〈2022.2.11集会講演録〉

この記録は2022年2月11日、『2.11 反「紀元節」集会&デモ「建国神話」のタネ
あかし』として行われた集会にて、千本秀樹さんにお話いただいたものの全文記録です主催の実行委員会と講演者の承諾のもと、当編集委員会でまとめました。

天皇制文化の象徴としての紀元節に抗して
 〜民衆の文化とは何か〜

千本秀樹さん(現代史研究)

今日は「紀元節」「建国記念の日」で、それと闘う中身をどう作っていくかということで、皆さんお集まりになったと思います。以前も、別の主催者の反紀元節集会でもお話ししたことがあり、明治政府は「紀元節」を定める際に、見苦しいまでのドタバタを演じていて、それを後追いするのも滑稽な話として面白いのですが、あまり産み出すものはないのかなと思いまして、今日はそういう話は省略させていただきます。「紀元節」「建国記念の日」というのが天皇制文化を象徴するものとなっている。そして、それが象徴する日本文化というものは何なのか。そして、それに対抗して作り上げていく私たちの文化とは何なのか。それを中心にお話ししたいと思っております。

◆現代の「帝国主義」と「ナショナリズム」

現在、さまざまな国において、ナショナリズムが政府の手によって鼓吹されている。それはなぜなのか。帝国主義世界体制の再編、変容に原因があるのではないかと考えます。「帝国主義」という言葉は最近では口にされることが非常に少なくなっている。私たちの世代では、アジビラを書くときに、1行に1回は「帝国主義」という言葉が出てきた(笑)。にもかかわらず、現在では使うことがほとんどなくなって、若者たちの間では、帝国主義世界のことを「民主主義」と呼ぶことが当然であるかのようになってしまっている。「日本も帝国主義だよ」というと、学生たちはビックリするわけですね。「エッ、日本は民主主義じゃないんですか?」と。もちろん、現代の帝国主義というのは、20世紀前半の帝国主義とは非常に大きく様変わりしています。第二次大戦以降は、それまでの伝統的な帝国主義とさほど変わらない形があって、1960年代までの日本では「新植民地主義」という言葉を使う人たちもいました。70年代、アジア諸地域で反日運動が起こったのも、そういう旧来型の帝国主義を日本でも復活させようという方向性があったためだろうと思います。ところが、現在ではもうそうではない。

帝国主義各国は、第三世界に対して「援助」という名目で資本投下を行なってきました。しかし、その「援助」を受ける国によって、対応の仕方が違ったのだろうと思います。たとえば中国の場合だと、日本がいくら資本投下をしても、それが日本の利権だけに繋がるということはないわけで、日本の援助を利用して、中国の経済発展のために利用したということがあるんだろうと思います。一方で、フィリピンなどでは、四大家族、それがいまだに4つなのか断言できませんが、彼らが私腹を肥やすために援助を利用していて、フィリピンの経済発展のためには中々繋がらないという状況にある。しかし、そういう国は少なくなっている。そのため、第三世界はある程度の経済的力を持つようになってきた。しかし、これはいわば帝国主義の必然であって、帝国主義はかつての植民地に対して、原料を供給させるだけではなくて、マーケットとして機能させる側面もあったわけです。だから、帝国主義本国で作った製品を支配する地域で買わせるためには、植民地にそれなりの経済力をつけさせなきゃいけない。そのなかで、かつての植民地とされた国々が、原料を供給するだけではなくて、かなり精巧な部品をも作るようになってきた。帝国主義本国が彼らを一方的に収奪する関係性ではなくなり、やむを得ず今度は自国の労働者階級をふたたび厳しく収奪せざるを得なくなっている。それは、アメリカにおいても、日本においてもいわゆる「格差社会」(この言葉は非常に欺瞞的であると思っていまして、どうして「階級社会」という言葉を使わないのだろう。あたかも「階級」が消滅したかのような幻想を「国民」に与えるために、教育でも「階級」という言葉を使わなくなっているんだろう)といわれるように階級の分化がどんどん激しくなっており、資本家自身がグローバル化して、国家に捉われない展開をしてゆくなかで、各国政府は依然国家という1つの枠組みのなかで政治をしないといけないわけですから、当然そのなかで引き締めをやらざるを得ない。そこでナショナリズムが強化されてゆくということなのではないか。アメリカ、ヨーロッパでもそうです。

