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『僕等は侵略者の子供達だった』資料編3

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『僕等は侵略者の子供達だった』資料編3(文章編)

木村書店WEB文庫『1946年、北京から引揚げ船で送還された"少年A”の物語』として無料公開しています。)

資料ページ(文章編)第3回/8回10回11回12回13回15回

第3回 該当本文『(3)-1収容所に向かうトラックは…

『検証・満州一九五四年夏 満蒙開拓団の終焉』

合田一道 扶桑社

目次
『北満農民救済記録』を片手に――はじめに、に代えて

第一章 ソ満国境に吹く風

突如、ソ連軍が侵攻/ソ連軍の戦車と見誤り、自決/霞城集落の集団自決/避難民を襲う群れ/満蒙開拓に新天地を求めた日本/国策としての大量移民団

第二章 ソ連軍に襲われて

トーチカに刻まれた遺書/戦闘に巻き込まれた哈達河開拓団/関東軍に見放され、集団自決/麻山の谷間の石ころ/死の淵から這い上がった姉妹

第三章 血塗られた開拓地

沖河開拓団の悲惨/死体の山、足が動いた!/祖国を前に引揚船内で死ぬ/病魔に食い尽くされた三股流開拓団/目を覆う死者の群れ

第四章 墓は松花江の流れ

散りぢりになって壊滅した南靠山開拓団/相楽悦子さんの数奇な運命/生か死かの馬太屯開拓団/二つの開拓団がたどった道/集団自決した小古洞開拓団/“人身御供”になった女性

第五章 略奪と暴行の開拓地

七割を超す死者の群れ/暴民の標的とされた開拓団/難民であふれる伊漢通/二つの日本人公墓/

第六章 凄惨、天理村開拓団

いまも姿を留める天理教教会/暴民の襲撃にさらされる/ソ連軍、男を集めて連行/“哈爾浜忠霊塔事件”/悲惨な越冬地の死/道端に立つ日本の鳥居

第七章 密林の置き去り

混迷の大青森郷開拓団/大密林の恐るべき決断/置き去りの人々を探す/敗戦から一か月後の集団自決/決死の哈爾浜行き

第八章 義勇軍から義勇隊へ

少年が書いた唯一の記録/中隊長と呼ばれた教育者の涙/開拓の花嫁たちの末路/磨刀石の戦いと“岸壁の母”/お腹の子を堕ろす/三千キロに刻まれた慟哭――あとがきに代えて/満州開拓関係年表

第8回 該当本文『(5)正月になって、浮き立った雰囲気が…

『昭和の戦争 ジャーナリストの証言1 日中戦争』

責任編集 松本重治 講談社 昭和61(1986)年4月25日

目次
◎視点

日中戦争 松本重治(同盟)
◎証言

I ~下剋上ここに極まる 日中戦争と陸軍 富岡鍵吉(朝日)
II ~中国大陸の邦字紙始末記 軍・政記者の北京七年 関原利夫(読売)
III 上海戦から南京攻略へ 前田雄二(同盟)
IV 日中戦争従軍記 林田重五郎(朝日)
V ハルビンの落日 竹田厳道(満州国通信)
VI 血ぬられた草原・ノモンハン 入江徳郎(朝日)

●年表 光井祐二(朝日)

『昭和の戦争 ジャーナリストの証言 7 引揚げ』

◎視点

六百万人の民族移動 松岡英夫(毎日)

◎証言

I 開拓団死の行進 麻田直樹(満州国通信)
II ――いつか帰る夢のふるさと 満州、その苦難の日々 望月百合子(満州日日)
III 中国残留日本人孤児 荒武一彦(毎日)
IV シベリア抑留記 桐島正弐(朝日)
V ――インドネシアからの引揚げ 「独立戦争」の渦中で 志道好秀(朝日)
VI 南方からの引揚げ・復員 斎藤申二(読売)
VII 北鮮脱出記 谷村幸彦(満州日報)

●年表 光井祐二(朝日)

第10回 該当本文『(7)-1暖かくなって、引揚げ船の噂が…

『天津の日本少年』「第三部 敗戦から引き揚げまで」

(278頁~293頁)からの抜書きによる八木哲郎氏の引揚げの状況

◎昭和21年2月15日

 《昭和二十一年二月十五日、青木徳三郎という、父と同年配ぐらいの支店長代理の人と若い社員が社宅を訪ねてきた。》

◎昭和21年2月15日

 《「きみたちは第十三大隊に編入されて帰国することが決まった。そのためにひとまず西郊(せいこう)に集結する。出発は二月十八日午後三時、会社のトラックで迎えに来る。それまでに、手荷物は衣類、布団だけにしてまとめておくように。きみたちには会社の人二人と付添婦をつけて内地に送り届けることになった。お父さんとお母さんは会社で責任をもって面倒をみるから心配しないように」》

◎昭和21年2月17日

 《昭和二十一年二月十七日、私と俊三と美津子は父と母の病院に行った。》

◎昭和21年2月18日

 《昭和二十一年二月十八日、その日は私の満十五歳の誕生日だった。私はこの日のことを一生忘れないだろう。 朝から集結の準備をはじめた。家具はあらかた売ってしまったから、部屋のなかにはほとんど何も残っていなかった。》

 《私の掌に数枚の紙幣が残ったとき、私は八木省蔵一家が崩壊したのを知った。きょうだいで外出着に着替えて待っていると、トラックが予定の時間かっきりにやってきた。》

 ガソリン・トラックは北京の街を疾駆して行った。いくぶん荒れたように威勢のいい社員の人たちが代わる代わる私たちを元気づけてくれた。もう怖いことはなにもないように思えた。西直門を出るとどこまでもつづく一本道だ。一路西郊へ。トラックは冬の原野を矢のようにつき進んでいった。》

