纐纈 厚
はじめに
皆さん、こんにちは。纐纈です。というよりお久しぶりです、と申し上げたいほど、このところ〝地方巡業〟やら〝海外巡業〟が多く、久しぶりに御膝下の東京都内での講演となりました。何だかホットして、嬉しくも思っています。それに社会評論社時代に私の『[増補版]総力戦体制研究 日本陸軍の国家総動員構想』(社会評論社、2018年刊)や『侵略戦争と総力戦』(同、2011年刊)の編集出版に尽力頂いた新孝一さんが、司会を務められるも幸いに思います。参加された皆様も、どこかで御会いしたことのある方ばかりのようで、何だか内輪の講演会に御招き頂いたような気持ちでおります。
さて、本日の講演では、三つパートに分けて話を進めて行ければと思います。
第一に、やはり高市早苗首相の政治姿勢に関する問題点を、いま一度整理しておくことです。そのために高市首相の三つの発言を取り上げ、批判しておきたいと思います。それは決して一政治家の姿勢の問題としではなく、現在の日本が置かれた位置を見定めておくのに必要ではないか、と考えたからです。
第二に、今の日本政治を「戦争国家化」のキーワードで括り、その中身について触れておきたいと思います。年々増大する防衛費、アメリカとの軍事同盟強化、日本周辺で強行される日米軍事演習、武器輸出の全面解禁など、「軍事国家化」の指標は数多存在します。ひとつひとつ取り上げたら切りがないと思うくらい急速に事態が悪化しています。
第三に、以上の話を受けて、ならば私たちは日本の政治をどうしていけばよいのか、という皆さんも日々自問自答されている課題について、私の話はそれらの後を追うようなレベルの内容かも知れませんが、折角この機会を頂きましたので、尻切れ蜻蛉となることを覚悟して、少し話題にさせて頂きたいと思います。
1 高市首相発言に潜在する「戦争政治」を炙(あぶ)り出す
高市首相の発言から
最初に、高市首相の過去から現在までの発言に潜在している軍事主義思想と、それを根拠とする戦争政治、靖国思想の問題などの話から始めたいとおもいます。
「戦争国家化」というと、何をもって「戦争国家化」と定義するのか、あるいはそれに導いていく中心的な核となるものは、一体何かを問わなければなりません。その問題について歴史を辿ってお話ししたい。一言で言うならば、「戦争ができる国」から、「戦争する国」へと変わったということです。いま、中国からあるいは韓国、あるいはアメリカの一部からも、日本の「新軍国主義」という言い方がされています。これに対して、私たちはどう理解して対応するのか、という結構切実な課題にも向き合うことになります。
「朝日新聞」の社説で、中国の日本新型軍国主義批判は間違っている、と言った内容の記事があります。かつては軍人が政権を取っていた軍部独裁だったが、今は違うから、軍国主義とは全く違う、との説明です。文民が政権を担っており、戦前のように軍部政権ではないと言う。私は、それは少し理解が狭いと思います。軍部政権=軍国主義、文民政権=民主主義、と言う判断基準そのものが間違っています。その二項対立だけでは、一体なぜ中国などが新型軍国主義と批判しているかは、理解できません。表面で可視化できる部分だけで、軍国主義か否かを論じるべきではない。「朝日新聞」は、歴史の何かを見落としているのではないかと思います。
つまり、日本の外交防衛方針において、事実上先制攻撃論をも厭(いと)わないとする姿勢を見せ、そう主張する非常に右翼的な政治家たちが、中国を敵国視する右翼団体の支持や意向を受けながら、戦前回帰を求め、戦前の「帝国日本」こそ日本の原型だと主張していること、などに深刻な警戒心と恐怖心を抱いているのです。を高市首相の「台湾有事」に絡めた非常に挑発的な姿勢を見て、いつのまにか日本が新たな軍国主義国家になりつつあるのではないか、と見ているのです。「背広を着た軍国主義者」たちが日本の政権の中枢に位置し、戦前日本を称揚し、そこに回帰したいとする要求を露骨なまでに見せていることに警鐘乱打しているのです。
そうした批判に「朝日新聞」の論説は、全く正面から向き合わず、弁明に近い論調を繰り返しているのです。いつの間にか軍事主義とか軍国主義とかが、社会の雰囲気となって溶け込んでしまっている。それを圧倒的な世論が、それと気が付かないままで、中国が例によって排日論を繰り返しているだけだ、と一蹴しているのです。政治への洞察や歴史認識を欠落させたメディアの実態を象徴するような反応だと思います。
それで、以下最初に高市首相の政治姿勢の一端を批判的に見ておくために、三つの発言に触れながら話を始めます。
「謝罪不要論」発言
先ず、一つ目の「戦争責任否定」発言です。1995年3月16日の衆議院外務委員会での発言です。
高市早苗は、当時外務大臣であった河野洋平さん|ハト派の重鎮であり、河野談話を出された|との遣り取りのなかで、高市議員(当時は新進党所属)は戦争責任について、「私自身は、当事者とは言えない世代ですから、反省なんかしておりませんし、反省を求められるいわれもないと思っております」と発言しました。当時私は、本当に驚きました。一介の歴史研究者で、歴史認識問題や日本の加害責任問題にも強い関心を持ち、発言していましたから、とんでもない政治家が居るものだと、驚いただけでなく、飽きれるやら悲しくなるやら、強く印象を抱いたものです。その高市議員が、今では総理大臣になっている。日本の右傾化・軍事化を象徴するような政治家ですね。
