連載:シオニスト『ガス室』謀略の周辺事態 (その23)

ナチス強制労働&ドイツ作家論争の矛盾の絵解き

2000.1.7 1999.12.12.mail再録。

「歴史見直し研究会」代表、木村愛二です。

 このところ、NHKがしきりに、ナチスドイツ時代のユダヤ人問題に関わる特集を放映しています。このすべてに多くの謎が含まれていますが、その内、以下の3つに共通する問題、「収容所での強制労働」についての「矛盾の絵解き」を提案します。

 第1の番組は、1999.11.19.NHK-BS22特集『パポン裁判の波紋』

 第2の番組は、1999.12.9.NHK-BS22特集『強制労働問題で苦悩する独企業』

 第3の番組は、1999.12.11.NHK教育ETVカルチャースペ-ス『ホロコーストといかに向きあうか』

 第1の番組では、ユダヤ人のアウシュヴィッツ移送の罪で有罪宣告を受けた元ヴィシー政権高官パポンのスイス逃亡に、元レジスタンス闘士として著名な人物が、自分のパスポートを貸していたことが、大きな謎として提示されました。元レジスタンス闘士は、実際にはユダヤ人保護の努力をしたパポンがスケープゴートにされていると語ります。

 第2の番組では、さる12月8日、ナチスドイツ時代の強制労働に対して、ドイツ企業が50億マルク、ドイツ政府が30億マルク、合計80億マルク(約4,500億円)の賠償金を提示し、ユダヤ人を中心とする元収容者の訴訟団が拒否したと報じました。

 第3の番組では、最近、ドイツ書籍出版協会の平和賞を受賞したドイツ人の著名作家、バルザーが、各界著名人1,200人が出席者を前にした受賞記念演説の中で、ナチスドイツ時代の恥辱、とりわけアウシュヴィッツの「ユダヤ人大量虐殺」についてのメディア報道を見せつけられるのが耐えられない、自分の民族の歴史についての考え方を強制されるのには反対、アウシュヴィッツの威嚇的に振り回す手段化に反対するなどと論じ、以後、ドイツのユダヤ人組織との間で厳しい論争が展開された様を描きました。

「アウシュヴィッツの手段化」の意味に関して、バルザー自身は、折から問題になっていた「強制労働への賠償請求」のことか、との問いに対しては、否定的で、たとえばドイツの東西分割は米ソ冷戦の結果なのに、アウシュヴィッツの罪の償いだと主張するようなことを意味したのだと述べています。いかにも作家らしい含蓄のある表現の仕方でした。

 さて、第1の「パポン」問題ですが、ユダヤ人の大量移送に関して、少なくとも、その名目が「労働力の動員」であったことは、誰しも否定しません。ですから、この3つは、「ナチスドイツ時代のユダヤ人の収容所での強制労働」と言う共通項を持つのです。

 そこで、私は、私の「シオニスト『ガス室』謀略」説を、自分では事実を調べもせずに非難する多くの日本の自称「平和主義者」の中でも、特に、これまで、「日本はドイツの戦後補償を見習え」という主旨の主張をしてきた人々に、つぎのように質問します。

 日本が模範とすべきドイツは、これまでに、「ナチスドイツ時代のユダヤ人の収容所での強制労働」に対して、賠償金を支払っていなかったのでしょうか。

 これが、奇妙なことには、払っていなかったのです。というよりも、そういう要求は出されていなかったのです。なぜか。その理由は実に簡単なのです。私が主張している「シオニスト『ガス室』謀略」を信じない人は、おそらく、「ユダヤ民族絶滅」だけでなく、「強制労働」までさせていたナチスドイツ、という風に理解したがるのでしょう。しかし、「収容所での強制労働」は、「ユダヤ民族絶滅のための収容所」という主張とは、全く矛盾するものなのです。

「強制労働」までさせるほど「労働力不足」だったのに、「絶滅」を目的とする収容所を作って「大量殺戮した」と主張していることになるのですから、これは両立しません。おかしいと疑うのが普通の考え方なのです。ですから、パレスチナ分割決議を推進した政治的シオニストは、その要求を欧米列強に呑ませるために、「ユダヤ民族絶滅」を目的として「ガス室」工場まで作って大量虐殺をしたのだと主張することの方に力点を置き、「強制労働」の方は問題とはせず、そのことへの賠償金も要求しなかったのです。