 《北京から西へ約四十キロ、見渡すかぎり寂しい原野のなか、旧日本軍の施設と思われる地域のなかに、帰国の順番を待つ日本人たちが集結している一帯があった。私たち第十三大隊が収容されたのは公民館のような木造の建物で、大勢の人たちが広い床にアンペラを敷いておのおのわずかな空間をつくり、共同生活をしていた。まさに難民だった。》

◎昭和21年2月18日より2,3日後

 《それから二、三日たった早朝、私は夢うつつのまどろみのなかで公民館の入り口のドアを開けて人が入ってくる靴音を聞いた。》

 《「八木さんのお父さんとお母さんがお亡くなりになって、今晩お通夜だそうです。お子様方に至急北京にお越しになっていただきたいそうです。」》

 《父は二月二十三日、母は一日おいて二十五日に死んだという。》

◎昭和21年3月末以降

 《昭和二十一年三月末、私たちの引揚第十三大隊はいよいよ故国に引き揚げることになった。

 私たち兄弟の帰るべきところは東京だったが、東京は一面の焼け野原だと聞かされた。二子石の家も八木医院も無事かどうかわからない。そこで引揚当局は帰国先のはっきりしない者はとりあえず本籍地まで帰すという措置をとった。三井の人たちは引揚当局の言うとおりに私たちを本籍地である熊本に連れて帰ることに決め、九州出身者に付き添いを命じた。》

 《出発の日、私は首に白い更紗でくるんだ両親の遺骨を提げた。》

 《大隊は集合し、隊長の指示をうけて何台かの無蓋トラックに分乗した。私たちグループ以外にも数家族が乗り合わせた。トラックが走りだした。》

 《西直門の駅から有蓋の貨物列車にまるで家畜のように詰めこまれ、床に座ると立錐の余地もなくなった。(略)途中の駅で何度も何度も長い時間止まり、ガタゴトと通常かかる時間の何倍かの時間をかけて、すっかり夜が明けたころ、やっと天津の北停車場に着いた。》

 《そこには米軍がつくったカマボコ型の兵舎が何棟も建てられていた。私たちはこのカマボコ兵舎の一棟に押しこまれた。》

 《ここに三日ほどいただろうか。一人あたり三百円の新円を受け取った。旧紙幣の肩に切手のような印紙が貼ってあった。とにかくひさしぶりの日本の紙幣だった。 いよいよ出発の日、私たちは米軍の兵隊から一人ひとり、大きな自転車の空気入れみたいなものを両袖から挿しこまれてDDTを噴射され、体じゅうが真っ白になった。》

 《ここから溏沽(タンクー)に行くわけだが、今度は無蓋車だった。わずか一時間ちょっとで行けるはずの溏沽だが、貨車が途中で何度も止まり、いつ発車するかはわからない状態だった。》

 《ようやく溏沽(タンクー)の埠頭にたどり着いた。目のまえに米軍の上陸用船艇LSTが横づけされていた。 おびただしい引揚者と復員兵が長い行列をつくってタラップのまえに並んだ。》

 《乗船が開始された。突然ボリュームいっぱいに日本の歌謡曲が流れだした。「湖畔の宿」だった。》

 《出航のドラが鳴った。》

 《船が桟橋を静かに離れはじめると、船じゅうの人がデッキに出て右舷に鈴なりになったので、重みで船が危険なほど傾き、船員があわてて人びとを左舷に散らした。人びとが大陸に最後の訣別(決別)をしようと右舷に寄ったのである。》

 《このとき私ははじめて泣いた。滂沱(ぼうだ)として涙が頬を伝ってきた。悲しみがどんなに切ないものか、私はいやというほど知ったのだった。 こうして私は十五年の最初の人生を終えたのである。》

以上は抜書きです。原典を読むことをお勧めします。

第10回-2

『いのちの朝 -ある母の引揚げの記憶-』

中谷和男 TBSブリタニカ 1995年12月18日

215~218頁「著者あとがき」を全文引用

 世に氾濫する「戦争告発物」にだけはしたくない、過剰な事態をバネにしてしたたかに生きるひとつの女性像として、同じようにさまざまな試練を乗り越えながら、キラキラと生きようとしている若い、特に女性の命の指針になってほしい。

 長沢孝子の話を録音しながら、パソコンを叩きながら、わたしは思った。

 その頃日本では、戦後五〇年ということで、政治もメディアも、戦争責任をめぐって、またまたざわめいていた。しかし、それは国家という機構が負うべきなのか、個人にまで及ぶものなのか、その範囲がきわめて曖味なまま議論が進んでいるのではないか。長沢孝子は加害者なのか被害者なのか、死んだ長男義邦は、次男義則は加害者なのか被害者なのか、さらには長女久美子は、また幸せに未来を追い求めている二人のお孫さんまでも加害者なのか、あるいは被害者ならばどういう謝罪がなされようとしているのか。

 ドイツの場合は、少なくとも議会制民主主義のもと国民総意でヒトラーを選んだことになるのだから、一人ひとりがあげて戦争責任を負担し、戦後処理は明快にいわば無機的に処理することができた。それにひきかえ日本は、国民が法的に選出したわけでもない天皇によって、宣戦布告され、玉音放送で「耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍ぶ」ことを勅令され、さらには敗戦とともに、「象徴」という形で責任の範囲の外にはずれてしまったのだから、わたしたちはみな、加害者なのか被害者なのか曖昧模糊のまま放り出されて戸惑っている。わたしは少年期を広島で過ごし、原爆の閃光に傷つき倒れた多くの友人知人を持っている。彼らは原爆投下の日がくるたびに、ノーモアヒロシマと刻まれた記念日の前に額づきながら、一体自分は被害者なのか加害者なのかと、誰も回答を与えてくれない疑問に苛まれているのだ、五〇年もの間。