私も1951年の戦後生まれです。しかし、我々に戦争責任はないのか。ラルフ・ジョルダーノというドイツの作家である『第二の罪|ドイツ人であることの重荷』(白水社、2005年刊)という本があります。大学のゼミでも学生に読ませた記憶があります。この本は、例え直接的にその時代にいなくとも、その戦争という歴史を正しく伝え、記憶することの責任について述べたものです。その歴史を否定する、修正する、捏造する、歪曲することは、「第二の罪」だ言っています。「罪」|公式的な罪ではなく、精神や自らのアイデンティティーに関わる問題です。戦前生まれでない私たちは、戦争当事者ではなかったので、第一の罪はないかもしれない。けれども、第二の罪を犯してはいけない。それが戦争責任ということであるわけです。
それを、南京大虐殺はなかった、でっち上げだ、そういう歴史認識のありようを認めていくことは、ジョルダーノの言う第二の罪を犯していることになります。高市早苗議員は、まさに、歴史事実を否定、捏造、歪曲してきた。そういう人が、首相になった。これが日本の現実であることを、先ず確認しておく必要があります。
つまり、こうした極めて歪(いびつ)な歴史認識の持ち主が、総理大臣までになるということを、日本人も日本の憲法も国際社会も許さない、私はずっと思っていました。しかし、そうではなかった。それだけでも、日本の軍国主義化というものが進行している証拠と言えると思います。この高市発言は、とりわけ8月15日が近い日には、忘れていてはならないと思います。
彼女は靖国神社にも執着しています。皇室典範改正でも男系男子でなければ駄目だという。これまで明治、大正、昭和と近代天皇制における天皇は全て男子だった。戦争の最高責任者、最高指揮官だった。皇室典範改正で男系男子を言っているのは、象徴天皇制を消したい、元首天皇制への志向が強い人たちです。男系主義の維持というのは、戦争国家日本の統帥権者(軍隊指揮権者)として、元首天皇制復活への試金石でもある。明治・大正・昭和と男性天皇が、最高指揮官として全軍を統轄した。天皇の位置づけは、統帥権を誰が握るのかとう問題と密接に関わっています。このことは、余り議論されませんが。
自民党の改憲案には「天皇を元首とする」とあって、統帥権を保持する天皇は、男性であるべきだとする考えが根底にあります。ですから、ここでは古代から近世までの天皇制については、実は完全に無視されていて、彼等彼女らが対象とするのは近代天皇制、換言すれば帝国日本時代の天皇制の事を指しています。次の次かはわかりませんが、首相の座を窺う自民党幹部が3000年近い世界に冠たる天皇制を守るために皇室反転改正があるのだ、と盛んに強調していました。彼は天皇制の歴史を知ってか知らずか、あるいは論点をずらすために敢えて口にしていたかも知れません。これまた驚くべき発言でした。神武天皇から七代続く神話の天皇を、歴史事実と思い込んでいるのですから。彼に限らず、恐らく歴史事実を知った上で、敢えて神話天皇も含め、天皇制を中心とする国家体制、すなわち「国体」イデオロギーに執着しているのでしよう。それが保守主義だと思い込んでいる。実際の保守主義は、そのようなものではありません。
「国体護持」を叫んで敗北を認めようとしなかった軍部・右翼を中心に、そうした国体イデオロギーの持ち主が、戦前日本の敗北、解体に日本を引き摺っていったのです。そのために国内外に数多の犠牲を強いたのです。明白な加害者たちの末裔が、現在に日本の権力の中枢に陣取っています。戦争責任や加害責任も認めず、また、戦前と同じ轍を踏もうとしているのです。このことに先の戦争で、何千万人もの国民を殺された中国を筆頭に、かつての被侵略諸国が、日本の現状を見て新型軍国主義と警戒感を募らせているのです。
だから、私は「皇室典範」の話と戦争準備内閣、高市内閣というのを結びつけて考えたい。彼らは明らかに象徴から元首天皇制へ、その向こうに男性天皇による最高への復権を目指しているのではないか、と思われてなりません。
「継戦能力」発言
次に二つ目の「継戦能力」発言です。2025年12月23日、共同通信加盟社編集局長会議での講演の時の発言です。
「継戦能力」ということを、高市さんや、その周辺が盛んに主張するようになりました。高市首相は東京都内で講演し、「安全保障関連三文書」の前倒し改定を説明する際、日本が紛争に巻き込まれた場合を想定し、「(日本の)継戦能力を高めていかなければならない」との考えを示しました。継戦能力とは、弾薬、燃料、装備品などの観点から戦闘を継続する能力、軍事専門用語です。
高市首相は、「安全保障環境が相当変わっており、日本の主体的判断によって強化する必要がある」と強調して、ロシアとウクライナの戦争が長期化していることに触れ、日本がこうした紛争に巻き込まれた場合に備え、「継戦能力」を高めていかなければならない、と述べたのです。
これまで、日本の軍事力は、瞬発力はあるけれど、戦争が長引いたら持たない、と言われていました。しかし、日本は「専守防衛」なのだから、攻められてきたら国内にある資源や人材で一定程度の継続能力は担保できます。しかし、日本政府は海外で一定の期間、場合によっては長期間戦争を継続することも考えています。当然、機動力も必要だけど「継戦能力」も必要だと。