 この点の矛盾を、私は、すでに4年半前に出版した拙著『アウシュヴィッツの争点』の中で、つぎのように指摘しました。


『アウシュヴィッツの争点』(p.108-112)

第2章/「動機」「凶器」「現場」の矛盾
「強制収容所」にはなぜ「死亡率低下」が要求されたのか

[中略]ドイツは当時、[中略]第一次大戦で負けたために旧植民地を失っていた。[中略]開戦当時、日本が活用していたような人的資源の供給地がなかった。それにかわるものが、政治犯や数百万人のユダヤ人、捕虜、あらたな征服地の住民だった。事実、アウシュヴィッツは巨大な軍需工場だったし、最初の収容者は現地のポーランド人だった。

[中略]

 軍需工場の「労働力」としての面から見ると、ナチス・ドイツは総力をかたむけて収容者の増加に努力している。[中略]最高責任者だった親衛隊総司今官ヒムラーが何度もきびしく「死亡率低下」を命令した[中略]。[元アウシュヴィッツ収容所司令官]ホェスの「告白」はざまざまな矛盾にみちているが、この「絶滅説」と相反するヒムラーの命令をも各所でしるしている。

 日本の研究者でも大野英二がその実証的な労作、『ナチズムと「ユダヤ人問題」』のなかで、「戦争経済の再編成のさなかで最も焦眉の問題となった労働政策」を「労働総監ザウケル」がいかに遂行したかを、克明にまとめている。「ヒトラーは婦人労働の動員に反対し続けた」などという記述もある。日本の女子中学生の勤労動員などと比較しながら読むと、なるほど、なるほどと実感がわいてくる。ただし、大野は「絶滅説」には疑いをいだいていない。その部分の実証はよわいし、きわめて唐実になっている。

[後略]


 その後、フランスで出版されて論議を呼び、著者のガロディが有罪となった拙訳『偽イスラエル政治神話』の中でも、ガロディは、つぎのように論じています。


『偽イスラエル政治神話』(p.169-171)

[軍需産業の重要任務が課せられていた集中収容所]

 以下に述べる焦点の明確化は、決して、ヒトラーの犯罪の軽減を認めることではなくて、最も頑強な絶滅理論の賛成者でさえも無視し得ない明白な事実の指摘でしかない。

 ヒトラーは、スターリングラード以後、戦争の最後の二年間、窮地に追い込まれていた。同盟軍の爆撃によって、彼の軍需産業の拠点は破壊され、輸送網は寸断されていた。

 彼は、工場を空にしても新兵を動員せねばならず、戦争遂行への致命的な強迫観念に駆られながら、捕虜やユダヤ人を絶滅するどころか、逆に、彼らを工場の作業台に並ばせ、非人道的な条件の下で働かせなければならなかった。[絶滅論者の]ポリアコフでさえも、彼の著書『憎悪の日読祈祷書』の中で、この気違いじみた矛盾を強調している。

《彼らをたとえば、一時的な居留地に囲い込んで重労働に従事させる方が、より経済的である》

 ハンナ・アーレント夫人も同様に、この[絶滅]作戦は狂気の沙汰だと指摘する。

《建築資材が欠乏し、物資の供給に苦しむ戦争の最中に、巨大で高価な絶滅計画の設備を作り、百万単位の人員の輸送を組織するに至って、ナチは、有害なまでに役立たずな方向に直進した。……このような[絶滅]作業と、軍事的な強い要請との間の明白な矛盾は、すべての計画に気違いじみた幻想の雰囲気を与えた》(ハンナ・アーレント『全体主義的組織』72)

 それにしても、さらに異常に思えるのは、ポリアコフやハンナ・アーレントのような鋭い感覚の持ち主までもが、この点に関してのア・プリオリの下で意識朦朧となり、彼らの非現実的な仮定自体を、再検討しようともせず、記録と事実に立ち戻ろうともしないことである。

 アウシュヴィッツ=ビルケナウ複合収容所には、ファルベン産業(化学)、ジーメンス(輸送船)、ポートランド(建設)の強大な工場があった。モノフィッツ(アウシュヴィッツに隣接する収容所の一つ)では、一万人の収容者と、一〇万人の民間労働者と、千人のイギリス人の捕虜が働いていた(『ポーランドにおけるドイツの犯罪』46)。