 大胆な言い方だが、わたしたちは、日本国民である前に、各々固有の氏名を持ち、人生を生きる個人なのである。その視点から、戦争責任というもの、あるいは生きる責任、権利というものをとらえる必要があるのではないか。あらためて指摘するまでもなく、責任感を持って生きている人々は、責任とか権利とかを自分ひとりでしっかり受け取め、消化しながら人生と闘っているのだろう。長沢孝子もそのひとりである。

 五〇年という歳月は一体何なのだろう。女性の描いた戦争告発物の古典に藤原ていの『流れる星は生きている』(中央公論社)がある。長沢孝子と同じ時期にほぼ同じ道程をたどっているようで、ぜひ比較しながら一読していただきたい。そこには戦争への怨念、人間に対する憎悪と憤怒と涙があふれていて、感性のヒダをかき回されて、読み続ける勇気を喪失し、わたしは何度か本を閉じた。昭和二四年という敗戦直後の「なまなましい」時期に書かれたためなのか。しかし中公文庫再録にあたっての昭和五一年のあとがきでも藤原は、「あれから三十年がすぎているというのに、引揚げの傷跡は、私の中に生きつづけているとみえて、幾晩か夢に苦しめられた。今更……と自分でも思いながら、夜をおそれた。何者かに追いまわされる恐怖で声を上げたりして、その自分の声で目覚めた時のむなしさ、切なさ」とある。

 長沢孝子には、こうした憎悪とか怨念とか涙とかがない。人間の資質の違いだろうか、経験した苦悩の大きさの違いだろうか。たしかに長沢は、物語を始めるにあたって、「一瞬一瞬を生き抜こうとする時の、その時噴き上がってくる人間の命の力っていえばよいのか、それはもう、物凄いと思う。苦しみが、生命の限界を超えてしまって、もう死ぬしかない状況に立ちいたった時、その極限の苦しみを麻痺させてくれるんですもの」と語っている。

 また長沢は、戦後の五〇年間に、未来を生きるうえで不要なものはどんどん切り捨て、忘却という沼にどんどん捨て去っていった。彼女には過去にしがみつきこだわり続ける執念とか怨念とかがまったくない。八○歳の今でも彼女には未来しかない。

 だからこそ、彼女の語りには、戦争告発物を超えた普遍性とか生きる指針のようなものがあるのだろう。

 長沢孝子の語った内容を、第三者である著者が文献で検証確認することは避けた。間違った記憶とか思い違いそのものにも、それなりの意昧があると判断したからだ。長沢は生きるために、意図的に思い違いをしたのかもしれない。そのうえに築かれた生きざまなのかもしれない。

 著者にとってこれは、『医師たちの阪神大震災』(TBSブリタニカ刊)の続編である。どんな環境に追いやられても必死で生きようとする人間の本性というか素晴らしさの賛歌である。

 それが戦争であれ天災であれ、あるいは日々誰もが直面している苦悩であれ、精一杯に戦う人間への賛歌である。今後も、さまざまなテーマを通じて、人間賛歌を追求していきたい。賛歌できる人生には、乗り越えるべき障害と苦悩が必ずともなう。

 本書をみなさんのお手元にお届けできたのは、単なる「戦争物」にしたくない、生きる指針にしたいという長沢孝子さんと、著者の願いを理解され、ご支援いただいたTBSブリタニカ出版局長の福澤晴夫氏、および編集にご協力いただいた同社の石川宏氏のお二人に負うところが多い。

 平成七年一〇月    中谷和男

著者紹介より引用 中谷和男(なかたにかずお)

 1936年中国東北地方生まれ。東京外国語大学仏語科卒業。

 NHKに入局し、社会部を経てジュネーブ、ベイルート、ナイロビ、ソウル、バンコクの各支局長、ヨーロッパ・アラブ・アフリカ総局長などを歴任。現在ICO取締役。

 おもな著書に、『アラブの世界』『したたかな人間たち』『スイスジョーク集』『韓国事情 今の読み方』『医師たちの阪神大震災』。おもな訳書に、D・ベングリオン著『ユダヤ人はなぜ国を創ったか』、ビルジル・ゲオルギュ著『アラーは偉大なり』、バレリー・ヨーク著『湾岸諸国』、カロライン・ムーアヘッド著『人質』、J・J・セルバンシュレベール著『世界の挑戦』。

第11回  該当本文『(7)-2クリークの氷は毎日溶けては薄く…

『ボクの満州 漫画家たちの敗戦体験』

中国引揚げ漫画家の会編 亜紀書房 1995年7月26日

目次と執筆者紹介

祖国はなれて        上田トシコ
「メーファーズ」――これでいいのだ!!  赤塚不二夫
中国原体験の光と影     古谷三敏
ぼくの満州放浪記      ちばてつや
ぼくの満引き(満州引き揚げ)物語  森田拳次
記憶の糸をたぐり寄せて   北見けんいち
わが故郷、大連       山内ジョージ
豆チョロさんの戦争体験記  横山孝雄
上海に生きて        高井研一郎
座談会 ボクの満州・中国   執筆者一同
あとがきにかえて      石子順

執筆者紹介(注:1995年7月26日発行当時のものです)

上田トシコ(本名・上田俊子)
大正6年(1917年)東京生まれ。
生後40日目からハルピンで育つ。ハルピン小学校、東京の頌栄高女(現頌栄女学院)卒。満州日日新聞社ハルピン支局に勤務しているときに28歳で終戦。21年に引き揚げる。
18歳で故松本かつぢに弟子入り。昭和24年「少女ロマンス」(明々社=現少年画報社)でデビュー。
代表作:『ボクちゃん』『フイチンさん』『ボン子ちゃん』『お初ちゃん』『あこバァチャン』