私は、長年にわたり総力戦体制研究に取り組んできました。先ほど、冒頭での挨拶の折に触れたのですが、それに関する本を何冊か出版しています。総力戦、長期戦に耐えるためには、議会での議論など時間をかけてやっていてはいけない、というのがこの論者たちの共通の観念です。力に物を言わせて、文句を言う奴、異論を言う奴を徹底的に力で押さえつける。そのための法整備が、1925年の治安維持法をはじめ、次から次に出てくるわけです。治安維持法が対象としたのは、日本共産党だけではありません。戦争に抵抗する人たちを実際の行動前から予防拘禁していったのです。
考えてみれば、現在の国旗損壊処罰法、あるいはまだ制定はされていないけどスパイ防止法案等等。あるいは常設の国家情報局など、戦争に逆らう人たちを監視し捕まえる法律が、次から次へと成立あるいは準備されている。戦争の準備のための法整備と考えれば腑に落ちる。
靖国神社についても、海上自衛隊の元将校が現在の宮司に就いています。防衛大学の学生がバスを連ねて集団参拝をする。こうしたことも含めて、現在日本の状態は、広い意味での国家総動員体制を構築している過程だと括れると思います。新安保法制には、国家総動員と同質の条文が既に用意もされています。
戦前の話に飛びますが、戦前日本はドイツの国家総動員体制をモデルとしながら、「国家総動員に関する意見」を参謀本部が1925年に作成しています。今から100年前です。先に紹介した私の本(『総力戦体制研究』)に資料として収録しています。その内容は、高市政権が進めようとしていることの参考資料として、読むことができるのす。
「国家総動員に関する意見」には、「精神・思想の動員」に加えて、交通動員、国民動員、財政動員なども示され、これを一括して「国家総動員」とされたです。これは有事の際には新幹線などの公共的な交通機関も兵員輸送を優先するとか、軍事車両の生産を民間企業に優先させるとか、民需を軍需に転換できるシステムを平時から用意しておくとか、の構想が企画されています。また、民間企業の軍需動員などが、近い将来に予測されうる事態にもなっています。現在の防衛整備品の生産に関する法整備などが、それに繋がるものです。
そうした意味で「継戦能力」とは、明々白々な戦争準備の一環としてあるということです。いよいよ戦力の三要素、機動力・打撃力、そして継戦能力、この三本の矢で戦争を進める、戦争国家体制の構築を志向(=総力戦国家体制)する「戦争内閣」になってきた、ということだと思います。
少し話が飛ぶかもしれませんが、同じ文脈で、しかし戦前にはなかったことで、核兵器の問題があります。高市政権の総理大臣補佐官(安全保障担当)に尾上定正という方がいます。自衛官だった人ですが、彼はオフレコと断ったうえで、記者たちに「日本は核武装が必要ではないか」と喋っている。もちろん「オフレコ」と言っても、外部に漏れることを想定して、アドバルーンとして言っているわけです。世論やメディアの反応を観ているのです。
同じように、安倍晋三も、小泉内閣の官房副長官時代に、「小型核兵器ならば憲法には抵触しない」と言ったことがあります。田原総一郎さんが司会する早稲田大学講堂を会場にした「田原塾」での講演会の場でのことです。その時、安倍は官房長官の福田康夫(後に首相)に酷く叱られています。安倍はやっぱり核武装したいという本音をずっと持っていた。岸信介、佐藤栄作、いわば安倍一族は代々ずっと核武装論者です。
今年の8月6日、8月9日の広島・長崎での式典の場で、高市首相は「非核三原則を守っております」と発言しましたが、これは「現在守っている」ということで、今後のことについてはノーコメントでした。それに多くの批判が出ました。あの言い方は、非核三原則の「見直し」が出てくる可能性が大きいと見ておくべきでしょう。日本が核武装に踏み込む、そうした時代に入ってきたのかとも思います。
原子力潜水艦の保有についても、「次世代の動力」での潜水艦という形で、すでに検討が始められています。日本の「うずしお型」や「たいげい型」の潜水艦は、アメリカの原潜と同じ艦形をしています。「涙滴型」(ティアドロップ型)と言います。動力給油源が、ディーゼルから原子力に置き換えることが可能な艦形なのです。原潜保有も可能となる状況は、決して看過することはできない問題だと思います。
「台湾有事は存立危機事態」発言
最後に、三つ目の「台湾有事」発言です。2025年11月7日、衆議院予算委員会での岡田克也立憲民主党(当時、元外相)の質問への答弁中に飛び出した発言です。
この発言を「戦争国家化」という文脈で落とし込んだ場合に、どう言えるかという話に絞り込んで考えてみたいと思います。様々な見方がありますが、これは実に中国に対する戦争を想定している、と言えると思います。「安保三文書」では、中国を名指しして『これまでにない最大の戦略的な挑戦』としています。つまり「仮想敵国」としているのです。
琉球列島を含めて日本列島各所に展開・配置されているミサイル群。「飛んできたミサイルを撃ち落とすために」というのは、半分正解で半分間違っています。つまり、ランチャー(発射機)を変えれば、様々なミサイルを撃ち出せるわけです。そういった最低限の軍事知識があれば、「守るためのミサイルです」を信じる人はいない。ミサイルは中国に向けて配備されている。長射程で1500キロとか、2000キロでも飛ばすことのできるようなミサイルを日本は大量に保有し、配備しようとしている。
先日(2026年7月29日)も、海上自衛隊のイージス護衛艦「ちょうかい」が、アメリカ製の巡航ミサイル「トマホーク」の実射試験を初めて行った。今後、そうした発射実験がどのような形で繰り返されるかわかりませんが、ここで私は前田哲男さんの言葉を思い出しました。「演習というのは戦争と紙一重。もう最近、演習は戦争だと思って間違いない。そして戦争は演習だとも言えるんだよ」と。つまり、軍事演習と戦争の境目が段々無くなっている。
