読売グループ新総帥《小林与三次》研究(1-7)

電網木村書店 Web無料公開 2017.4.1

第一章《旧内務省の幻影》

「警察新聞」が世界にのびる「全国紙」へ発展する恐怖

7 全国紙と天下り高級官僚の歴史的関係

 ところで、この小林与三次の読売新聞社長就任という事件は、日本の大新聞と政界・官界との関わりを通じて見ると、どのような歴史的位置を占めるものであろうか。

 正力松太郎の例については、すでに前著で若千の意見を述べたこともあり、再論は避ける。ともかく、正力元警務部長の乗り込みは、いわゆる大正デモクラシーヘの「蛮勇」を振う破壊行為に他ならなかった。資金の提供者には、三井・三菱・住友・安田の四大財閥を筆頭にして、まさに日本独占資本形成期の中心メンバーがズラリと居並ぶ有様。おまけに、当座のつなぎ資金の窓日は、元内務大臣の後藤新平という政界の大物であった。

 この読売新聞乗っ取り事件を象徴的な契機のひとつとして、日本の新聞界は右旋回を遂げた。そして富国強兵をあおり、軍国主義を推進した。 《私が新聞社に対して独裁主義を取っていることは、今更いうまでもなく御存じのことであろう。独裁主義を採る以上はその弊害もすでに覚悟している。独断専行がともすればやり過ぎにならぬとも限らぬ。しかし、凡そ伸びゆくものにとって、新聞と何たるの区別を問わず、独裁主義の適用は当然のことではないか》(『日本評論』’36・1)

 これが正力松太郎自身による「読売を築き上げるまで」の弁であった。その結果としての好戦主義も「覚悟」していたにちがいないのだ。戦後になって、何人もの有力新聞人が、すべての責任を《軍閥》になすりつけ、自らへの免罪を計っているが、こんな卑劣ないい逃れは許されるべきではない。《ペンは剣より強し》という近代の論理は右へ向いても真実である。都合の良い時だけ世論の指導者を名乗る癖に、やむなく筆を曲げたなどとは、命おしさの変節を隠す中高年の悪知恵が成せる逃口上に他ないない。若者を欺しつづけるのも、良い加減にして欲しいものだ。

 そしてもちろん、右旋回したのは読売だけではなかった。朝日も毎日も、それぞれの役割こそ違え、問題を新聞と官僚との関係だけに絞ってみると、朝日も毎日も、やはり日本独特の官僚天下りによる汚染にさらされていたのである。その舞台を、いわゆる「白虹事件」の一幕に限り、主要人物のみを紹介しておこう。

 最初に毎日新聞のルーツをたどると、毎日はもともと政治新聞を前身としている。東京日々新聞との合併により、はじめて全国紙といえるようになるのだが、大阪毎日のみの時代に、編集総務から三代目社長となったのが、原敬(たかし)である。原敬は、南部盛岡藩士の次男坊だから、家督を継げず名前だけとはいえ、やはり士族という身分である。爵位がなかっただけのことであるから、初の「非華族」首相とはいえるが、これに「平民宰相」の名を贈ったのは、新聞界のゴマスリ以外の何物でもない。のちの「平民」もしくは「庶民」田中角栄の首相就任の際にも、これと同じテクニックが活用されたことに注目しておきたい。田中は成り上りとはいえ、恐れ多くも、社長様だったのだから、現代日本では立派な支配階級の一員なのである。

 原敬は、郵便報知と大東日報の記者生活を経て、官界に入り、天津領事かる外務次官にまで成上った。請われて大阪毎日の主筆、社長ともなるが、さらに伊藤博文らの立憲政友会創立へのさそいで政界入り。政友会幹事長、逓信大臣、内務大臣、政友会総裁、そして首相となった。東北の小藩出身という立場の原敬は、藩閥打倒の護憲運動と長州閥との間でキャスティングボードを握り、外務省・財界・言論界の操縦に成功した。のちの「庶民」こと元建築会社社長の田中角栄政権との共通点を求めれば、この言論操作に加えて、大型汚職の多発があった。そして原は、世相混乱の内に現職の首相として、東京駅頭で刺殺されるにいたったのである。「金をほしがるものには金を、地位をほしがるものには地位を、女をほしがるものには女をあたえるのが、政党人懐柔の秘訣なり」というのが、原敬の残した語録であった。

 この原敬の毎日入社については、当の毎日新聞社自身が、「原敬は政治的には伊藤博文の系列であり、一方、大毎の出資者藤田伝三郎が長州系財閥として伊藤とつながっていたことによる」(『毎日新聞百年史』)と記しており、その背景についての争いはない。しかも原敬は、大毎社長と古河鉱業副社長を兼任しており、政財界とのつながりは、自他ともに認めるところであった。その大毎が、やはり当時の識者から「財界の御用新聞」と評された朝日とともに、いわゆる「不遍不党」のスローガンをかかげたというのが、また、日本言論界史の傑作ブラックジョークの随一である。因みに、原敬が原案を起草したといわれる立憲政友会の「趣旨」や「綱領」には、「党利党略の排除」が強調されている。何やらもっともらしいが、いわゆる「私利私略」と政党政治を同一視し、政党の名をもって政党政治への真の移行を妨げようとした発想である。そもそも立憲政友会は、擬似政党というべきもので、「忠誠以って皇室に奉じ」云々の綱領を掲げ、天皇の勅語と二万円の下賜金をいただいて発足した。このため、「勅許政党」とさえ呼ばれたのである。のちの大政翼賛会にいたる思想系譜は、ここに、大新聞と大政党を源として発するといっても良いのである。


8 「白虹事件」にみる大新聞の屈伏