赤塚不二夫(本名・赤塚藤雄)
昭和10年(1935年)中国古北口生まれ。
憲兵の父親に連れられて僻地を転々とし、父親が奉天鉄西区の消防署長をしていたときに終戦。21年6月に引き揚げる。
トキワ荘で手塚治虫、石ノ森庄太郎等とともに漫画家活動を始める。フジオプロを結成、数多くの漫画家を輩出する。
代表作:『おそ松くん』『天才バカボン』『もーれつア太郎』『ひみつのアッコちゃん』

古谷三敏(本名同じ)
昭和11年(1936年)中国奉天(現藩陽市)生まれ。
父親は奉天・千日仲見世通りで「新橋寿司」または「一点張り」という店を経営していた。その後、北京、北載河で暮らす。北載河で終戦をむかえ、20年12月天津から引き揚げる。
手塚治虫、赤塚不二夫のアシスタントを経て現在に至る。
代表作:『ダメおやじ』『ぐうたらママ』『BARレモン・ハート』『ホワ~ッ!といずゴルフ』

ちばてつや(本名・千葉徹弥)
昭和14年(1939年)東京生まれ。
生後間もなく朝鮮に渡り、その後奉天(現藩陽市)に移る。父親は鉄西区の新大陸印刷に勤務していた。敗戦後の生活を『屋根うらの絵本かき』として漫画化している。21年6月博多に引き揚げる。
高校2年のとき貸本屋の単行本でデビュー。少年漫画界の第一人者として活躍。
代表作:『あしたのジョー』『ちかいの魔球』『のたり松太郎』『ハリスの旋風』

森田拳次(本名・森田繁)
昭和14年(1939年)東京生まれ。
3歳から奉天(現藩陽市)で育つ。父親は協和街で鞄工場を経営していた。敗戦後、21年舞鶴に引き揚げる。
高校2年のとき、漫画家デビュー。現在はひとこま漫画家として活躍中。FECO NIPPON代表。
代表作:『丸出だめ夫』『ロボタン』『ミスタージャイアンツ』
著書:『私笑説・だめ男はつらいよ』(亜紀書房)

北見けんいち(本名・北見健一)
昭和15年(1940年)中国新京(現長春市)生まれ。
父親は印刷会社に勤務。母親は児玉公園の近くで「伊勢丹」という食堂を経営していた。21年葫蘆島から引き揚げる。
フジオプロのアシスタントを17年間続けたのち40歳で独立。映画『釣りバカ日誌』は人気シリーズである。
代表作:『焼けあとの元気くん』『釣りバカ日誌』『親バカ子バカ』『愛しのチィパッパ』

山内ジョージ(本名・山内紀之)
昭和15年(1940年)中国大連生まれ。
父親は警察官だった。敗戦後、収容所を転々としたのち、22年佐世保に引き揚げ、父親の郷里・宮城県で青少年期を過ごす。
トキワ荘で漫画修業後、独立。現在は動物文字絵や絵本、広告の仕事で活躍。
作品:『絵カナ? 字カナ?』(偕成者)『どうぶつは、あいうえお』(PHP研究所)など。フジTV『ひらけ! ポンキッキ』の動物文字アニメを制作。

横山孝雄(本名同じ)
昭和12年(1937年)中国北京生まれ。
領事館警察官だった父の転勤で、おもに長江下流域の中小都市で幼年期をすごす。
21年佐世保で母国に上陸、両親の故郷・相馬で高校卒業まで生活。
上京後、玩具デザイン工をへて漫画家に。赤塚不二夫のブレーンとして25年をすごし、昭和58年フリー。
著作:『旅たて荒野』『諸葛孔明グラフィティ』『ボクは戦争を見た』『アイヌって知ってる?』など

高井研一郎(本名同じ)
昭和12年(1937年)佐世保生まれ。
1歳から上海で育つ。父親は魯迅に憧れて海寧路で「上海書店」を経営。19年10月に帰国。佐世保で空襲を体験する。
高校時代「漫画少年」の投稿仲間、赤塚不二夫、石ノ森章太郎等と知り合う。手塚治虫、赤塚不二夫の手伝いを経て現在に至る。
代表作:『総務部総務課山口六平太』『あんたの代理人』『プロゴルファー織部金次郎』『男はつらいよ』

石子順(本名・石河糺)
昭和10年(1935年)京都生まれ。
新聞記者の父親について承徳、奉天、新京などを転々としたのち、新京で敗戦を迎える。父親が日本語新聞制作に留用となり、昭和28年帰国。
日本社会事業大学講師のかたわら漫画評論家、映画評論家として活躍中。
著書:『日本漫画史』『ドーミエの世界諷刺』『日本の侵略、中国の抵抗-漫画にみる日中戦争時代』『中国明星(スター)物語』『中国映画の散歩』『映画366日館』ほか。

第11回-2

2008年8月11日朝日新聞夕刊14面
「街 メガロポリス 人」

日本兵が銃殺される現場ぼくは見てしまった
 中国東北部(旧満州)で過ごした幼年時代や、敗戦の混乱の中での引き揚げ体験とその後を、漫画「丸出だめ夫」などで知られる森田拳次さん(69)=写真、横浜市金沢区=が「だめ夫伝―我思我(われおもうわが)漫画的人生」にまとめた。東京の出版社が企画した漫画家の引き揚げ体験記録の第1弾。第2弾は「釣りバカ日誌」の北見けんいちさん(67)を予定している。 (隅田佳孝)

引き揚げ体験「だめ夫伝」
漫画家森田さん「いつも犠牲は子ども」

 森田さんは1939年、生後3カ月で両親に連れられて旧満州・奉天(藩陽)に渡った。45年8月、ソ連軍が侵攻。日本人男性は連行され、女性は男装してソ連兵の目を逃れるように過ごした。6歳だった森田さんは日本兵がソ連兵に銃殺されるのも見た。