毎年行われる米韓合同軍事演習は、実弾が使用されている。それを見せつけられている朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の人たちにすれば、戦争をしかけられているのと同じです。その期間は、即応態勢を引いて備えなくてはならない。農業も水産業も教育も時間を奪われるわけです。そのことも非常に犯罪的です。もちろん、北朝鮮側のミサイル発射実験も、それは同じようなことを言えるかもしれません。本実験・演習と戦争は、軍事のレベルで言うと、あまり変わらないという話は、記憶に留めておかなければなりません。
高市首相の「戦艦を使って、そして武力の行使も伴うものであれば、これはどう考えても存立危機事態になり得るケースであると私は考えます」という発言は、存立危機事態という言葉自体が軍事用語であって、戦争を仕掛ける、仕掛けられるという、そういう領域の問題です。私は、高市首相は、思わず喋ってしまったと言うより、かなり確信的に発言したと思います。防衛官僚が書いて渡した答弁には書いてなかったことは、どうやら確からしい。その発言が日中関係を悪化させ、日本の安全保障を危機に晒すことを微塵も考えなかったのではないか。外交とか防衛の最高責任者としても、考えられないあってはならない大変なミスです。しかし、その後、高市首相は謝罪も撤回もしない。ノーテンキなのか、事の重大性に気づいていないのか。何時でもオープンにしていますと言いながら、積極的に動こうとしない。その気配もない。
この発言の大きな問題は、「仮想敵国」とする中国に対する戦争発動宣言を、国会の場で言ってしまったということです。それも中国との関係を根本から否定してしまった。1972年の「日中共同声明」以降、四つの文書によって、日中関係で問題が起きたとき、領土・領海・領空を巡る事案が発生した場合も、お互いにそれらに対してきちっと対応していきましょう、ということまで、きっちりと議論してます。そういうところまで、1972年以降の日中関係は、取り敢えずはやってきたわけです。
ところが、日本は中国に対して非常に攻撃的、挑発的な態度を採るようになった。一方でアメリカは中国に対する包囲戦略を採るようになっているから、同盟国である日本の貢献度が試されている、というような思いが募っている。だから中国が台湾に何かことを起こしたら日本は、真っ先に駆けつけて中国と刃を交えますよ、その覚悟がありますよ、ということを国会の場で、つまり国民の前で、世界の人々の前で、思わず本音を口走ってしまった。
中台問題(両岸問題)への関与の仕方については、日本もアメリカに倣って曖昧にしておく、いわゆる曖昧戦略を採ってきたのです。高市首相は、そのことを知ってか知らずなのか、自らの発言でぶっ壊してしまったのです。それゆえに「盟友」トランプ大統領からも顰蹙を買い、習近平中国国家主席からは、これまでにない怒りを買ってしまいました、「日中冷戦」の始まりです。習主席からの強い要請もあったのでしよう、トランプは高市首相に電話で苦言を呈することになったのです。なお、この高市首相の台湾発言には、日本の国内外からも大きな反発が出ています。その実際について、今年三月に『台湾有事は存立危機事態か』の本を出していますのでお目通し頂けば幸いです。
2 「戦争国家」化への道~その経緯を追う~
高度行政権国家への道
さて、ここで「戦争国家への道」を歩んでいくなかで、政府が取り組んだ諸政策のうち、特に重要な課題について、幾つかを取り上げてみたい。「戦争国家」を志向する歴代の自民党政権は、過去一〇年間だけを切り取ってみても、重要な課題に取組み、一定の〝成果〟」を得てきたがゆえに、「戦争国家」に行き着きつつあると言えます。それで最初に見ておきたいのは、国家形態の変容です。
日本はいきなり、「戦争国家」に変身した訳ではありません。段階を踏んで「戦争国家」へと、ある意味で着実に変容を遂げてきたのです。ここで強調しておきたいことは、先ほども少し触れましたが、中国などからも批判されている「新型日本軍国主義」についてです。
現在の日本は、「高度行政権国家」と言えると思います。圧倒的多数の議席を背景として国会を徹底利用しながら、その一方で、立法権を下位に位置づける行政権主導の政治手法といえます。戦前のような軍部が政権をとって戦争に持っていくという意味での軍国主義では、確かにありません。軍部政権から文民政権で軍国主義の是非を判断すれば、日本は戦後一貫して文民政権ですから、軍国主義国家とは判定できないです。非常に分かり易い判断基準ですが、政治の本質を全く掴(つか)んでいません。
ただ、今の日本の三権分立は、学校でよく教えられるような正三角形ではなく、行政権を頂点とした二等辺三角形になっています。行政権がトップにあって、その下位に司法権(裁判所)と立法権(国会)がある。日本の政治の実態は、行政権主導型の行政権国家です。「内閣独裁」という言葉もありますが、それに非常に近い形態となっている。この行政権国家にその強度によっては「高度」をつけて、「高度行政権国家」と言う示し方があります。現在の日本は敢えて言えば、それに近いのではないか。これはつまり、ファシズム国家のことです。