◆「国家」に対抗する「社会」

『伝統、文化のタネあかし』 千本秀樹・長谷川孝・林公一・田中恵/発売/アドバンテージサーバー、発行/2008年7月

日本政治でそれを象徴する出来事が、2006年、第一次安倍内閣における、「教育基本法」改悪でした。その後、私は友人たちと『「伝統・文化」のタネあかし』(アドバンテージサーバー、2008、以下『タネあかし』)というブックレットを出しました。今日の集会のタイトルが、「建国神話のタネあかし」ということで、使っていただいたわけですが(笑)。「教育基本法」改正で、「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛する」(二条、五項)という条文が掲げられました。そして、十数年経って、小中学校のすべての教科において、この「伝統・文化理解教育」を推進する体制が整えられてきています。

『タネあかし』冒頭の「はじめに」(4頁)で書いておいたのですが、当初、民主党の提出した対案には露骨に「愛国心」という言葉が使われていたのですが、政府の出した改正案には「国と郷土を愛する態度」という言葉が使われました。この「国」と「郷土」という全く異質なものを並列させているところにゴマカシがあると思います。私たちの間でも「国家」と「社会」をあまりハッキリ区別せずに使う習慣がないだろうかと思っていまして、たとえば「日本の国家と社会」と言ってしまえば、それで日本の全体を表しているように考えてしまう錯誤がある。私は「国」と「社会」は根本的に違うものだと考えていて、「国家」に対抗するものとして「社会」を考える必要があると考えます。「国家」は人類史上せいぜい五千年の歴史しかありませんが、「社会」は人類誕生以来ずっと存在しており、ヒトとヒトとの結びつきが社会です。人類のみならず、アリやハチ、その他の動物の世界にも、共に生きてゆくための仕組みとして「社会」があるわけです。民衆を支配する装置としての「国家」が、ヒトとヒトとの「社会」を変質させてしまった結果として、私たちを縛る「世間」になってしまった。それを再び私たちが共に生きる仕組みへと作りなおしてゆくのが「社会主義」ではないかと思っています。

天皇制「国家」が、私たちの「社会」を現在どのように縛っているのか、自覚する必要があると思います。若者たちと話すと、彼らもどこかで「天皇なんてそんなに必要じゃない」と思っているが、「でもなくすのはモッタイナイよね」という反応が返ってくる。「なくすのはモッタイナイ天皇制」とは一体何なのか。「これこそが日本の文化なんだ」と意識されている。世界の王室のなかで、千数百年、それこそ2千年続いた王室はない。日本の豊かな「伝統」「文化」を象徴する貴重な存在であるかのように、若者たちの間にも浸み透ってしまっている。「建国神話」によれば二千六百数十年の歴史をもつ天皇制。こうした天皇に対する「国民」の意識、天皇を中心とする日本文化に対する意識のほとんどは、実は明治政府によって創り出されたものである、というのがブックレット執筆者4人の共通の問題意識でした。

◆「日本」と「天皇」

日本文化とは何か考える前に、まず「日本」とは何なのかを考える必要があるわけですね。それは決して47都道府県ではない。それより狭かった時代が長く、あるいは短いがそれより広い時代もありました。「日本」という国号が使われ出したのは、7世紀の終わり、天武・持統の時代だといわれ、それと「天皇」という呼称の使用もほぼ同時期からとされる。そういう意味で「日本」と「天皇」は切り離しがたく、私たちが「日本」という名称を使い続ける以上、そのことをどう考えるのかは非常に重い課題です。もちろん、その当時「日本」という名称が意識されていたのは、基本的にヤマト朝廷が支配する地域であって、日本列島の西や東半分は「日本」ではなかったわけです。ヤマト朝廷に政治的に従わない人々は「エミシ」と呼ばれ、そこには縄文系やのちにアイヌと呼ばれる人々だけではなく、天皇を中心とする人たちと一緒に大陸から渡来してきた弥生系の人々もいました。

