
食糧は支給してくれたが、アメリカでは家畜用だという噂のトウモロコシの粉が大部分だった。だから北京で用意してきた米がなくなると、鉄条網越しに中国人と物々交換して、米や高粱を手に入れた。僕はチカラさんと何度かそこに行った。チカラさんは中国語がうまいので、よその分まで頼まれるのだった。
鉄条網の内側は以前は錬兵場だった広い原っぱだが、外側もクリークを間にはさんで、荒れ地が続いていた。中国人達はそのクリークを小舟で渡ってくるのだった。そして中国兵が見廻りに来ると、さっと離れるのだった。別に怒られるということはなかったが、そういう時にこちらの品物だけを取って逃げられてしまうこともある、とチカラさんが言っていた。だから余計にチカラさんのように慣れた人に交換を頼むことになるのだ。
正月用にもち米が配給された。元気の良い大人達がそれを搗いた。僕はチカラさんが振り上げ振り下す杵の音を誇らしく聞き、正月の近づきを喜んだ。色の黒い粉だらけの餅ではあったが、みなはその一かけらずつに、日本に帰る思いを噛みしめるのだった。それに正月になって、中国の偉い人が来て演説をしたので、もう日本に帰る日を安心して待てる、というなおさら浮き立った雰囲気も生れた。
チカラさんは薪をけずってコマを作ってくれた。すると近所の子もせがみだしたので、しまいには手にまめが出来る程だった。原っぱにポツリポツリと寒さをかこっていた雑木で竹馬を作ることを教えてくれたのもチカラさんだった。それは釘を打つので折れやすかったが、僕等は柔毛を房々とのぞかせる防寒帽で寒さを忘れて跳ねまわった。ドブ川もクリークも氷を張って、僕等に置いてきたスケート靴を思い出させた。それでも僕等は運動靴のままドブ川の氷に飛び乗った。よくころんだが面白かった。鉄条網をくぐって、クリークの広い氷の上を滑りたかったのだが、それは許されなかった。