かつてナチスのヒトラーが独裁体制を敷いたのは、先ず立法権を内閣行政権のなかに取り込んでしまうのです。有名な「国会議事堂放火事件」(1933年2月27日)を、その起点とします。共産主義者の犯罪とでっち上げて、翌日に「国民と国家を保護するため大統領令」が発布されます。言論・出版・集会・通信の自由や住居の不可侵などの基本権が停止されます。こうしてヒトラー率いるナチス党が全権を掌握していきます。野党であった社民党も共産党も、事実上解党を迫られることになります。一党独裁が完成します。学部生であったときは、ドイツ近現代史を学んでいた私は、このドイツの事例と現代日本の相似性に強い関心を抱いています。
現在日本の政治制度は、議員内閣制を採用しており、内閣総理大臣は国会議員のなかから国会の議決で指名される訳なので、三権分立とされながらも、内閣行政権より国会立法権の方が上位に位置づけられるはずです。しかしながら、現在は圧倒的多数を自民党及び連立を組む維新の会が占める現状から、内閣を統制する国会の権限は著しく堕(おと)とし込められている状態です。
実は、このような政治が日本の保守政権を基本的に支えていたのであり、ある意味では内閣独裁が一貫して続いていたとも言えます。こにきて高市首相が突然解散総選挙を強行したことで、本来の国会と内閣の関係も一段と内閣優位となったことは、知られている通りです。だから高市政権は、私に言わせれば「戦争政治」を非常にやり易くなった。それがこの間における軍事主義的な政策の打ち出しということになります。議院内閣制が換骨奪胎の状況にあると言って良いでしよう
高市首相は、国会答弁が好きではなく、国会への出席を極力減らしているのは、高市首相の答弁能力の低位性という問題も確かにありますが、より本質的に言えば、そもそも国会軽視の風潮が構造化している、と言って良いと思います。内閣独裁制を高市首相は、意識しているかどうかは定かではありませんが、国会軽視しても野党は別にしても、有権者から特段非難されることはない、と捉えているからです。高市首相のポピュリズム政治を「アイドル・ポピュリズム」と言う人がいますが、高市首相は保守的な世論や岩盤支持層に向けて、「世界の真ん中で咲き誇る日本」とか、「強い日本を取り戻す」などのキャッチコピーを周りに捻りださせ、好んで使うことで支持率アップに余念がありません。
その作戦は、ある程度功を奏しているようですが、この間にも日本は非常に軍事に偏在した国家に質的転換をしているのです。その変容ぶりを国内から観ていると、なかなか気づかないかもしれません。しかし、中国や北朝鮮、それに韓国など日本から酷いに目に遭わされた諸国は、そうした危険な変容ぶりに敏感に反応するのです。それが「新型軍国主義」の用語を使った日本批判ということでしよう。
精神・思想の動員が意図されている
「戦争国家化」に突き進んでいるとの見立てを私は一貫して強調していますが、その証拠と言えるような政府の動きがあります。それは「国民の精神・思想の動員」の問題です。かつての国家総動員体制の時にも精神・政治動員という言葉が頻繁に使われました。我々の精神、思想、価値観にまで支配が踏み込むわけです。この度の「国旗損壊等の処罰に関する法律」は、その先には、愛国心の培養・注入と精神・思想動員の徹底により、戦争国家に適合する国民の養成が目的としてある、と言えると思います。
これは靖国思想を実体化するチャンスでもあるとも、彼らは思ってるのでしょう。靖国神社は「菊の紋章」と「日の丸」がシンボルです。「菊の紋章」は言うまでもなく天皇家の紋章であり、日の丸もそれにつながるものです。「匊の紋章」「日の丸」を損壊することは、彼らにしてみれば、一対(いっつい)の問題として捉えてるわけです。もっと言えば「国体護持」のために、それらの保守は生命をかけた闘いにも似た心情で捉えていると思います。
ですから「日の丸」だけではない。「菊の紋章」に対しても、敬うことが強制されるようになるかもしれない。パスポートには菊の紋章がついています。「菊の紋章」が「日の丸」と並んで、国家の象徴として、すでに内実化あるいは基準化している部分があります。精神・思想の動員のために、あれやこれやの手法でもって、今後一層強行される可能性は非常にあると思います。
お正月に皇居二重橋前に出向いて天皇をはじめ、天皇家の人々に日の丸の旗を打ち振る行為。繰り返すように「国体」思想受容の場として無意識のうちに没頭する様子は、戦前と同質の風景の再現です。靖国参拝、天皇の被災地などへの巡行なども含め、「国体」思想が様々な国民的関心の強い場所で、時には慰霊、励ましなどのパフォーマンスを織り交ぜて繰り返し演出されていきます。皇室と国民の一体化のなかかに、日本人としてのアイディンティティを打ち勝固めいくのです。勿論、日の丸を打ち振る人々には、純粋に天皇へ敬慕の念を示したいとする欲求があります。
しかし、そうした個人の心情とは別に、それが集団行為として示されたとき、一つの方向に国民を集合していく政治機能を発揮することになります。国家が戦争に備え、戦争の危機を理由に団結を迫る時、非常に大きな成果を得ることは歴史が示した通りです。私たちは、その事をも含めて靖国思想の問題として取り上げてきました。それで同時に国体思想についても、より注意を向ける必要があります。