 引き揚げが始まると、3歳だった弟を「500円で売れ」と中国人が訪ねてきた。父母は断ったが、遊び仲間のなかには売られた友達も数人いた。殺到する大人たちにはじき飛ばされないようにして、やっとたどり着いた引き揚げ船。そこでも友達の一人が力尽きて亡くなった。

 60年代、勉強も運動も苦手な小3の男の子とポンコツロボットが繰り広げるドタバタ劇を描いた連載漫画「丸出だめ夫」や「ロボタン」でヒット作を連発。テレビドラマ化やアニメ化で売れっ子になってからも、ベトナム戦争を子どもの目線で風刺する漫画を自費出版した。逃げまどう子どもたちに自らが重なった。

 ただ、自身の戦争体験を残せ,ないかと考え始めたのは50歳を過ぎてからだ。95年には北見さん、「あしたのジョー」のちばてつやさん(69)、2日に72歳で亡くなった「天才バカボン」の赤塚不二夫さんら、引き揚げ体験を持つ漫画家と画集を出した。(注:上記の『ボクの満州 漫画家たちの敗戦体験』です)

そして今回。引き揚げ体験と再び向き合うまでの半生を挿絵約70枚とともに、文章も原稿用紙約70枚に書き下ろした。

 執筆時は無意識だったが、新著のなかで何度も重ねて記していた言葉がある。いつの戦争も大人が始め、犠牲者は子どもだ-。

 「少年誌に描いてきた僕にとっては、子どもたちが楽しくいられるかが、すべてなんです」

 企画した「クリエイティブ21」の會田(かいだ)貴代さん(39)は「だめ夫を知る人も、知らない子どもたちにも読んでほしい」。ちばさんにも執筆を依頼するという。B5判、105ページ。1500円(税抜き)。問い合わせは同社(03・3226・5290)。
説明:母ちゃんは、「子どもは見てはいけない」といったが、僕は大人たちの腰の間から、4人の日本兵が殺される現場を見てしまった=「だめ夫伝」から

第12回  該当本文『(7)-3僕等の恐怖と狂気が中国兵に…

『昭和20年8月20日 内蒙古・邦人四万人奇跡の脱出』

稲垣武 PHP研究所 昭和56年(1981)年8月26日

まえがき
 私がこの本を書くきっかけになったのは、元陸軍少佐飯村繁氏の示唆からである。飯村氏と雑談の席上、終戦後の満州の惨状の話になり、私が「あのような事態を、何とか未然に防げなかったものでしょうか」と残念がると、飯村氏は「お隣りの内蒙古では、駐蒙軍のー箇旅団が、ソ連軍の機甲部隊を阻止し、その間に張家口から在留邦人が、無事引揚げたようですよ」と、言われた。私は、驚いた。

 敗戦のとき国民学校五年生だった私は、子供心に、「なぜ、日本は敗れたのだろうか」と、深刻な疑問を抱き、それ以来、主な戦史や戦記を読み続けて来たが、そんな話は初耳である。

 早速、防衛庁戦史室へ飛んで行った。そこで、日本の敗戦後もなお、蒙古草原のタテとなってソ蒙軍の侵入を阻止した主役は、独立混成第二旅団(響兵団)であり、その戦闘を指導した元参謀の辻田新太郎氏が、豊川市にご健在であることを聞いた。

 私の取材行脚が始まった。豊川市に辻田氏をお訪ねし、同氏に感謝の手紙を出した引揚者の冨田豊氏を訪ねて伊万里市にと、一本の糸をたどって、三十五年前に起こったこの稀有の記録を掘り起こす作業が始まった。

 半年にわたる取材の末、昨年(昭和五十五年)夏、週刊朝日八月十五日号より三回にわたって、響兵団の戦闘を中心に連載した。

 予想外の反響だった。内蒙引揚げ者からは、続々と、響兵団に対する感謝の手紙が舞いこみ、兵団の元将兵からも新しい事実を知らせて頂いた。これらの手紙を読んでいるうちに、私は、もっと精細な、内蒙古引揚げの全史的なものを書いてみたいという衝動に駆られた。

 PHP研究所のご好意により、単行本として出版することになった。しかし、週刊誌のデスクという職務は、殺人的な忙しさである。わずかな時間を盗み、休日をつぶして、一年近く取材と執筆に明け暮れた。何かに取りつかれたような日々だった。私としては、戦後の風雪に埋もれ、世に知られなかったこの事実を、何としても民族の記録として残したいという想いだった。

 しかし、何しろ三十六年前のことである。当事者の記憶も薄らぎかけ、細部では、証言が食い違うことも多かった。私は可能な限り数多くの人たちの証言を集め、当時の資料も調べて判断し、事実を確定しようとした。それは、ほぼ成功したと自負している。

 ここに書かれていることは、軍国主義の鼓吹だ、と受け取る人もいるかもしれない。しかし、私の本意は、全く反対である。

 近代国家における軍隊の本来の目的は、民族を守ることであり、他国を侵略したり、他民族を苦しめたりすることではない。明治維新後、外敵の侵略防止と国内の治安維持のために創設された軍隊が、帝国主義列強に伍そうとした国家政策によって、いつの間にか外征軍に変貌し、日清・日露戦争、さらに満州事変、日中戦争、太平洋戦争と戦火を拡大し、遂に国を亡ぼしてしまったことは、歴史的な必然であったとはいえ、極めて不幸なことであり、日本人として深く反省しなければならない。

 しかし、国敗れて後の、張家口北方の丸一陣地での戦闘は、在留邦人の緊急引揚げを援護するための、純然たる自衛戦闘であり、民族を守るという、国軍の本義に立ちかえった戦闘であったといえる。この、無償の戦いを書くことが、軍国主義の鼓吹といえるであろうか。