 一九四二年から一九四四年の間、アウシュヴィッツの三九か所の衛星収容所の内、三一の収容所で収容者を労働力として使用しており、その内の一九収容所ではユダヤ人が主力だった。

 一九四二年一月二五日には、ヒムラーが、集中収容所の総監たちに向けて、つぎのような命令を下していた。《一〇万人のユダヤ人の受入れ準備をされたい。……近々、集中収容所には、重要な経済的任務が課せられる》(ニュルンベルグ裁判記録)

 一九四四年五月には、ヒトラーが、ジャガー[戦闘機]の建造とトット機関[自動車道路と電気関係のナチ党中央機関。トットは創設者の名]の労働者として、二〇万人のユダヤ人を役立てろと命令した。

 一九四三年一二月一八日付けの親衛隊WVHA[財務・管理本部]の命令では、良く働いた収容者……ユダヤ人も同様……に対して、ボーナスの支給を命じている(『アウシュヴィッツ博物館センター資料』62)。

 以上のように、そこには、いささかも、“気違いじみた幻想”などは存在しておらず、その真反対の無慈悲な現実主義が支配していた。しかも、このことこそが、“絶滅論者”の理論に対する補足的な反証を構成するのである。


 上記のNHKの特集を見る限りでは、ドイツ人作家のバルザーは、「アウシュヴィッツ」の「ホロコースト」を事実だと思っているようです。しかし、上記の番組には出てこないものの、ドイツで「ホロコースト」を疑う言動が刑事罰になっていることを、バルザーが知らないはずはありません。「自分の民族の歴史についての考え方を強制されるのには反対」という主張は、その現実の反映でしょう。

「ホロコーストは嘘だ」と主張し、「収容所は労働力確保の場でもあった」と考えることができれば、歴史の事実を論理的に説明できるのです。ところが、「アウシュヴィッツはユダヤ人絶滅のためのガス室工場」だったという説に、疑いを差し挟むことを許されずに、何度も何度も「恥辱」の映像を見せつけられると、作家の論理回路が異常をきたし、「耐え切れない」と感じ出すのでしょう。NHKの特集の映像は、バルザーの演説の終りに、ほとんど全員が立ち上がって、絶賛の拍手を贈っていたことを、写し出しました。バルザーの主張は、大多数のドイツ人の共感を呼んだのです。

 私は、「ホロコーストの嘘」でドイツ人から来世紀に至るまでの賠償金を巻き上げ、さらに、それと矛盾する「強制労働」まで持ち出すユダヤ人組織、ただし、事実上はイスラエル支持の極右団体の正体を、多くのドイツ人が見破り始めているのだと思います。これは、政治的シオニストの勇み足です。もしかすると、この勇み足の背景には、現在、パレスチナの和平交渉で孤立化を深めるイスラエルの極右勢力の意向が、反映しているのかもしれません。彼らの武器は、常に「脅迫」あるのみなのです。

 バルザーの平和賞受賞記念演説に、立ち上がって拍手することを拒否したドイツのユダヤ人組織の代表、ブービスは、見るからにヤクザの大親分風でした。このブービスが、その後、バルザーを公然と非難したことから、ドイツ国内の論争が展開されたのです。私は、この論争のエネルギーを、さらに、言論弾圧反対、実証的研究の推進へと、向けて欲しいと願います。

 以上。


 以上への追加。

質問に応えて:ドイツ作家論争の「民族」問題

1999.12.17.mail再録。

 木村愛二です。

 私の先のmail、「ナチス強制労働&ドイツ作家論争の絵解き」に関し、pmnMLにて、萩谷さんが特に「民族の歴史」という表現についての危険性を指摘され、秋元さんからも、正確な報道内容を知りたいとの主旨の質問が寄せられました。

 正直言って、これは実に厄介な問題になったと思い、参っています。

 私の録画自体が、ふと番組を見始めて気付いた友人からの電話で、急遽セットしたもので、冒頭部分が5分ほどチョギレてます(その後、完全なコピーを入手)。新聞と違って、放送(特に日本の)は、一般の視聴者がめくって確認することができません。このこと自体も大問題なのです。私が、録画から原稿を起こして文字だけで発信するとしても、1日掛けたぐらいでは、とうてい不可能でしょう。大事なお目目も疲れます。冒頭チョギレ録画のコピーで良ければ、1本の単価、398割る3プラス消費税=140円弱で入手したテープの在庫がありますので、それに、超々安物新品と中古のヴィデオデッキの減価償却費、郵送料390円プラス梱包費等、プラス盛大なカンパ、1,000円を、「歴史見直しジャーナル」00120-1-116813に郵便振り込みして下されば、素人コピーを郵送します。

