連載:シオニスト『ガス室』謀略の周辺事態 (その27)

ニュルンベルグの誤審「カチンの森」

2000.2.4

 本シリーズ(その25)で記したニュルンベルグ裁判における「カチンの森」の誤審について、以下、拙著『アウシュヴィッツの争点』(1995.6.26.リベルタ出版)と、拙訳『偽イスラエル政治神話』(1998.9.30.れんが書房新社)の記述を再録します。


『アウシュヴィッツの争点』(p.46-47)

「ホロコースト」の聖地、アウシュヴィッツにちなんで、おなじポーランドにかかわる同時代の歴史的事件を思いだしてほしい。現在のベラルーシとの国境に近いロシア領、スモレンスグ郊外の「カチンの森」で、「数千人のポーランド軍将校」(『ポーランド現代史』)が虐殺ざれ、埋められていた事件の場合、戦後にソ連軍当局がドイツ軍将校の「自白」調書を作成した。「証言」もなされた。それがそのままニュルンベルグ裁判で認定され、以後四十余年、公式的にはナチス・ドイツの犯行だとされてきた。だが、ベルリンの壁の崩壊後、ソ連のトップがみずから事件を自軍の犯行だったとみとめたのである。


『偽イスラエル政治神話』(146-147)

[カチンの森・ポーランド将校虐殺事件の誤審判明]

 同盟国の調査委員の報告に証拠価値を認めるニュルンベルグ裁判所規則[21条]の効能で、カチンの森で一万一千名のポーランド将校が虐殺された事件に関しても、それをドイツの犯行だと告発するソ連の報告が、一九四五年八月八日、勝利者たちによって異論の余地のない“真正な証拠”として採用された(ニュルンベルグ裁判記録)。

 ソ連の検事総長、ルデンコ将軍が、《異議の提出はないと信ずる》(同前)と公言できたのも、ニュルンベルグ裁判所規則21条あればこそである。

 ところが一九九〇年四月一三日[訳注]、世界中の新聞が、カチンの犯罪はベリアの命令の下にソ連当局によって行われたものと報じた。

[訳注]:日本では翌一四日に各紙が報じている。ただし、この時の報道は、ソ連当局が自認したことの報道であって、早くも一九四九年には、アメリカ下院・カチンの森虐殺調査委員会が設置され、一九五一~一九五二年に、ソ連の犯行とする報告を発表している。これらの経過を明記したドイツの歴史家、ウェルナー・マーザー著『ニュルンベルグ裁判』の初版は、一九七七年発行であるが、カチンの森に関するニュルンベルグ判決の否定は、どこでも非難の対象とはなっていない。ユダヤ人問題だけが特別扱いされているのである。

 ジュネーヴ大学のナヴィル教授は、死体を調査して、そのポケットから一九四〇年の文書を発見し、処刑が行われたのは、その時期だということを立証した。一九四〇年には、その周辺のスモレンスクはソ連の占領下にあった。


以上で(その27)終わり。(その28)に続く。