 同胞愛という言葉が、死語になってから久しい。しかし、昭和二十年八月の内蒙古には、この言葉はまだ生きていた。迫るソ連・外蒙軍の目前から、四万人近い在留邦人を緊急脱出させるため、将兵も、政府関係者も民間人も、力を合わせた。自分自身の安全を考えた人は少なかった。

 そういう、多くの自己犠牲のうえに、奇跡の脱出は成功した。

 当時の、これらの人たちの心情や行動は、戦後、激変した価値観からすれば、理解し難い部分も多々あるだろう。しかし、平和と繁栄を謳歌している現在の日本を支配している価値観でもって、ナンセンスと決めつけるのは、歴史をひもとく者として、厳に慎しまねばならぬことではあるまいか 。

 最後に、終始、助言して下さった辻田新太郎氏、豊富な資料を提供して頂いた兵団史編集者の高野与一氏、さらに取材に快く協力して下さった引揚げ者や響兵団、春兵団、戦車第三師団、第四独立警備隊の方々、またこの本の刊行を快諾され、激励して下さったPHP研究所常務江口克彦氏、編集の労に当たって頂いた同社出版部の松本道明氏に、深い感謝の意を表したい。

 なお、文の構成上、本文中に登場した方々の敬称は省かせて頂いた。お許し願いたいと思う。

 昭和五十六年八月           稲垣 武

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目次

まえがき
第一章 蒙古桜の花ひらくとき

プロローグ・三十五年目の出会い/ゴビにあがる独立の旗/関東軍の画策/高原の楽園

第二章 銃剣の平和が崩れた日

ソ連参戦/「運命」交響楽/荒野の将校斥候/根本軍司令官の決断

第三章 迫るソ蒙軍阻む軍旗なき兵団

荒武者中尉と女子交換手/張家口の混乱と軍首脳更迭/大阪の“弱兵”と軍旗なき兵団/軍使の白旗に弾丸の雨/「隊長殿、射たせて下さい」

第四章 日本人引揚げを守った肉弾の壁

狙いは切取り強盗/緊急引揚げヘニセ命令/通訳官の至誠/陣内侵入の敵と白兵戦/兵士が投げたリンゴ/助っ人中隊、苦戦す/最後の血戦

第五章 夜霧にまぎれ敵前撤退

病兵を支えた焼きおむすび/辻田参謀、自決図る/拒馬/山中行軍/胸張る長城の門

第六章 奇跡の引揚げを支えたもの

居留民との交情/北京の門に迫るソ蒙軍/かっ払い集団に威嚇奏功/赤い鳥居に泣いた日

第七章 残された人々の苦難

東プロイセンの同胞救出作戦/特務機関護衛兵の生々流転/漢奸の処刑あいつぐ張家口/大同「無国籍兵団」の数奇な運命/稀有の記録が教えるもの

第13回  該当本文『(8)僕は誰にも構われずにベッドの…

『生きて祖国へ 1』
『生きて祖国へ 2 満州さ・よ・な・ら』満州篇(下)

引揚体験集編集委員会 国書刊行会 昭和56(1981)年4月20日

目次
流亡の民
/目次
 口絵 岩田ツジ江/画
第一部 満洲篇
第一章 敗惨の民族

I 満蒙開拓団の末路
第一三次満洲興安東京開拓団の最後  坪川秀夫
札蘭屯からの逃避行  米 栄子
満洲開拓団長としての引揚体験記  堀 忠雄
II 苦難の逃避行
東寧街を後にして  渡辺万成
銃を捨てたとき  河野寛治
流浪の果てに  佐藤ひで
さらば開拓地よ黒土よ  窪田としみ
悪夢  西行頼直
さすらいの満洲  佐藤茂夫
軍隊の行軍と地方人と――  遠藤福治
さらば弥栄よ!  伊藤静夫
帰りたかった故里  半田玲子
東満総省林口県龍爪村からの逃避行  羽柴芳太郎

第二章 難民となる

黒河からの引揚記録  榎ウメ子
牡丹江脱出から引揚げまで  浜口けい子
母一人五人の子を連れて  松岡このむ
私の終戦追憶の記  岡本玲子
母親奮闘の引揚記  林つぎ

第三章 悔恨の満洲

母の思い出  菊池弘之
北満に散った鍬の戦士  榛葉忠男
家族の消息をさがして  小川三郎
北満慕情  細野淑子
五つの石  河野千晴
中国人へ嫁いだ妹  平渡孝子

あとがき

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2 満洲さ・よ・な・ら/目次
 口絵 岩田ツジ江/画 福嶋廉人/画 

第一部 満洲篇(続き)
第四章 混乱の街

鴨緑江敗戦悲話  佐倉啄二
敗戦の動揺  桜田俊雄
チチハルでの抑留生活  景政ヨシ子
避難民の回想  中谷藤市
敗戦の惨  足達芳雄
新京からの引揚げ  阿部善一
風と雲との間  日比房雄
内戦の満洲をぬって大連へ  藤木武夫
「鍋釜を探しなさい」   中柴保一
氷の花  竹内みさお
長春在留日記抄  小西清規

第五章 日本人難民収容所

錦州省阜新市第一収容所の回顧  桃井喜代二
日本人の子供売り  山本清子
傷痕の思い出  前田牧信
ハルビンからの引揚記録  中野吉人
赤い夕陽の北安の街で  長岡喜春
奉天にたどりついて  佐藤ひで

第六章 満洲よさらば

奉天朝日区朝日街地区の敗戦前後  亀谷友二郎
ハルビンから錦州まで  岩田ツジ江
内地に帰ったものの 栗脇たつ
大連地区よりの引揚げ  小沢佐智子
白城子からコロ島までの一年間  竹重武二
三粒の小石  木村郁子
ある青春の一頁  三浦敬大
チチハル引揚顛末記  中村英五郎

