連載:シオニスト『ガス室』謀略の周辺事態 (その32)

"アイヒマン裁判"NHK,赤旗,唖然の不勉強

2000.3.3

 前回の(その31)では、2000.1.31.放映のNHK3チャンネルETV特集『アイヒマン裁判と現代』を切っ掛けとして、朝日,NHK,赤旗の「独自調査なし」状況を報告しながらも、この番組自体の内容に関する批判は別途記すと予告しました。NHKが「ユダヤ人絶滅政策の実在について独自の調査はしていない」ことを確かめた直接取材結果も記しましたが、その取材は放映前でした。その後、実物を見ると、案の状、余りにも唖然の思い込みだけ、不勉強ぶりが歴然としていました。ETV特集のデスクには、改めて簡単な批判と同時に私の電話番号を伝えて、担当者からの質問を受けると約束しましたが、電話は掛かってきませんので、以下、遠慮なく厳しい批判を記します

「ヴァンゼー会議」の陳腐極まる思い込み不勉強

 不勉強は、この場合、番組の中心素材の映画、『スペシャリスト』の制作者の側にもあります。2人の制作者は、イスラエルのアラブ侵略政策に反対を表明してはいるものの、ホロコースト見直し論を巡る歴史論争の経過については、まるで無知のようです。

 ホロコーストの他にも、たとえば、昨年、1999年春から夏へ掛けての ユーゴ戦争については、「空爆には反対しないが人道を口実にしたことが許せない」などと、まるで分かっていない空疎な屁理屈を口走るのです。日本でも最近目立つ現実感覚を喪失した世代のようです。

『スペシャリスト』の題名の由来は、ナチスドイツ当時のアイヒマンの渾名だそうですが、アイヒマンは、ユダヤ人「移送」の担当者としての「専門家」ではあっても、官僚組織の末端歯車でしかありませんでした。アイヒマンに「ユダヤ人絶滅政策」の責任があると立証する「決定的」証拠物件は、彼が署名した「ヴァンゼー会議」の議事録だけです。

 ところが現在では、「ユダヤ人絶滅政策」が実在したと言い張る論者でさえも、最早、「ヴァンゼー会議」が政策決定の場であったとは言えなくなっているのです。以下は、拙著と拙訳の関係部分です。


『アウシュヴィッツの争点』(1995. p.260-261)

[前略]一九四二年一月二〇日に「ヴァンゼー会議」がおこなわれた証拠とされているのは、会議の決定を記録した公式文書ではなくて、一片の会議録、厳密にいえば筆者すら不明の個人的なメモにすぎないのである。しかもそのメモが本物だとしても、そこには「最終的解決」イコール「ユダヤ人の民族的絶滅」などという方針は明記されてはいない

「東方移送」が、いかにも「処分」につながるかのような、いくつかの微妙な表現があるだけである。

 さらに決定的なのは、絶滅説に立つホロコースト史家でさえ、もはや、ヴァンゼー・メモをユダヤ人虐殺計画の決定文書だとは認めなくなっているという、矛盾に満ちた事態である。

 ペイシーほかの編集による「ラウル・ヒルバーグに敬意を表して」という副題のエッセイ集『ホロコーストの全景』によれば、その理由の第一は、「ヒトラーの国家では、このような重要な問題の決定を官僚の会議でおこなうころなどはありえない」からであり、第二は、「虐殺は一九四一年からはじまっていた」からである。

 ヴァンゼー会議がおこなわれたとされているのは、メモの日付によれば、一九四二年一月二〇日である。絶滅説の物語はこのように、つぎつぎと矛盾が明らかになり、書き直しをさまられているのである。

[中略]

 シュテーグリッヒ判事は、このヴァンゼーの会議録を、ニュルンベルグ裁判の国際検察局のボスだったケンプナーが作成した「偽造文書」だと主張する。その理由を簡単に紹介すると、つぎのようである。

 当時のナチス・ドイツでは公式文書を作成するさい、担当官庁名いりの用箋を用い、とじこみ用の連続番号を記入し、末尾に作成担当者、または会議の参加者が肉筆でサインすることになっていた。ところがこの「ヴァンゼー文書」なるものは、官庁名がはいっていない普通の用紙にタイプされており、連続番号もサインもまったくない。そのくせ、「最高機密」というゴム印がおされているから、かえって奇妙である。連続番号がないかわりに、1ページ目に“D・III・29・Rs”という記号が記入されているが、ドイツの官僚機構は通常、こういう形式で記録の分類はしない。[後略]


『偽イスラエル政治神話』(1998. p.167)

 一九四二年一月二〇日に開かれたヴァンゼー会議は、三分の一世紀にもわたって、そこでヨーロッパのユダヤ人の“絶滅”が決定されたと称されてきたのだが、一九八四年以後には、“見直し論者”の最も残忍な敵の文章の中ですら、その姿を消してしまった。この点に関しては、彼ら自身も同じく、彼らの歴史の“見直し”をせざるを得なくなっている。なぜならば、一九八四年五月に開かれたストゥットガルト会議で、この“解釈”が、明確に放棄されたからである(『第二次世界大戦の期間に置けるユダヤ人の殺害』)。