「弥生時代」は今から約3千年前、紀元前10世紀頃からだと現在ではいわれていますけども、教科書ではいまだに紀元前3世紀となっている。2000年前後、小学校の歴史の教科書から「縄文時代」が消え、日本列島の歴史が「弥生時代」から始まるとされた時期がありました。しかし、教科書会社も執筆者も「縄文時代」を無視するわけにいかないため、「弥生時代」の後のコラムで小さく扱うという変な構成になっていました。「縄文時代」が正式に復活したのは2006年なんです。皆さん、その新聞記事にはほとんど目を留めておられないと思いますが、安倍首相退陣が一面にデカデカと報じられた朝刊の片隅に、「縄文時代、教科書に復活」という記事が小さく出ていて、私は印象深く覚えています。なぜ教科書から消され、そして復活したのか。天皇が稲作の神様であるということ、もう一つは縄文人が弥生人とは別の種族だということがハッキリしてきたことと関わりがあるのではないかと思っております。弥生人は縄文人の子孫ではないわけですね。かつては、縄文人が大陸の稲作文化を学んで、弥生時代になっていったと理解されていて、いまだにそれにこだわる学者、研究者も多いわけですけど、今ではほぼ骨格やDNAといった自然科学の方面から否定されてきた。天皇一族は、中国大陸および朝鮮半島から渡ってきた渡来人のなかのリーダーだということがハッキリしてきた。縄文人、縄文文化に人々の関心が集まる一方で、弥生人中心の歴史叙述にしなければいけないという強迫観念が働いたのかなと思っています。もちろん縄文人と弥生人がどの程度混血したのかは議論があり、形質人類学からみると、南九州や東北はいまだに弥生人の影響が少ないといわれています。日本列島における現在の文化の源流は、非常に多様であったと言えるわけです。

「日本とはどこなのか」というと、天皇と一緒に渡ってきた人たちであっても、天皇に服属しない人たち、縄文人を含めて「エミシ」と呼ばれていて、彼らが住む地域は基本的に「日本」ではなかったわけです。それと同時に、いろんな地域の博物館をみてまわりますと、常設展で「日本列島の歴史」と「地域の歴史」を並べて年表にしてあるところが結構多いのですが、やはり正確に表現しようとする博物館では、西日本では弥生時代が紀元前3世紀頃とされていても、「この地域では紀元前1世紀くらいから」と、日本列島全体と、地域の歴史を区別して掲示している博物館もあります。3、40年前から「東北学」が盛んになり始めて、東北の歴史は日本列島と歴史を共有しないところが沢山ある、そういう東北の独自性、固有性を大事にしたいという気持ちが、東北の人のなかで拡がっていった。明治維新以来、東北は政治的に差別されてきた。戊辰戦争で東北の大名たちが新政府に抵抗しつづけたことが一番大きな原因です。それを受けて、日本の「国民」のなかでも、東北を一段見下げるような風潮があり、それに対する東北の人たちの抵抗なんだと思います。青森県の弘前ねぷた祭りには、かつてグランプリ「田村麿賞」があったが、95年に「ねぷた大賞」に改称された。どうして東北地域の征服者の名前を冠するのか、そして史実の坂上田村麻呂は青森には来ていない、というのが主な理由でした。そういうところにも、自分たちの独自性を大事にする意識が現れています。

いわゆる「日本文化」は47都道府県、列島全体に共通する文化ではない。ないのだけれど、さもそうであるかのように思わされてきた。それが「日本イデオロギー」なんだと思います。TVをつけていましたら、あるおばあさんが「これは日本人なら誰でも分かることですよね」と言っていた。でもそういう発言をする人は、日本全国の人たちに一々確かめているわけではない。それなのにほぼ確信をもち、これは全国民に共有されていると思い込んでいる。それが国家としての「日本イデオロギー」です。日本文化の根底に天皇制が分かちがたく結びついているんだろうと思います