第二部 中国篇

第七章 北支・中支からの引揚げ

奉仕に明け暮れた日々  柴田惇志私
蒙古辺境から博多まで  根本清蔵
大同からの引揚記  長谷川克郎
開封引揚げの記  河野亮
救護看護婦としての引揚記録  大根あい
上海引揚げの思い出  中津彰教

第15回  該当本文『 (10)行列の横をアメリカ兵が陽気に…

『小さな引揚者』

飯山達雄 写真・文 草土文化 1985.8.1 p94-103
カメラをとおして見た引揚者の姿 ――あとがきにかえて
(ルビを省略した以外は原文通り記載)

●再び中国へ渡らせたものは

 終戦の翌年五月、私は福岡にいるという婦人科医の友人を訪ねました。彼は京城時代の旧友で、引揚援護会の診療をやっていると聞いたから、でした。

 じつは、先に内地へ引きあげたはずの家族(妻、娘、私の母親)の行くえがわからず、日本中の心当りをさがし歩いたのですが、その間に私は健康をそこねて、気もそぞろに弱っていました。身重だった妻の健康も気になり、もしかしたらその婦人科医を訪ねたのではないかと思ったのです。

 友入は二日市保養所(元陸軍保養所)にいることがわかりました。手術室から出てきた友入は、口を開くなり、

 「ひどいもんだよ……もう一人やるから見ないか」

 というのです。

 

何の手術かわからないまま、私は彼のあとにつづくと、手術台の上には、大陸で暴行を受けた中年の婦人が横たわり、その処置(胎児牽出)を受けるところでした。手術が始まると、その泣さ叫ぶ声に私は耳をおおい、顔をそむけて手術室をとび出しました。

 こういう手術を、多いときは一日十回もすることもあると、友人は言っていました。

 ここに来る婦人たちは、満州や朝鮮などから博多港に上陸して、「婦人相談所」の看板を見て、引きあげのとちゅうで受けた屈辱を軽くして、故郷へ帰っていこうとやって来たのです。

 結局、私の妻はここにも来ていなかったのですが、友人とひと晩中、大陸に放置されている日本人の惨状を語り合いながら、私はある計画を思いたったのです。

●置き去りにされた一般人

 太平洋戦争が終わったとき、朝鮮、満州(いまの中国東北部)、中国にいた日本人のうち軍人や軍に属する人たちは、アメリ力軍が用意した船でいちはやく日本に引きあげました。ところが、軍に属していない多くの日本人は、戦争が終わった翌年になっても日本に帰れず、大陸に残されていました。朝鮮半島に七十万人、満州、中国に百万入いたはずの日本人のうち、朝鮮半島南部と満州南部にいた一部の日本人だけが引きあげ、あとは置き去りにされていたのです。ソ連との国境に近い満州の開拓団などから逃げてきた人びとは、とちゅうで襲われたり、飢えや寒さのために家族が生き別れてしまったり、親を失う子どもたちもたくさんいました。

 そのころ、大陸に残された日本人を日本に運ぶのは、戦争でくたびれはてたオンボロの船を使ってのろのろとおこなわれていました。そんな調子ですから、福岡県の博多港と大連の間を一往復するのに十日間もかかり、しかも一回にわずか五千人しか運べませんでした。これでは一年間かかっても十八万人、大陸に残された人びとすべてを運ぶには十年もかかってしまい、飢えと寒さと死の恐怖におののいている人びとをとうてい救いだすことはできません。

 ところが日本の政府は、その当時日本を統治していたGHQ(連合国軍総司令部)に船をまわしてもらうことを頼んだのですが、「ポツダム宣言で日本軍人・軍属は送り返すことになっているが、一般日本人の送り返しのことは条約にないので、GHQの責任ではない」と断わられました。それ以来遠慮をして、引きあげに使う船を頼むのをあきらめました。その間に多くの日本人が命を落としたり、孤児になっていくことを思うと、居ても立ってもいられない気持ちでした。そこで、日本政府が腰ぬけなのなら、私がもう一度中国大陸へ渡って、残されている日本人の実際のようすを写真に写して、GHQにつきつけてやろうと決意したのです。

●とぼしい機材をかき集めて

 そう決心した私は、在外同胞引揚援護会の友人を訪ね、その友への紹介で七月上旬(昭和二十一年)に満州のコロ島へ向かう引揚船に便乗させてもらうことに話がまとまりました。

 ところが、こまったことに当時は、終戦直後で極端に物の乏しい時代でしたから、いまのようにどこでも簡単にカメラやフィルムが買えません。それこそフィルム一本手に入れるのにも容易ではありませんでした。そこで翌日から東京の銀座や新宿の焼け跡にできた露天市を何日も歩きまわって、集めました。

 こうして集めたカメラとフィルムは、現地の監視員の目をごまかすために軍の衛生兵が使ったカバンを露天市で手に入れて、大きく赤十字のマークを描きこみました。そのカバンの底にはカメラとフィルムをしのばせ、上のほうには、ガーゼ、ピンセット、ヨードチンキや薬品びんなどをならべて、だぶだぶの白衣の上からかつぐと、衛生兵と見分けがつかないほどでした。

 七月五日(昭和二十一年)夜半、博多港を出港。四日目の朝、渤海湾の奥のコロ島桟橋に接岸しました。

 コロ島の港は、日本軍による中国大陸への作戦が拡大するにつれ、満州の大連港だけでは兵員輸送が問に合わなくなったため、急ごしらえでつくった港で、その岸壁に、武装を解かれたかつての海軍の軍艦が二隻横たわっていて、それに乗りこもうとする復員兵たちが、灼熱の太陽に焼かれて長い列をつくっています。

 やがて、乗船した人たちが船の上からさかんに紙切れを海へ投げている光景が目にとまりました。聞いてみると、満州銀行発行の紙幣は、日本に帰国しても千円分しか日本円に替えてもらえないので、残りをちぎって捨てているということでした。

