読売グループ新総帥《小林与三次》研究(1-9)

電網木村書店 Web無料公開 2017.4.1

第一章《旧内務省の幻影》

「警察新聞」が世界にのびる「全国紙」へ発展する恐怖

9 戦前派フィクサーの暗流つづく

 下村の略歴は、東京帝大法学部卒、逓信省に入り、貯金局長を経て台湾総督府に移る、といったところ。やはり、典型的な高級官僚だが、「法学博士」の肩書きも持っていた。この下村が、日中一五年戦争と第二次世界戦争の間に、日本のマスコミ界のフィクサー兼論客として活躍する。日本放送協会会長、そして緒方竹虎の後任の情報局総裁として終戦を迎えるのだ。

 さらに下村は、NHKへの古垣鉄郎(専務理事から会長)送り込みにも策動している。この間の事情は、すでに徳永正樹が『NHK腐蝕研究』で明らかにしているが、戦後のNHKに朝日出身会長が古垣、野村、前田と君臨しつづけ、保守体制の一翼を担った背景には、こうした暗流を見なければなるまい。

 さて、毎日の原敬、朝日の下村海南と較べれば、読売の正力松太郎は、まだまだ青年将校並みのこわっぱに過ぎなかった。正力は自ら、元内務大臣の後藤新平の後継者として売り込みに必死だった。しかし、同時代人からも、「後藤系の人脈としては正力を数える人は稀である」(『経済往来』’)35・3という証言もあり、その理由は「インテリ性の欠亡」等々であったようだ。しかも戦後まで、読売は関東ブロック紙でしかなかった。「警察新聞」とあざけられ、三面記事専門の「赤新聞」に堕落していた過去を、いまだに引きづっていた。加えて、戦後民主化運動への弾圧に先駆けた「読売争議」の記憶は、読売の本質をなす右翼反動路線のギラツキを、日立ちやすくしていた。

 そんな読売新聞が、巨人=川上=長島=王、高度成長だの目玉焼きだのといっているうちに、ともかく部数だけは日本一、世界一の新聞になってしまったのだ。フランスの高級紙『ル・モンド』は、保守派ながら、「百万部を越えたら新聞ではない。五十万部に留める」という見識を内外に明らかにしている。その意味では、日本の大手紙は最早「新聞ではない」のだし、くわしくいえば、ジャーナリズムだとか、ましてや「言論」を以って、民衆に味方しつづけることなどということは思いもよらぬシロモノなのだ。その上、この部数世界一の新聞「屋」のボスに、元エリート行政官が天下っているのである。

 読売新聞における小林新社長の登場は、いわば、日本資本主義の現段階におけるマスメディア支配の必然的な現象、ひとつの象徴だと考えるべきなのではなかろうか。そういう視点に立って、冷徹に、この資本の代理人に成上った日本型「秀才」なるものを観察してみよう。

《小林は高級官僚出身者には珍しく庶民感覚の持主でもある。これは、彼の実家が川の渡し舟の船頭で、生活が最低のランクであったため、苦労をして学業に励んだという生活体験からきているようである》

 というのが、さきにもふれたライター・生田による『現代』(’81・6)のチョウチン記事の評である。果して、その「庶民感覚」なるものは、本物なのであろうか。それは、どう形成され、どう変化していったものなのであろうか。


第二章《高級官僚の系譜》
1 「親の大罪」は子に報いるに止まらず