◆封建制の多様性と自治

もちろん、私たちが現在継承している日本列島の文化すべてが、明治政府によってつくられたわけではない。たとえば、畳で暮らす生活、1日3回の食事、お茶の普及、ドブロクではなく清酒を呑むようになったのは、室町時代からです。南北朝時代、室町時代、戦国時代と室町幕府があった時代を3つに分けたときの、広義の室町時代ですね。ここで1つ問題なのが、狭義の室町時代は1392年から始まるということになっているんですけども、この年にあったのは南北朝の合一です。南朝の天皇が北朝の天皇に三種の神器を渡したとされる。そこから、応仁の乱が始まる1467年までの間を狭い意味の室町時代といっています。1937年に文部省が作成した官製の『国体の本義』によると、室町時代の将軍は義満から始まるんです。というのは、足利尊氏は天皇から正当に任命された将軍ではないので、将軍のなかには数えないんですね。ですから、皇国史観でいうと、足利義満からが室町時代、足利将軍だとなっているんですが、室町時代というのは、私たちが現在慣れ親しんでいる生活のあり様がスタートした時代でもあるわけです。(『国体の本義』に関しては『季刊現代の理論』でも論じておきましたので、興味のある方はweb版をご覧ください。http://gendainoriron.jp/vol.20/feature/chimoto.php

日本列島はもともと細長いということもありまして、それぞれの地域によって、様々な文化がありました。それを明治維新で成立した中央集権国家(私はあえて「近代」という言葉は使いません、人によって意味するところがまったく違いますので。いつから「近代」という論争もずっとあります。ただ「近代天皇制」という言葉は使っちゃってますが)が、天皇制国家として成立するなかで、豊かな多様性を持った列島の文化を均質化させてしまった。いわば、貧困なものに陥れてしまったのが、天皇制日本文化というものなのだということをかつて書きました(『何が列島の文化の豊かさを奪ったのか:近代天皇制による均質化』第3次『現代の理論』第7号、http://gendainoriron.jp/vol.16/images/f09_fig01.pdf)。現在47都道府県に組み込まれてしまっているアイヌ、琉球の文化はもちろん、ヤマトの文化も非常に多様性に富んでいたということを忘れてはいけません。

実は意外なことに、封建制が日本に限らず、現在1つにされてしまっている地域の文化の多様性を育んできた側面はあるわけです。「封建制」といっても、それはもともと外国の言葉、feudalismですから、日本にそのまま当てはめられるかという議論が必要ではあるわけですけれど、日本でいえば、前期封建制と後期封建制に分けられます。前期封建制(中世)は室町時代まで、後期封建制(近世)は、戦国時代が大名が民衆を直接支配するという体制なので、戦国時代から江戸時代までという考え方が一般的になっています。前期は戦と疫病の時代です。身体と生命に危険があるとともに、比較的自由な時代でありました。一方で後期は安定して、生命は安全だが、身分制と土地に縛られた非常に不自由な時代でした。「危険で自由な時代」と「安全で不自由な時代」と、どっちがいいか若者たちに聞きますと、「安全で不自由な時代がいい」というのが現状で、非常に残念ではありますが(苦笑)。現代の私たちは、身分制をマイナスに捉えますし、私もそう思いますけれど、しかし一方で庶民のあいだでは自治があったことも忘れてはなりません。

たとえば、「賤民」とされる人々には、各地に長吏頭(エタ頭)がいて、彼らは被差別身分のなかでは大名ともいえる地位にいました。東日本では矢野(浅草)弾左衛門が有名で、京都の下村家をはじめ、西日本には何人かいました。浅草弾左衛門は矢野という苗字を名乗り、刀を差し、そして4人の家老がおり、家老も苗字帯刀が許されており、東日本の被差別身分全体を政治的、経済的に統括する立場にいました。被差別身分の人々に関する事件やいさかいが起こっても、幕府や江戸町奉行は介入できないんです。町人と被差別身分の人々が喧嘩やイザコザが起こりますと、被差別身分側の利益を代表して弾左衛門役所が、町人側の利益を代表して、町奉行所が話し合うわけです。被差別身分の人が犯罪を犯しても、町奉行所は勝手に処分できません。いわば被差別身分の人たちの自治があるわけです。

江戸時代は自治の時代だった。大名は、自分の領地の支配のあり方について、よっぽどまずい問題を起こさないかぎり、徳川幕府から改易といって取り潰しや国替えで、領地を奪われることはありません。大名の自治があるからです。ただそれは所有物ではありません。江戸時代にあっては、土地は誰のものであったのかという議論もあります。また農民の年貢は一軒一軒に対してではなく、ムラ単位に課されていました。何かの事情で、誰かが納められなければ、その農家の年貢はムラ全体、みんなで補填するわけです。ムラ単位の自治というものがある。そして若者たちには若者たちの自治がありました。