 一九九二年には、イェフーダ・バウアーが、『カナディアン・ジューイッシュ・ニューズ』の一月三〇日号で、従来のようなヴァンゼー会議の解釈は“馬鹿気ている”(silly)と書いた。

 最後には、反見直し論者の正統派歴史家の一番最近のスポークスマン、薬剤師のジャン=クロード・プレサックが、この正統派の新しい見直しを追認した。彼は、一九九三年に出版した著書、『アウシュヴィッツの火葬場』の中で、つぎのように記している。

《ヴァンゼーの名で知られる会議は一月二〇日にベルリンで開かれた。もしも、ユダヤ人の東部への“追放”という行為が、労働による“自然”の消去を呼び寄せる計画だったとしても、誰一人として、そこでは工業的な消去については語っていない。その後の数日または数週間にわたって、アウシュヴィッツの所長は、会議の終りに採用が決まった装置の研究を要請するような電話も、電報も、手紙も、何一つ受けとっていない》(同書)

 彼は、この同じ本の『要約年表』の中でも、《ユダヤ人の東部への追放に関するヴァンゼー会議》と記している。

 絶滅は訂正された。追放であった


『スペシャリスト』の制作者も、『アイヒマン裁判と現代』の制作者も、まるで時代遅れの天動説のような「ヴァンゼー会議」の古ぼけた教条に、忠実に従っているわけですが、この状況を「滑稽」と形容するのは気の毒です。この問題の論議が欧米では刑法にふれたり、刑法の禁止はなくても実質的なタブーとなっているために、しかも、その論議禁止、言論抑圧状況に気が付かなくても、いや、気が付かない方が、と言うべきでしょうか、ともかく知らなくても無事に世間を渡れるために、欧米だけではなくて、欧米崇拝患者の多い日本でも、このような唖然たる不勉強状態が生じるのです。

虐殺ではない死体と水栓の映像の陳腐な使用法

『アイヒマン裁判と現代』の場合には、「これまでのホロコースト番組とはひと味違う」と称していたのに、やはり、お馴染みの決まり場面の古い資料映像を上手につないで、「ユダヤ人絶滅政策」の「証拠提出」をしているつもりのようでした。ETV特集の担当者が「決定的」と思ったであろう場面は、米軍によるドイツ西南部のダッハウ、英軍によるドイツ西部のベルゲン=ベルゼン、この両収容所における死体処理のフィルムでした。

 日本にも原爆や東京大空襲の焼夷弾が落とされましたが、領土全体を完全に占領されたドイツでは、それ以上の都市破壊が行われたのです。ドレスデン市では、燐爆弾の投下で20万人と言われる広島規模の死者が出ました。ベルゲン=ベルゼン収容所は、アンネ・フランクと姉の最後の場としても有名ですが、2人は発疹チフスにかかってアウシュヴィッツから移送されたのでした。敗走を続けるポーランドからの移送もあって、超満員状態の収容所では発疹チフスなどの死者を処理し切れずに、屋外なら凍結する冬の間、宿舎の間などに積み重ねていたのでした。3月になって収容所を「解放」して自分たちの宿舎に使おうとした米英軍が、その死体の山を、ドイツ人の職員の手やブルドーザーを使って穴に放り込んだのです。以上の経過は誰一人として否定しようとはしない歴史的事実なのですが、この事実経過の説明は、『アイヒマン裁判と現代』では、まったくありませんでした。誰の命令で死体処理をしたのかが、まったく分からない「異様な光景」になっていました。おそらくは、担当者自身が、事実経過を知らなかったのでしょう。

 死体の検死に当たったアメリカの軍医は、薬物による死者はいなかったと報告していました。ダッハウのシャワールームの水栓の映像も使われましたが、「法廷」と称されたニュルンベルグの「茶番狂言」(当時のアメリカ議会発言)または「高級リンチ・パーティ」(当時のアメリカ最高裁首席判事ハーラン・フィスク・ストーンの手紙の形容)でガス室の物的証拠として提出されたのは、この水栓のフィルム映像だけだったのです。1960年制作のハリウッド映画『ニュルンベルグ裁判』でも使われた超々有名な歴史的映像なのですが、ダッハウのシャワールーム跡には現在、「ガス室は建設中だった」、つまり「嘘」だったと実質的に認める掲示が出ているのです。

 アイヒマンは、「600万人のユダヤ人虐殺」を認めながら、自分は移送を担当しただけだから無罪と主張するのですが、アイヒマンが「認め」たからといって、それが「ユダヤ人虐殺」の立証にはなるわけではりません。ナチスドイツは独裁支配の典型でしたから、末端歯車の官僚には、自分が担当したことしか分からなかったのです。そのために、上記のような大量の死体と、ダッハウのシャワールームの水栓の映像などを見せられた結果、ニュルンベルグ裁判でも、「(トップクラスだった)ゲーリングとシュトライヒャーを除く被告は、それを信じた」(『偽イスラエル政治神話』p.230)のでした。アイヒマンも同様の心理状態に陥っていたのでしょう。