この度の皇室典範改正の背後にあるもののうち、極めて重要だと思うのは、こうした内閣主導による国民の思想・精神の動員の一環として位置づけられていることです。この指止れの合言葉のなかに、国民の反国家・反天皇制、そして反戦の思いを潰(つぶ)していくことが、実は皇室典範改正のもう一つの目的ではなかったのか、と思います。あの執拗で民意とは全く別の次元で強行されたのは、それが天皇制を守ることによる国体護持の政策であったのです。辻子実さんの『侵略神社 靖国思想を考えるために』(新幹社、2003年)の書名に絡めて言えば、「戦争をする国」となってしまった日本で、再び「英霊」が生み出される予想のなかで、靖国思想が戦争動員の露払いの役割を担うのではないか、と言う段階に来ていると思われて仕方ありません。そうなれば、靖国神社が文字通り「侵略神社」として、再び負の遺産となりかねないのです。
軍事増強・軍事同盟強化をめぐって
軍事問題の話になりますが、戦争になった場合に、長期に戦わなければならないことになったとすると、日本の政府が考えていることは、日米同盟という二国間軍事同盟だけでは心許(もと)ない。アメリカもひょっとしたら、そっぽを向くかもしれない、梯子を外されるかもしれない、という危機感は高市首相の中にも潜在しています。アメリカが中国と共同覇権という形で、世界を二分するというようなことを言い出すかもしれない。アメリカは西半球中心にシフトし、中国は東半球だ、という論理で、そこに日本が介在できなくなるかもしれないと、という危惧も出始めています。
そういう危機感を持っている保守権力層の中には、それなら日本は自立した国防体制を敷かなければいけない、核武装もしなければいけない、原子力潜水艦も持たなきゃいけない、その本音を段々と吐露し始めました。そのためには、憲法改正をして、自衛隊を国防軍として位置づけ、天皇も元首にして、最高指揮官に天皇を据える|そうした「自主国防派」の台頭の可能性にも留意しておかなければならない。その可能性を秘めた高市首相だったので、それが支持を集めた面もあります。彼女のこれまでの言動、先ほど紹介した「私は謝るつもりはありません」と言い張り、侵略戦争を否定してきた彼女こそ、これからの日本の国防を背負う、総力戦国家を作り上げていく上で、格好な人材だと観られてきたのでしよう。
今、日本政府が考えていることは、多国間軍事同盟です。フィリピンとは、かなりの関係を築きつつある。小泉防衛大臣がフィリピンに行って、フリゲート艦を売り込む。すでに軍用レーダーは売っています。そういう武器輸出の最適地としてフィリピンを選んでいる。そのうちに、シンガポール、インドネシアなど他の東南アジア諸国にも出向いて、日本の武器を売り込むでしょう。安くて性能がいい、また、使い方も無料で教えます、といったようなことで、抱き込みを図っているのではないか。
日本がここに来て、日米二国間同盟から多国間同盟にシフトしていることは間違いありませが、同時に現在防衛費の増額、防衛装備の拡充など軍拡路線を正当化するために、フルに活用されているのが「中国脅威論」です。「東アジアの安全保障環境が厳しさを増している」という政府や防衛省の常套句の対象は、中国人民解放軍の強大化が念頭にあります。日本政府は、中国の強大化から派生する危機感を留守すれば、防衛費増大も防衛装備の拡充も国民から支持を受けるものと確信しているようです。
ならば中国は日本にとって脅威でしようか。中国が何故に日本を侵略する意図を持つのでしようか。
中国は、人口ではインドに抜かれたけれども、世界2位の14憶人を超える人口を抱える人口大国であり、同時に購買力平価(PPP)換算では国内総生産(GDP)は2700兆円で(アメリカはそれより500兆円少ない約2200兆円)世界一の超経済大国でもあります。それで国家予算に占める軍事費の割合を見ると、アメリカは15%を超えている一方で、中国は6%にも満たない。日本は中国より比率では7.5%と高いのです。戦争中のロシアは30%を超えていますが、中国の軍事費が突出して多いとはとても言えない。果たして中国は脅威と言えるのか。
確かに、対GNP比率だけで言えば、中国以上に日本が軍事大国とも言えます。但し、これは対GNP比からみた観点であって、絶対額は54兆円という軍事費は、アメリカの三分の一とは言え、非常に大きな額です。問題は、額が大きいから脅威だとストレートに結び付けるのは合理的判断ではありません。中国の三倍の凡そ150兆円の軍事費を計上するアメリカは、軍事費だけの観点彼言えば、中国より三倍の脅威の対象と言えます。ただアメリカは同盟国で中国は敵対国だから、中国に一方的に脅威感情を抱いていることになります。ならば中国に脅威感情を抱かなければ、アメリカと同様に脅威感情を抱かなくなる、という見方は検討に値します。
際限のない防衛費増額と武器移転問題
2027年度の防衛費は9兆円台となると予測され、アメリカからの防衛費の対GNP比率3.5%とまでとなると実に20兆円を超すことになります。勿論、この20兆円が毎年防衛装備に消える訳でないにせよ、平均的に言えば、3割から4割が防衛装備購入に充当されると計算すると、凡そ6~7兆円の防衛装備を蓄えていくことになります。現時点では少し想像が困難な数字です。そこから莫大な建艦費用、維持費用など非常に高価な原子力潜水艦の保有にも実現性が担保されることになります。
現在、実際に原子力を動力源とする潜水艦をはじめ、実現を果たそうとする動きが政府内外で高まっています。そのうち、核兵器保有も予算が担保されるとする判断から本格化してくる可能性があります。また、武器生産だけでなく、今年初めに武器輸出が全面解禁されました。これまで日本で厳しい輸出規制がありました。それが完全にバリアフリーとなってしまった訳です。これまでにも輸出規制の間隙を縫って軍用レーダーや中古のフリゲート艦、航空機などの輸出実績がありました。今後は輸出先をフィリピンだけでなく、オーストラリア、インドネシア、シンガポール、ポーランド、インド、ドイツ、イタリア、フランス、スエーデンなど、いわゆる同志国とされる国、つまり、武器輸出対象国は、本年五月の時点で17ヶ国あります。今後輸出攻勢が本格開始されることになります。