江戸時代、意外かもしれませんが、親は子どもたちの結婚について口を出す権利はありませんでした。武家の社会は政略結婚ですから親が決めていましたが、農民も漁民も庶民は、若者組のなかで結婚相手を決めていたんです。十代になった頃から、男の子は若者宿、女の子は娘宿に夜中は寝泊まりし、夜鍋仕事をしたり、遊んだりしました。朝は家に帰り、親と一緒に仕事をする。当然その年頃の若者たちの話題は恋話。相手が決まると娘さんは、夜、家へ帰って寝るようになり、戸締まりしていない家に相手が夜這いしにくる。娘のもとに、誰も男が来ないと、親は心配するわけです。夜這いは決してワイセツなイメージではなく、若者たちが自分たちで結婚相手を決めるプロセスの一つだったんですね。重層的な自治の社会が江戸時代にはあって、そこで多様な文化がうまれます。

それから地域によって違いますけど、末子(ばっし)相続制度というのがありまして、武家では基本的に長男が相続する場合が多かったんですけれど、かつての西日本から東南アジア、いまでもタイでは末子相続が広く行なわれています。子どもたちは上から独立していって、最後に残った一番末の子が財産を相続し、親の面倒を看るという結構合理的な制度です。これは西日本に点在して、お年寄りに話を聞くと、「私のところもそうでしたよ」という人がいる。大阪の商人には、娘家督があります。息子が商売が得意でなかったら困るから、息子には継がせない。娘に跡を継がせて、優秀な手代や番頭さんを婿に取る。大阪の船場吉兆もそうで、いくつか分社にして、娘が跡を継いでいました。ですから、結婚のあり方、性のあり方は、武家社会をのぞけば、多様でかつおおらかだった。

◆文化の多様性を奪ったもの 〜性と言語〜

私は、列島の文化を貧困に陥れた2つの要因があると思ってまして、1つはセックスと相続のあり方です。『タネあかし』では「国民の創出」のなかに、その辺のことを書いておきました。

いまではクリスチャンでもないのに教会で挙げることが非常に多くなっておりますけど、昔は神主さんが多かったですよね。しかし、それは日本の古い伝統ではなくて、神式結婚式は1900年、のちに大正天皇になる当時の皇太子が挙げたのが始まりです。父親の明治天皇は貧乏でしたから結婚式は挙げていません。それまで歴史的に天皇家は仏教徒で、京都の泉涌寺が菩提寺でした。儀式も全部仏教式でした。明治維新になって、あたらしく神式のさまざまな儀式を創作することになったわけですが、結婚式もその1つでした。それ以来、同じようなことをやってもいいよというお触れを出しまして、民間でも見倣うようになったのです。それまで多くの場合、非宗教的な人前結婚式が多かった。明治維新以降、キリスト教布教による教会結婚式がひろがり、それに「商売ダネ取られたらかなわん」と危機感を覚えた寺が仏式結婚式を始めたため、実は神前結婚式が一番新しいんです。明治民法の相続編は1898年に出されるんですけど、ここで現在のような民法のあり方が定められた。これは江戸時代の武家社会のあり方を範にとって、それを「家」としたわけです。封建的家制度が1898年に完成するというのも変な話だと思われるかもしれませんが。江戸時代までは、民衆の結婚のあり方は自由だったのを、明治政府が武家のやり方に統一するという。私のお師匠さんでもある飛鳥井雅道さんなんかは、文明開化のことを “サムライ” ゼーションと言ってます。