 コロ島の駅構内へ貨物倉庫を通り抜けて出ると、ホームでは錦州行の貨物列車が発車するところでしたので、車掌にお金をつかませて乗りこませてもらいました。錦州からはさらに奉天行の旅客列車に乗りかえ、翌朝早く奉天に着きました。

●坊主刈りの婦人から聞いた話

 奉天の駅を出ると、駅舎の片すみに異様な姿の日本人らしい二人の婦人を見かけました。近づくと二人とも麻の唐米袋に穴をあけ、首と膝を通しただけのスタイルで、髪は坊主刈りにして、顔に泥や墨をぬりたくっています。「ご苦労をされたんでしょうね」とねぎらいのことばをかけると、初めて口もとにかすかに笑いがもれ、一人の婦人が奉天にたどりつくまでの話をしてくれました。

 話によると――二人は終戦までチャムスにいて、ソ連軍の参戦と同時に夫が義勇軍として戦線に行ったまま帰らぬ人となった。その後、売れるものは売りつくし、生活は困窮のどん底にひんしながら、引揚列車が迎えに来てくれるのを待っていた。それまで経営していたホテルは接収され、女、子ども十二人でホテルの離れに住んでいたところ、そのホテルがソ連兵の宿舎となったことから暴行が始まった。金も食糧も底をつき、雇ってくれるところもなくなったが、満州人の便所くみなどをしてもらったコーリャンのカユでやっと生きる日々がつづいた。しかし、残虐な場面を目のあたりにしてから、女の人たちはみな、髪を切って丸坊主となり、顔をわざとよごして男装し、脱走をくわだてた。八人は知りあいの満州入に助けられてチャムスを発ち、馬ソリで凍った松花江という大きな川を渡り、十六日かかってハルビンに出て、さらに汽車や馬車を乗りつぎ、あるときは徒歩で、十八日間もかかって奉天にたどりついた。途中四人の子どもと、二人のおとながなくなった。冬の満州北部は、氷点下四十度に下がることは珍しくなく、みな凍死した――ということでした。

 彼女はさらに、ソ連国境にあった満州北部・東部の開拓部落から奉天へ逃れてきた人びとが酷寒の中で凍死し、その遺体が一千体以上も埋められているというショッキングな話をしてくれました。――それは、昭和二十年八月八日にソ連が参戦したことから、男たちは対ソ戦線にかりだされたため、残っていた老人、子ども、女性たちが現地人に残忍な仕打ちをされ、難をまぬがれた人たちが着のみ着のままで満州中部をへて十月に奉天へたどりついた。そこで市内の春日小学校に収容され、日本人会が世話をしたが、食糧を確保することが不安になった折でもあったため、一人当たり一日に、一碗のコーリャンとアワしか配給されなかった。当然、その人たちは栄養失調となった。

 当時、燃料が欠乏した奉天では、一般の日本人だけでなく、現地の入たちですらこと欠く状態だった。小学校へ収容された人たちは、天井をはがし、床板をめくり、最後は窓わくまで燃料にした。そこへ零下二十度、三十度の酷寒が襲い、連日五人、十人と凍死者が出た。遺体は焼くこともできず、校庭に穴を掘って埋められ、その数は三百体ほどだという。その後避難してきた人は収容所にも入れず、バタバタ倒れ、その遺体は郊外のイナバ町に運ばれた――とのことでした。

 そこで私は、なんとか人力車をさがし、イナバ町に行ってみました。小雨のふるイナバ町に着き、人力車夫に聞いたとおり、大豆畑を通りぬけると、土砂のもりあがった所の後方に大きな穴が見えてきました。近づくと異臭が鼻をつき、もり土の上に駆けあがってのぞいたとたん、その凄惨な光景にギョッとして息をのみました。直径五、六十メートルもある穴に腐乱した死体がるいるとおり重なり、白骨になっているものもかなりあります。私は雨の中にたたずんだまま、その穴にむかって手を合わせました。

 翌朝、孤児を収容している本願寺を訪れましたが、そのようすは、本文に書いたとおりです。

 博多に入港後、東京へ帰り着いた私は、さっそく引揚者の実態を撮影した写真をプリントし、五十点ずつ三部作って、在外同胞引揚援護会に提出しました。その写真は、外務省とGHQに渡されたと思います。それが効を奏したのかどうかわかりませんがその後、大陸在留邦人、百何十万人の引きあげは急ピッチで進み、一年ほどの間に終わりを告げました。

 あれから約四十年、奉天から、ともども引きあげた孤児たちは健康をとりもどして成長できただろうか、そしてその後の人生は――、終戦の日がめぐってくるたびに、私は敗戦の混乱の中を、何ものへともしれない強い怒りに突き動かされ、向こう見ずにさまよい歩いた当時を思いおこすのです。と同時に、近年、テレビの画面を通じ、四十年前のわずかな記憶や体のきずあとをたよりに日本にいる近縁者によびかける中国残留孤児の方々のせつない表情を見るにつけ、終戦のとき、日本政府が弱腰でなく、婦人や子どものことを考え、もっと早く引揚を進めていたならば、引揚の苦しさから満人にわが子を預けたり、売ったりせずに引きあげられただろうと思わずにはいられません。

 しかし、残留孤児の悲劇を生んだのは単に引揚の遅れにあっただけではなく、日本が中国に戦争をしかけたことにあるのです。このごろの若い人たちは戦争を「かっこいい」などと思いこまされているようですが、戦争は決して格好のいいものではないということを、この『小さな引揚者』から感じとってもらえればなによりの喜びです。

一九八五年七月十六日 コロ島出航から三十九年目の夏に

飯 山 達 雄

準備号/資料1資料2┃資料3┃