 さて、「ドイツをゆるがす議論」となった問題が、pmnでも議論になるとすれば、表現には正確さが求められますので、とりあえず、もう一度見直しました。演説の部分と対談、また演説とに分かれていて、演説は要所だけのようです。作家バルザーの表現は、とても長いのですが、原語は冒頭だけで、すぐに日本語に入れ替わり、原語の確認はできません。「ドイツ人は仮釈放の身」という文脈の中で、歴史と言ったり、過去と言ったりしながら、考えを「指図されたくない」と何度も言っています。「命令されたくない」と言う表現は、バルザーの演説を支持する手紙の言葉でした。「指図」と「命令」が、原語では違っているのかどうかも分かりません。

 私は、以上の長い話の主旨を「民族の歴史についての考え方を命令されたくない」と要約しました。この「民族」と言う単語に、萩谷さんが、「国家主義」の「復活」の要素を感じられたのでしょう。それは、ごもっともで、私は、すでに、拙訳『偽イスラエル政治神話』(1998.9.30)で、「『nation』は、国民、国家、民族を意味する曖昧な言葉である」という問題点を指摘しました。語源のラテン語では「生れ」の意味ですが、それに政治的利用のニュアンスが加わっています。バルザーの演説にも、曖昧さがあって、いわゆる右のネオナチなどが、その曖昧さを利用しているようです。

 バルザーが「アウシュヴィッツの手段化」と表現した問題も、この曖昧さとネオナチの利用に基礎を置いていると思います。「ガス室は嘘」と一言でも言えば、「ネオナチ」と攻撃され、歴史の事実の検証が封殺され、沈黙を強いられるのが、ドイツの実情なのです。その危険性を痛感したからこそ、私は、拙著『アウシュヴィッツの争点』で、つぎのように、NHK報道のあり方も含めて、この際どい問題点を指摘したのです。


『アウシュヴィッツの争点』(1995.6.26.p.255-286)

第七章/はたして「ナチズム擁護派」か

[前略]

 NHKが「海外ドキュメンタリー」(3チャンネル、93・6・4)で放映した『ユダヤ人虐殺を否定する人々』では、映像に特有の錯覚をつくりだし、「否定する人々」の実態をゆがめてつたえる結果になっている。

[中略]

 画面は政治集会の会場シーンからはじまる。最初はストップモーションで、右下に「海外ドキュメンタリー」という決まり文字の番組名がスーパーされている。絵が動きはじめ、カメラが引くと、会場には何百人もの人々がひしめいている。若い男女がおおくて、雰囲気はあかるい。パーン、パーンと、調子をそろえた拍手がなりひびく。色とりどりの旗が左右にはためく。旗の波の下に「制作・DR(デンマーク 1992)」の白抜きゴシック文字がスーパーされる。

 調子をそろえた拍手は、集会の講師にたいする歓迎の気持ちを表現している。熱狂的な拍手でむかえる群衆の間から、典型的にいかつい四角の顔をした講師が、むずかしい表情ではいってくる。いかにもネオナチの理論的指導者風だが、すでに紹介ずみの(わたしの考えでは「軽率な」)イギリスの作家、デイヴィッド・アーヴィングである。

 アーヴィングの顔のうえに、丸い白地にえがいた大型の黒のカギ十字(旧ナチ党の党章)がかさなり、ディゾルヴ(溶明、溶暗)で画面がいれかわる[以下では、このモンタージュ手法を「ディゾルヴのカギ十字」とする]がいれかわる。赤い生地にはたくさんの小型カギ十字がうすくあしらわれている。生地は幕か壁の模様のようである。さらにそのうえに「ユダヤ人虐殺を否定する人々」の筆文字(つまりNHKが日本版用につくった文字)が回転してきてかぶさる。下には副題として「~ナチズム擁護派の台頭~」という白抜きゴシック文字がはいる。

