』はどうも妙な本である。
エッセイでもなければ小説でもなく、童話でもないし思い出話でもない。いってみれば素描集の様なものかも知れない。
『こども』は『わたしが妹だったとき』という作品の背景にあった現実ではないかと思ってみたり、あの時しか書けなかったのだとも思うのだが、もう仕方ない。
『こども』の中で私は「支那人」「あま」という言葉を使っているが、あえて「中国人」「お手伝いさん」という言葉には言い換えなかった。子供のとき、私はそれ以外の言葉を知らなかった。『こども』を私は一九三〇年代から一九四〇年代初めにかけて中国に住んでいた子供の視点で書いた。いま私はそういう言葉は使わないし、使ってはならないとも思う。
東洋史を専攻し、中国の農村慣行調査という仕事をしていた父は、中国の悠大な歴史と国民性について、多分とても深い理解を持っていた日本人の一人であったことを、私は誇りに思っているが、その父でさえ「中国人」という言葉は知らなかったと思う。あの時代、私たち日本人が中国にとってどの様な存在であったかという事実を私はごまかしたくない。》

関連する著作
『わたしが妹だったとき』(偕成社 1988年) 幼年期の作者にとって「重大な」存在であった兄とのかかわりを描いた童話。
『右の心臓』(リブロポート 1988年10月29日) 引揚げ後、身を寄せた父の実家で小さくなって暮らしているうち、「重大な存在であった兄」を病気で失う。
『アカシア・からたち・麦畑』(文化出版局 昭和58(1983)年1月30日) 北京・大連での幼年時代、引揚げ後の田舎での生活から画学生時代まで。
『私の猫たち許してほしい』ちくま文庫 1990年8月28日など

「私の猫たち許してほしい」103~105頁から引用
(前略)
引き揚げ船の中で出された初めての食事は、さばと大根の入っているおじやだった。巨大なたるの中にそれは入っていて、大きなひしゃくで、家族が持ってきたなべの中に流しこまれた。
そのおじやが米であることに、私たちは感激した。おじやはねっとりして甘かった。パサパサしたコーリャンのおかゆや、とうもろこしの団子を食べていた私たちに、米のねばりは、心からの充足と、これから帰る日本への希望を与えてくれた。私は次の食事を待ちのぞみ、アルミのおわんを、洗う必要のないほどなめつくした。
私はその食事以外に何ものぞまなかった。
貨物船の船底は荷物がびっしりとうまり、その間に、人が荷物によりかかって坐っていた。荷物によりかかって人々は眠り、昼も同じ姿勢でほとんど身動きが出来ないのだった。
私のとなりに、ひどく年とった老婆がいた。彼女は小さくまるまってうずくまっていた。彼女は歩けないほど年とっていたので、甲板のトイレに行くときは、息子の背中にくくりつけられた。彼女はうずくまったままボソボソ何か言っていた。いつも同じことを言っているのだった。
「おすしが食べたいよう、おすしが食べたいよう」
「内地にかえったらね」
息子の奥さんがいう。
「おすしが食べたいよう」
「もうすぐだからね」
それでもおばあさんは根気よく、「おすしが食べたいよう」をくり返すのだった。
あんなおいしい大根とさばのおじやがあるのに、私はおばあさんがぜいたくでわがままだと思った。
ある朝、目がさめると、私の横に灰色の毛布でくるくる巻かれたものが横たわっていた。毛布の両はしがひもでしばってあった。昨夜、私が寝ているうちに死んだおばあさんだった。二日ほど、毛布でくるまれたおばあさんは私の横にいた。海の様子が悪くて、船はなかなか日本に着かないのだ。息子はおばあさんをかついで、甲板に上がっていった。
はしごをのぼってゆく息子は、巨大なのり巻きをかついでいるようだった。海に捨てにいったのだ。  (後略)

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図版3:『北京の碧い空を わたしの生きた昭和』小澤さくら 二期出版 1991年4月25日 
指揮者小澤征爾氏の母小澤さくらさんの体験を四男の幹雄氏が聞き書きしたもの。征爾氏は三男。家族と過ごした戦前戦中の北京時代、昭和16年に引き揚げてきてからの空襲、戦後の物資不足の中での生活など、苦難までもが楽しげな口調でつづられている。

図版4:『北京の想い出 1926-1938』A Memoir of Peking Life アイダ・プルーイット著 山口 守訳 平凡社 1990年10月8日

アイダ・プルーイット:1888年アメリカ人宣教師の娘として中国山東省蓬莱に生まれ幼年時代を中国で過ごし、教育を受けるためアメリカに渡り、1919年北京協和医学院のソーシャルワークの責任者として再び中国へ。以後18年間を医学院で働く。英語と中国語のバイリンガルであっただけでなく、西洋文化と中国文化との対比においてバイカルチュラルであった。(訳者あとがきより抜き出し)


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