もうひとつの均質化の装置は言葉なんです。人間のコミュニケーションの根幹は、言語とセックスです。江戸時代には共通した話しことばとしての日本語はなかった。北前船の漁師や商人たちは、大坂から出港して、瀬戸内海を渡って、下関、山陰北陸地方をまわって、蝦夷地までいったわけですよね。各地で言葉通じません。言葉は基本的に筆談で、それができない時には浄瑠璃言葉を使ってコミュニケーションしたといわれます。江戸城のなかだけで使われる言葉もあったが、町民には通じない。そこで中央集権国家設立のため、明治政府は全国統一話し言葉の創作に苦心しました。文部省は仙台藩士大槻文彦に命じて、20年かかって、日本最初の国語辞書『言海』を編纂させました。その過程を喜劇として描いたのが、井上ひさしさんの戯曲『國語元年』。主人公は長州、妻は薩摩、書生は名古屋、女中は江戸山の手といった様々な「お国言葉」が行き交い、全然言葉が通じないんです。これでは中央集権国家は作れません。共通の標準語「国語」が必要でした。軍隊で「撃て!」と言われても、その意味が通じなかったら困る。そのために明治政府はかなり苦労しました。

1905年、国定教科書による教育が始まるんですけれど、日露戦争のあととかなり遅いんです。犬は「ワンワン」、猫は「ニャーニャー」と鳴くと誰が決めたのか? ロシアの犬は「ワンワン」ではなく、「ガフガフ гав гав」と鳴きます。だから、ロシアの犬と日本の犬が会話するときには通訳が必要なんですよね(会場笑)。この冗談をモスクワで言ったら、結構ウケました。こんにち、ニワトリが「コケコッコー」と鳴くのも、『尋常小学校読本』の影響です。政府が各地で、ニワトリの鳴き声を現地の人に調査したところ、「カッケロコオ」や「コケコオエエ」といったバラバラな回答が返ってきました。それに困った政府が、人為的に折衷したのが「コケコッコー」で、それ以前は日本国中誰も「コケコッコー」とは聞いていませんでした。教科書でそう習うため、そう聞こえる。天皇制の武器としての言語政策が、私たちの耳まで変えてしまった1例です(「ニワトリはコケコッコーと鳴きます、か?」『タネあかし』70頁)。万葉集が「国民歌集」とよばれ、正岡子規が発見したように文学史では書かれていますが、明治の官僚たちはそれより10年ほど前から既に見出していました。元々は賀茂真淵ら国学者の影響で、万葉集は「ますらをぶり」で男らしく、古今和歌集は「たをやめぶり」で女々しいとされる。女々しいから劣っているとされる。万葉集の「まこと」「赤き心」は究極的に天皇への忠誠心に結び付けられる(『タネあかし』84頁)。天皇制と女性差別が切り離せないことを忘れてはいけません。

◆私たちの目指す社会

「国家」に対抗する「社会」というものをどうやって私たちの手に取り戻すか。小児科医の毛利子来さんは「自立、自立と言うな。人間というものはみんな支え合って生きているんだ」とおっしゃっていました。ヨーロッパとアジアの社会が根本的に違っているのが、ヨーロッパはindividual、個人が「国家」と「社会」を構成する単位なのに対し、日本では、私がおもうに人と人との結びつきが社会の単位となっている。その結びつきが「国家」により分断され、差別抑圧的なものとされている。それを回復してゆくヒントが『全国水平社宣言』にあるんではないかと考えています。よくいわれるように「吾々がエタである事を誇り得る時が来たのだ」はもちろん重要ですが、私は最初の方にある「人間を勦(いたは)るかの如き運󠄁動は、かへつて多くの兄弟を堕落させた事を想へば、此際吾等の中より人間を尊敬する事によつて自ら解放せんとする者の集団運動を起󠄃せるは、寧︀ろ必然である」に注目したい。この集会によく来ておられた、夜間中学校運動のリーダーであった髙野雅夫さんも、かつてNHKのドキュメンタリーで「あったかいと感じたらやばいと思え」という夜間中学生カルタの言葉を紹介していました。ひとに優しくされたら誰だって気持ちいい。でもやばい、自分を堕落させてしまう危険性を指摘していました。人をいたわるのではなく、人と人とが結びつき、お互いを尊敬することによって、自分たちを解放する社会を目指す。ものすごく難しいです。私だって腹立つヤツ、憎たらしいヤツ、いっぱいいますから、アイツラと尊敬する関係を築くなんて簡単じゃない。難しいからこそ目標になる。人と人との結びつきを基本として、その結びつきをお互いに尊敬できる関係に作りなおす。それが民衆の文化なのではないかと私は思っております。

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