くたばっちまえ、皇室敬語!

メディアにはびこる皇室敬語、天皇皇族への敬称が気になる。「玉歩」「玉音」「聖蹟」「巡幸啓」なんていう中国の皇帝由来の漢語表現は歴史や地名上の固有名詞となりつつあるが、いまだに天皇夫妻による全国植樹祭、国民体育大会、全国豊かな海づくり大会、国民文化祭への参加は「四大行幸啓」と呼ばれる。戦後から徐々に簡略化されてきたとはいえ、産経、日経、読売はもちろんのこと、朝日、毎日もまだ完全には脱しきれていない。「陛下」「さま」「お誕生日を迎えられた」なんて敬語表現がまだまだざらにある。「ナルヒト」のようにカタカナ表記しろとまでは言わないが、あんなヤツらに敬意を払う必要はまったくない。素直に「誕生日を迎えた」といえば、字数の節約にも、ニュース読み上げの時間短縮にもなるのに、そうさせない世論や空気がこのクニには根深いのだ。

そもそもわたしは日本語の敬語があまり好きではない。敬語を三つに分けたときの「丁寧語」はある程度必要だと思う。あまり親しくない間柄で馴れ馴れしくならないためにも、「ですます」は適度な距離感になる。しかし、「尊敬語」と「謙譲語」はビジネスならともかく、日常生活であまり必要性を感じず、みだりに使わないようにしている。誰かを尊べば、誰かを卑しめ、自分が謙るという「美徳」も、他の誰かを無意識に蔑む暴力性を秘めているからだ。すべての人は平等であり、身分、階級、地位、序列、血統、職業、性別、どんな属性によっても特別に敬われたり、貶められたりしてはならない。

近代、明治以来、天皇制が大衆文化をつくり、大衆文化が天皇制を強化する。アイツラの真似などしたくないし、その真逆の生き方をしてやりたい。お上品なリベラル路線なんてまっぴらだ。我々の批判は悪口でもヘイトでもない。天皇皇族と右翼への口撃が、そうでない他の人たちを傷つけることにならないよう気をつけよう。でも、きたるアキヒトXデーの際には「亡くなった」でも「死んだ」でもなく、「くたばった」と言ってやりたい。

(水蓼)

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