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『1946年、北京から引揚げ船で送還された“少年A”の物語』7-1

暖かくなって、引揚げ船の噂が出始めた

 母が退院し暖かくなってから、使わなくなった湯タンポは炊事場の隅にころがっていたが、引揚げ船の噂が出始めた頃、チカラさんの考えで、水筒の代りに持っていこうということになった。僕が、何だか汚いな、と言うと、砂で内側を磨けばいい、と言うのだ。それで僕とチカラさんは毎朝駆けっこをすることにした。真鍮の湯タンポに砂を入れ、代わる代わるに持って走るのだった。

「何もしないと身体がなまっていかん。」

とチカラさんは言っていた。始めた次の日からチビも加わった。僕が自慢してやったら面白がって、入れてくれとせがんだのだ。

 原っぱにはところどころ砂地があった。蒙古風で運ばれてきたものに違いない。空が真黄色になって太陽もかすみ、戸外に一歩も出られない薄暗い日々が過ぎたあと、そこらじゅうが砂だらけになる。北京の家でも石畳の庭を掃いて砂場をつくったものだった。僕等は途中で何度も、黒ずんだ光沢を帯びて出てくる砂を入れ換えた。その砂が少しずつ黄色い光り方をするようになっても、チカラさんは急ごうとしなかった。

「他に何もすることがないんだからな。」

と呟いて淋しそうな笑顔をみせるのだった。父がチカラさんのことを働き者だ、と言っていたから、きっと仕事がないのが辛いのだろう、と思った。

 チビは毎日やって来たが、いつも僕等より遅れて走っていた。砂を入れ換えている間に追いついて来てはハアハアと仔犬のように舌を出し息を切らしていた。僕等はそれを見てわざと、急いで出発したりするのだった。

 チビは僕の家来のようにいつの間にか僕の傍にいる子だった。魚掬いにはカンカラを持ってついて来た。僕が喧嘩を始めそうな時にはかならず心配げな顔を見せていた。そして大抵の遊びには味噌っかすに甘んじていた。僕はチビがいることも、いないことも気にとめたことはなかった。チビはそんな子だったのだ。僕等はだから、あの時にも全然チビのことは気にしていなかった。砂を入れ換えながら、パタパタと追いついてくる足音を聞こうと振り返ったときにはもう、チビは鉄条網をくぐって、クリークの氷の上に降りていた。

 チカラさんは湯タンポをほうり出して、走った。僕も懸命にそれを追いかけた。

「チビちゃん、あぶないよ、氷の上に乗っちゃいけないよ。」

「チビ、駄目だぞ、戻って来い。」

平和になると、国と国は仲良しになるのだろうと思った。


(7)-2 クリークの氷は毎日溶けては薄くなっていたへ進む┃


資料編 第10回(メルマガ2008年10月9日号分)

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写真1:著者の幼年時代(北京に渡る前のものです)

写真2:『日中戦争 日・米・中報道カメラマンの記録』平塚柾緒編著 翔泳社 1995年7月20日より引用 写真説明:引揚船に乗る前の所持品検査を受ける人たち(溏沽で)

図版3:『天津の日本少年』八木哲郎 草思社 1997年12月5日
著者:八木哲郎氏 1931年天津生まれの天津育ち。三井物産天津支店勤務だった父の転勤にともない昭和19年(1944)6月北京へ。北京で敗戦を迎え昭和21年引揚船で帰国。
同書前半は幸福だった天津の幼少年時代を、後半の北京では戦争に翻弄され両親を失い、人生の一時期が終ったことを実感しながら引揚船に乗るまでを、著者の当時の瑞々しい感性のままに克明に描いている。278~293頁に引揚げの具体的な記述がある。

『天津の日本少年』「第三部 敗戦から引き揚げまで」(278頁~293頁)から八木哲郎氏の引揚げの状況(別ページが開きます)
(抜書きです。原典を読むことをお勧めします。)

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図版4:『流れる星は生きている』藤原てい 中央公論社 昭和59年(1983年)8月10日 
(これ以前に何度か発行されています。主な刊行 昭和24年5月日比谷出版社/昭和51年2月中公文庫)

図版5:『いのちの朝 -ある母の引揚げの記憶-』中谷和男 TBSブリタニカ 1995年12月18日

●「序章 孝子との出会い」7~13頁より
「(前略)子ども二人を死なせ、その骨箱を腰に巻きつけ、末っ子の久美子を胸に抱いて、毒薬ひと瓶と剃刀と主人の予科時代の学帽だけ持って、そのうえ、一〇二人もの女の方や子どもさんをなぜか引き連れることになってしまって、満州から、朝鮮半島をひた走り、日本までたどり着けるなんて。
わたしはね、八○年の生涯を振り返ってみると、これ、そうとう、幸せだったんじゃないかしら。人はどう思おうと、わたし自身はそうと信じる」
孝子はカラリと笑った。笑い声の絶えない孝子である。
(中略)
「玉砕とかひめゆりの塔とか、いろいろございましたよねえ、戦争のなかで。死というかたちしか選べなかった方々は、本当にお可哀相と、ご冥福をお祈りします。自分で選んだわけでもない死というものに飛び込んでいく時の気持ち、それを考えると、全身に震えが走ります。
でも、あの戦争の最中に、生きるも死ぬも勝手にしろと放り出され、変な表現ですが、生きることだけを、必死に思いつめていた人たちもいっぱいいたんですよね、わたしたちみたいに」 (後略)

●215~218頁「著者あとがき」を抜粋引用
 世に氾濫する「戦争告発物」にだけはしたくない、過剰な事態をバネにしてしたたかに生きるひとつの女性像として、同じようにさまざまな試練を乗り越えながら、キラキラと生きようとしている若い、特に女性の命の指針になってほしい。
長沢孝子の話を録音しながら、パソコンを叩きながら、わたしは思った。
(中略)
五〇年という歳月は一体何なのだろう。女性の描いた戦争告発物の古典に藤原ていの『流れる星は生きている』(中央公論社)がある。長沢孝子と同じ時期にほぼ同じ道程をたどっているようで、ぜひ比較しながら一読していただきたい。そこには戦争への怨念、人間に対する憎悪と憤怒と涙があふれていて、感性のヒダをかき回されて、読み続ける勇気を喪失し、わたしは何度か本を閉じた。
(中略)
長沢孝子には、こうした憎悪とか怨念とか涙とかがない。人間の資質の違いだろうか、経験した苦悩の大きさの違いだろうか。たしかに長沢は、物語を始めるにあたって、「一瞬一瞬を生き抜こうとする時の、その時噴き上がってくる人間の命の力っていえばよいのか、それはもう、物凄いと思う。苦しみが、生命の限界を超えてしまって、もう死ぬしかない状況に立ちいたった時、その極限の苦しみを麻痺させてくれるんですもの」と語っている。
また長沢は、戦後の五〇年間に、未来を生きるうえで不要なものはどんどん切り捨て、忘却という沼にどんどん捨て去っていった。彼女には過去にしがみつきこだわり続ける執念とか怨念とかがまったくない。八○歳の今でも彼女には未来しかない。
だからこそ、彼女の語りには、戦争告発物を超えた普遍性とか生きる指針のようなものがあるのだろう。   (後略)
あとがき全文を読む(別ページが開きます)


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