赤旗・日本共産党は、さらに唖然の独善

 わがホ-ムペ-ジには、別途、「元日本共産党『二重秘密党員』の遺言」を連載していることもあってか、熱心な日本共産党員の読者も数多いのですが、その内の一人からは、上記『アイヒマン裁判と現代』の中心素材の映画、『スペシャリスト』の論評を掲載した『しんぶん赤旗』(2000.2.6)「文化・学問」欄の切抜きが送られてきました。

 この記事に関しては、文化部の記者と中央委員会のイスラエル問題担当者に、認識の遅れと間違いを教えたのですが、実に失礼な「思い込み」対応で、まさに「属僚集団」の独善の典型的弊害を痛感したので、別途、「元日本共産党『二重秘密党員』の遺言」への執筆を予定すると同時に、以下でも厳しく批判します。

 多木浩二(たき・こうじ・評論家)の署名入り作文ですが、文化部員が付けた可能性が高い見出し、「映画『スペシャリスト』をみて/"ユダヤ人絶滅"への官僚的忠実さ/生み出した巨大な悪」は、本文とほぼ一致しています。つまり、「ユダヤ人絶滅政策が実在した」という前提の論評なのですが、これまた、NHKに輪を掛け、それ以下の唖然たる思い込みだけの作文でした。しかも、不勉強の癖に、独り善がりの知ったかぶりが目立ち、読者の予備知識を無視する"晦渋"こと"子供だまし怪獣"型のオドロオドロ、思わせ振りで実に分かり難い文章になっていました。作文手法の幼稚さも論理構成の粗雑さも、日本共産党の近親憎悪の対象、全共闘時代以後に輩出した「過激派」新左翼の若手「文筆家」の腐臭漂う「分泌」と、まるで区別が付かない程度に似通っています。

『イェルサレムのアイヒマン』を読んだのか?

 多木浩二は、たとえば、つぎのように持って回った表現を気取ります。

「ブローマン(前回紹介の「国境なき医師団」総裁)たちは、悪の凡庸さにつてハンナ・アーレントの裁判についてのルポルタ-ジュ『イエルサレムのアイヒマン』からヒントをえた。われわれはかつて論議になったアーレントの意見について否定したり肯定したりする愚はさけたい」

 ところが、この文中の「かつて論議になったアーレントの意見」そのものどころか、アーレントその人についての説明も、まるで欠けているのです。ほとんどの『しんぶん赤旗』読者にはチンプンカンプンでしょう。

 私は、1995年発行の拙著『アウシュヴィッツの争点』の参考資料リストに、多木が『イエルサレムのアイヒマン』と記した本と同じもののはずの資料の名を挙げていますが、私は副題も重視するので、そこでは『イェルサレムのアイヒマン/悪の陳腐さについての報告』(大久保和郎訳、みすず書房、1994)と記しました。訳書の題名ならば、「イエルサレム」ではなくて「イェルサレム」なのです。「エルサレム」の表記が普通ですが、訳者は現地の発音を重視したのでしょう。この表記の誤りは些細なことですが、実物を確かめたかどうかの疑問を生じます。私なら、こういう場合には、読者の便宜を考慮して訳書の出版元ぐらいは記します。ハンナ・アーレントについては、前回指摘した『朝日新聞』(2000.1.29)の短い記事でも「哲学者」と形容していました。

 多木浩二が、『イェルサレムのアイヒマン/悪の陳腐さについての報告』を本当に読んだのであれば、「かつて論議になったアーレントの意見」の中心課題は、アイヒマンが陳腐か凡庸かどうかなどではなくて、上記の『朝日新聞』(2000.1.29)の短い記事にさえ、薄味ながら記されていた次の大問題でした。これを見落とすのは、非常に難しかったはずです。

「同胞の移送に協力したユダヤ人自治組織もあれば、『同胞を売る』ことで生きながらえた人もいる」

 イスラエル建国を唯一最大の目標にしていた狂気の政治的シオニスト集団は、世界ユダヤ人評議会の主導権を握り、自ら積極的に、ナチスドイツに協力を申し出ていたのでした。アイヒマン裁判では、アイヒマンの代理人による弁護作業の過程で、その狂気の軌跡の一部(『偽イスラエル政治神話』p.112-113)が明らかになったのですが、その事実を『イェルサレムのアイヒマン/悪の陳腐さについての報告』に記録したがために、アーレントは「ユダヤ人社会から袋叩きの目に遭わされた」のでした。

 以上のような「アイヒマン裁判」の歴史的意義について、まるで無知のためというよりも、書名を記し、著者名を記した本を、おそらくは実際に読まずに「思わせ振り」の論評をするなどという行為は、最早、破廉恥と形容する以外にありません。多木浩二の「論評」の小見出しは、編集部によるものかもしれませんが、「根の深さを示す」「凡庸な人間」「行政的な性格」の3っつは、アイヒマンと同時に、多木自身と赤旗記者にも奉るべきでしょう。先に記した「属僚」は、ある日本共産党の後援会長が、日本共産党の官僚主義を批判する際に用いていた言葉ですが、手元の安物辞書では「下役の仲間。下級役人」と説明しています。

以上で(その32)終わり。(その33)に続く。