また、本当は軍需産業と言うべきですが、現在日本防衛産業の三菱重工業、川崎重厚、IHI(旧石川島播磨重工業)などのトップ軍需産業は、既にこの間にも急激に売り上げを伸ばしています。今後このまま防衛費が拡大されていけば、さらに武器生産と武器輸出に大きく踏み出すでしよう。すでにそのための人材確保、工場設備投資と拡充など大胆に推し進められています。
これだけの企業ではなく、東芝や日産など民需中心ですが、軍需にも手を染めている有名企業も沢山あります。これまで防衛産業界は、厳しい輸出規制が敷かれていたため、武器生産には必ずしも積極的ではありませんでしたが、大軍拡を政府が掲げている以上、政府からの公的資金の投入が約束されもしていますから、新たな参入企業も登場するでしよう。
特に「防衛白書」や、今年12月頃に公表予定の新しい「安保三文書」には、「新しい戦い方」なる表現で、ドローンとAIを一体化させて無人兵器の生産が推奨されたことから、初めて耳にするような新企業も防衛産業に次々と参入しはじめています。この結果、セングハースが喝破したように「軍拡の利益構造」が、日本でも定着することになるかもしれない。現在、そうした大きな問題が起きているのです。武器生産大国・武器輸出大国日本の登場という現実が迫っているのです。日本は「戦争をする国」となるだけでなく、「戦争を請け負う国」や「戦争をけしかける国」となってしまう雰囲気にあります。
3 いま、私たちが立っている地平は
着々と進む戦争準備
自衛隊には、昨年(2025年)3月に統合作戦司令部が創設されました(右図参照)。これは、戦前の版参謀本部あるいは大本営に等しい組織です。作戦計画の立案と指揮を担う戦争指導部が、現代日本の国家機構として登場した。それだけではなくて、統合作戦司令部は、米軍のハワイに置かれたインド太平洋軍司令部との連携が一段と強化されることになるし、また、横田基地に置かれている在日米軍司令部が港区六本木の赤坂プレスセンター(通称、ハーディー・バラックス)に移設される可能性も言われていますが。実は事実上すでにかなりの程度実体化していますが、在日米軍司令部とも一体化して戦争を行うようになります。そうなると、実質的に戦時における統制権が、アメリカ軍に委ねられることにもなります。自衛隊がアメリカの第5軍になるのではないか、とも思えます。
トランプ政権のへグセス国防長官(現在は戦争省と改称していることになっていますから、戦争長官と言うべきでしようが)が昨年日本に来た時には、日本に対して「平和を欲するならば戦争の準備をしろ」と発言しています。ヘグセスは胸に大きな十字軍の刺青をしています(右写真)。今回の対イラン・イスラム共和国への空爆を21世紀の十字軍に準(なぞら)えて、強く進言したとのことです。中世の十字軍がキリスト教徒のイスラム教徒破滅目的とした戦争であったからです。彼は戦争が好きなのです。そういう人物が今アメリカの戦争政策を担っている。これは大変怖いことです。
アメリカは、現在、言うまでもなく最大のライバルは中国です。経済力では既に大きく水をあけられ、一頭地を抜く軍事力で何とか対等な力を維持しています。しかし、アメリカ経済の長期的低落もあり、アメリカは世界に展開していた駐留軍を漸次引き上げつつあります。
右の表を見て下さい。2011年にアメリカ軍は33万余りの兵力を世界にある700ヵ所以上ある米軍基地や施設に展開していたのですが、それから10年後には17万余りと半分に減らしています。それから5年程経過した現在も減らし続けています。
対イラン戦争でこの減少幅は鈍化しているかもしれませんが、アメリカは極端に言えば、世界から手を引き、自らのテリトリーとして南米に特化しようとしています。加えて、この表で注目して欲しいことは、アフガン撤退したあと、世界中で最も多くのアメリカ兵を駐留させているのが日本ということです。
しかも、2011年と比較しても7000名程増えています。2026年段階の数字は正確には掴めないですが、さらに増えている可能性もあります。要するにアメリカは日本を対中戦略の橋頭保・出撃基地として位置づけていることが、この兵力の展開でも明白です。さらに言えば、もう少し将来を見据えて言えば、日本自衛隊の役割増大に比例して、場合によってはアメリカ兵がグアムやハワイに少し撤退する可能性もあります。それはアジア覇権については、中国とは正面切っては対決することを回避し、可能な限り日本自衛隊にアメリカ軍に替わって対峙してもらいたい。つまり、アジア地域においては、日本がアメリカの代替国家としての役割をアメリカは期待しているし、日本自衛隊はその役割を担おうとしている、とさえ言えます。防衛装備拡充や防衛費増大の本当の理由は、そこにあるのです。
「防衛白書」でも「安保三文書」でも、そのことを非常に意識して記載されています。中国を正真正銘の仮想敵国と位置づけ、どう張り合うかについての文言が繰り返されています。それで私は「防衛白書」を〝戦争白書〟、「安保三文書〟を〝戦争三文書〟と捉えています。
日本の実情を中国で話す