 ここまではまったくセリフがない。だが明確に、「ユダヤ人虐殺を否定する人々」と「ネオナチ」、「旧ナチ党」などの同一性を強調する画面構成である。視聴者は最初に、そういう印象、先入観念をあたえられてから、この番組の中身を見ることになる。四五分(CMがはいる民放なら一時間)という長時間番組のわりには、視聴者の判断の選択幅が最初からせばめられているといえよう。

[後略]

過去の過大な賠償金支払いと、現在の過大な精神的負担との類比

『ユダヤ人虐殺を否定する人々』の画面は最後に、冒頭の政治集会の場面にもどる。きりかえの合図は、またもや「ディゾルヴのカギ十字」である。

 カットインの写真で会場の建物と前の広場の、戦争中と現在の風景がうつしだされ、解説がはいる。

「戦争当時、ニーベルンゲンハーレンの広場は、ナチスの政治集会につかわれていた。そして現在、……」

 画面はまた会場のなかにもどる。調子をそろえた拍手のなかを作家のアーヴィングが、政党幹部らしい白髪の男とならんで演壇にむかってすすんでいる。解説がはいる。

「五〇年前をほうふつとさせる風景が建物の中でくりひろげられている。ナチズムを信奉する一政党、ドイツ民族ユニオンの集会である。この政党は一九九一年九月、ドイツ北部、ブレーメンの選挙で、周囲の予想をうわまわる勝利をおさめた」

 たしかに、「五〇年前をほうふつとさせる風景」なのであろう。しかしわたしはすでに、この集会の参加者について、「若い男女がおおくて、雰囲気はあかるい」としるした。「ドイツ南部の町、ホルツハイム」のキャンペーン集会についても、「質素な感じ」とか「なごやかな雰囲気の集まり」とか「ごく普通の市民層なのではないだろうか」としるした。時代がちがうといえばそれまでであるが、政党やイデオローグの側にも、リラックスした雰囲気がある。わかりやすくいうと「票がのびる」雰囲気なのである。それはなぜなのだろうか。

 五〇年前、というよりはそれ以前の七〇年ほど前のヒトラーが台頭した時代のドイツでは、第一次世界大戦の賠償金支払いが経済を崩壊していた。その経済的および政治的状態への不満がナチ党発展の火種となった。その教訓から、第二次世界大戦の戦後賠償請求はゆるやかになり、西ドイツは日本と同様の経済的発展をとげた。

 だが、かつての「過大な賠償金支払い」にかわるものとして、現在は「ホロコースト」という「過大な精神的負担」がドイツ人に課せられているのではないだろうか。この「精神的負担」が、もしも虚偽の報道にもとづいているのだとしたら、そして、おおくの「普通の市民層の」ドイツ人が、その虚偽を見やぶる材料と論理を自分のものとしたら、まさに「五〇年前をほうふつとさせる」以上の政治状況がうまれても不思議ではない。

 すでに紹介したように、ドイツで裁判官の解任にまでいたった裁判の判決文にも、「ドイツはホロコーストを理由に、ユダヤ人の政治的、道徳的、金銭的要求にさらされて」いるという認識が明記されている。しかも、そのユダヤ人の「要求」が過大かいなかという以前に、その「理由」が虚偽の主張にもとづくものだというのだから、これはまさに質的な問題である。民族のアイデンティティにかかわる決定的に重大な問題であり、第一次大戦後の事態よりもさらにのっぴきならない不満の材料に発展する要素をはらんでいる。

「アウシュヴィッツの嘘」発言処罰の「禁固刑」を、三年から五年に延長強化したドイツ議会の法律制定行為は、沸騰点に達しつつあるボイラーの安全弁に厳重な溶接の封をかぶせるような愚行のきわみである。爆発のエネルギーは確実に倍加するであろう。

 そういう意味で、この『ユダヤ人虐殺を否定する人々』という映像作品は皮肉にも、その制作者の主観的な意図をはるかにこえて、わたしに、「ホロコースト」物語の「過大な精神的負担」がもたらしたドイツの危機的な政治状況を教えてくれた。映像作品ではこのように、映像が解説を裏切ることが時として生ずるものである。しかも、解説が矛盾だらけであれば、なおさらのことなのである。


 私は、同書の「はしがき」に、「この問題の真相がユダヤ人自身の手で明らかにされることが、最良の解決法だと考えている。ユダヤ人のホロコースト見直し論者は、すでに何人もいるのだ」と記しました。

 以上。