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『1946年、北京から引揚げ船で送還された“少年A”の物語』4-2

日本は戦争に敗けたんだから、喧嘩なんかしてはいけないよ

 収容所の水はきれいでおいしかった。母は着いてまもなく元気を取り戻し、その水を豊かに使って食器を洗うのだった。そして汚れた手を洗いにいく僕に万寿山の水だと教えてくれた。あのエビまでも透明にしてしまう万寿山の池の水が流れて来ているのだ。母は続けて、日本に帰れば何処でもこれ位にきれいなおいしい水が湧き出している、というのだった。僕は内地の小川の水を思い出した。公園はどんなのがあったか覚えていなかった。だが、きっと万寿山のように広いのが沢山あるに違いないと思った。

 収容所は道路を挟んで両側に拡がっていた。僕等のいた側には濁ったドブ川が流れていた。そして両方とも鉄条網で囲まれ、向い合った入口には中国兵が鉄砲を持って立っていた。小川は濁ってねずみ色だったが、それでもたんねんに掬っていくと小さい魚が取れるのだった。収容所で出来た友達のチビと、毎日のように掬いに行った。他にすることもないのだ。タバコの空箱を潰したメンコも流行った。僕等は近所を回って空箱を集め、取ったり取られたりを繰り返した。学校がないので、僕のランドセルはそのメンコの入れ物になった。僕はそれを満たすことを夢見た。僕等は新しい遊びを考え出すのに熱心だった。何しろ遊ぶ以外にすることがないのだ。そして何かといっては喧嘩になった。すると、大人達は学校が必要だと言い、

「日本は戦争に敗けたんだから、喧嘩なんかしてはいけないよ。」

と言うのだ。これが以前だったら、僕等が喧嘩していても、ずるいことさえしなければ、誰も止めなかったのに、なぜ戦争に負けると喧嘩してはいけなくなるのか分らなかった。だが、大人達にそう言われると、なんとなく元気がなくなって、口喧嘩だけで背を向けてしまうのだった。

 僕は喧嘩が好きだったから、面白くなかった。意気地なしになったような気がした。以前なら負けて帰っても、チカラさんが赤チンをつけてくれながら、

「今日は負けたらしいな、中隊長。そうか。よし。負けてもええんだ。堂々と闘ったろうな。よし。男の子には意地ってもんがなくちゃいかん。そうだな、中隊長。」

 こう言って僕の背中をどやしたのだ。だから僕は負けてもくやしくなかったし、勝った時だって、相手がずるいことをしなかったら、すぐに仲良しになれるのだった。

「チカラは若僧のくせに良いことを言う。」

と父が言っていたから、チカラさんの言うことを聞いていれば間違いはないと思っていた。チカラさんは僕の叔父さんであり、兄貴だった。だがそのチカラさんは、収容所へ入って以来、僕が何か聞いてもはっきりした返事をしてくれないし、向うから話しかけてくることも少なかった。

「チカラさんはね、日本が戦争で負けたことが残念でしかたないよの。」

と母は言った。チカラさんは残念だから考え込んでいるのだろうか。きっと学校の先生達のように何かをぶちこわして、投げつけたい気持なのだろう。僕はそんなことを想像して、僕自身も重大なことを考えている気分になった。しかしそれは面白いことではなかった。街で兵隊さんに会って敬礼したり、観閲式の指揮をとったりすることの方が気分が良くて、面白いと思ったのだ。


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資料編 第6回(メルマガ2008年9月11日号分)

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写真1:『戦時下の子どもたち』太平洋戦争研究会 ビジネス社 2006年12月13日 56頁「ワレラ皇軍、勝チ抜クゾ」より引用

写真2:同 57頁「ワレラ皇軍、勝チ抜クゾ」より引用

図版3:『北京西郊収容所』草川 俊 光風社文庫 1995年9月10日(初版は1978年ハードカバー)

カバー裏面より「敗戦直後の未曽有の混乱状況は、中国大陸に農業技術普及のために渡り、各地で農民と接しながら力強く大地に根を張ろうとしていた一人の邦人を襲う。…変わり果てているであろう日本に引揚げるか、このまま大陸に残って骨を埋めるか、揺れる心情を描き切る。」

北京西郊収容所とは、引揚げ邦人の集結場所。著者は当時31歳。敗戦後の北京の様子、右玄龍将軍の河北省北西部のユートピア計画、関東州に戻って楽土を築こうとする満州人の富豪、呼応する日本人医師と看護婦たち、収容所内の華北交通の天幕村や武装解除されて丸腰の日本兵、ルパシカをまとい思想関係の本を売る俄か古本屋などが描かれている。

草川 俊(くさかわ・しゅん)
●『花の名随筆 11 十一月の花』大岡信/田中澄江/塚谷裕一監修 1999年10月10日 の著者紹介より引用
草川 俊(くさかわ・しゅん)一九一四年生まれ 小説家
宮城県生まれ。宇都宮高等農林学校卒。専攻は植物遺伝学。山梨県立農事試験場、満州棉花協会、華北交通などに勤務。現地応召をへて、四六年に帰国。「下界の会」「無頼」同人。著書に『黄色い運河』『大陸放浪記』など中国大陸を舞台とした小説をはじめ、『田園歳時記』ほか多数。

●『田園博物誌』草川俊 昭和51(1976)年1月30日 朝日新聞社 の著者経歴より引用
草川 俊 くさかわ しゅん 大正3年宮城県石巻市生まれ
昭和10年宇都宮高等農林学校卒業。山梨県立農事試験場,満州棉花協会,熱河省(現・河北省)興隆県,南満州鉄道株式会社北支事務局天津鉄路局,華北交通株式会社泊頭鉄路農場,同開封鉄路局,河南省政府などに勤務。昭和21年帰国して宮城県黒川郡宮床村(現・大和町)に入植,同22年より仙台に住み,26年に大宮市に移る。
著書 「黄色い運河」「長城線」「黄河の人」「大陸放浪記」「中国朋友伝」など。
日本文芸家協会会員
現住所 (略)

●『田園博物誌』では中国に関する記述がところどころに見られる。
同書81頁より以下を引用。
《ザクロ〈石榴〉ザクロ科
清涼飲料と漢方薬
六月の北京は日本の梅雨どきとちがって、明るい初夏の日がまぶしい。家ごとにある中庭のザクロが、濃い赤色の花をきそっている。昔から北京では中庭に一つのパターンがあった。ザクロとキョウチクトウの間に素焼きの鉢があり、その中に金魚が数匹泳いでいるという構図である。最近は多少変化したかもしれないが、長年つちかわれた生活のパターンは、新生中国になったからといって、あまり変化がなさそうな気もする。とにかく六月の北京は、目のさめるようなザクロの花盛りだ。(以下略)》

●インターネット情報によると、平成12(2000)年3月に亡くなりました。
『草川俊-直木賞候補作家-39KSH』
http://homepage1.nifty.com/naokiaward/kogun/kogun39KSH.htm


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