日本の政治思潮について、今年6月末に、中国の北京大学の学会で報告をしてきました。こでは日本の靖国思想、日本の軍国思想、日本のファシズム思想、そして高市政権の政治思想は、一体どこから生まれ、どう展開されようとしているのか。それらについて歴史を辿りながら話して欲しいとの要請でした。ただ、表向きのタイトルは、「天皇制下のサバルタン|重層的差別社会のなかで」というものでした。
「サバルタン」(subaltern)とは、イタリアのマルクス主義者アントニオ・グラムシが提起した「差別し、差別される者」の象徴として、将校から差別され、一般兵士を差別する、その中間に位置する階級である「下士官」のことを意味します。戦前期日本では植民地地域をも含め、重層的差別の構造が定着し、その頂点に天皇が位置していました。天皇制が差別の起点あるいは基点でありました。
この政治支配システムは、敗戦によっても破壊されず、天皇制が残置されたことで、そのまま戦後にスライドされ、今日まで多少洗練され、味付けされはしましたが、本質的には何ら変わっていません。戦後の保守権力者たちは、戦前から受け継がれたイデオロギーの体現者として振る舞うことになります。ですから私は日本が段々と右傾化している、という指摘には肯(うなず)くことはできません。なぜなら、戦後も日本は右翼国家として、また、反共主義を中核とする国体護持を究極の目的とする新天皇制国家だったからです。
皇室典範の改正、国旗損壊処罰法など、その本質を示す法律群なりが次々と表出しています。これまで上手く振る舞っていたイデオロギーが、全面展開している状況が現在です。その舞台の主役として相応(ふさわ)しいと認定されたのが、「高市早苗」という極右イデオロギーの持ち主だった、と理解しています。大体、こんな話をしながら、同時に現代日本では被差別者が無意識のうちに差別者となっている実態についても、「サバルタン」の用語を使いながら説明してきました。
「新しい1920,30年代を生きている」
海自の将官であった人物(大塚海夫)が靖国神社の宮司に就き、当時現職の幹部自衛官が刃渡り18センチの刃物を持参してh中国大使館に押し入り、大使に面会を要求するなど、全く戦前の風景が次々と目の前に立ち現れています。一体、何が起きているのか。まさに1930年代のファシズムや軍国主義が勢いを増して来た時代状況と同質の政治状況にあります。経済状況も酷似しています。庶民は高物価に苦しみます。私は歴史研究者ですから、1920,30年代の庶民の生活実態を綴った資料や日記・証言の類の資料に目を通す機会が多いのですが、それらを読んでいると、丁度100年後の現在を読んでいるように思います。
「新しい戦前を生きている」の言葉が、よく言われますが、もっと具体的に言えば、「新しい1920,30年代を生きている」でしよう。1925年に制定された治安維持法と同種の事実上の市民監視・弾圧法が、国旗損壊処罰法はじめ、次々の制定されているのも、その証拠です。そういえば、私は御茶ノ水に出るまでの40分間に頻繁に新書を読む〝電車内読書〟の癖があるのですが、最近『国家が戦争に向かうとき 昭和10年代に回帰する日本の現在地』(朝日選書)を興味深く読みました。意訳すれば、「昭和10年代」が「令和10年代」に転写することを確実に予見させる内容です。「令和10年」までにあと二年しかないのです。そうした地点に私達は置かれている、ということです。
そうした地点にあるなかで、ただ立ち尽くしている訳にはいけません。けれでも、私が縷々述べるまでもなく、日本では闘うべき労働者・市民の戦線が崩壊し尽くしています。少し過激な言い方かも知れませんが。今年の衆議院選挙におけるリベラル及び社民、れいわ、共産など左派勢力の敗北は、戦争モードに拍車をかけることになりました。立民の公明への屈服は、集団的自衛権・原発・辺野古の容認などの姿勢から、そもそも自民や維新の連立政権とは闘い得ない存在であることを証明してしまいました。つまり、対自民との対立軸の喪失による、言うならば予期された大敗北だったと言えます。「弱者に寄り添う」姿勢が希薄化している最中のれいわの事実上の解党も、驚きと合点と相織り交ぜての結末を迎えてしまいました。中道改革も解党となり、先行きが不透明となりました(その後、民主改革の会の立ち上げなど新たな動き)。
こうして、かつての旧い言い方をすれば「保革拍中」は遠い世界の話になってしまいました。なぜそうなってしまったのか。答えは人によって様々ですが、私はまず高市首相が、最近少しダウン気味ですが、それでも一定程度に高い支持率をキープしているのは、一つには左派諸勢力が高市政権の本質を見定めることに不充分だったからではないか、と思うのです。
世界に目を転じれば
世界的なレベルで右翼ポピュリズムが台頭している状況ですが、それは資本主義政治の行き詰まりや閉塞感により、強い政治(タカ派政治)や自国ファースト・ナショナリズムが世論に浸透している表れです。高物価・円安・金利高騰など庶民の生活破壊を招いていながら、それでも高市政権を支持してしまうのは、これに対抗する左派政党が弱体化する一方で、期待の対象とはなり得ないからです。
高市極右政権に対抗するに中道とか中庸では、土台無理であることを理解するしかないようです。中間選挙を控えるアメリカで、すでにゾーラン・マブダニがニューヨーク市長に就任していますが、民主党の予備選でバリバリの社会主義者たちが次々と勝利しています。本選を勝ち抜けるかは現時点で定かではありませんが、アメリカでは確かに新しい風が吹き始めています。彼等彼女たちを支持する人たちは、トランプ大統領を右翼ポピュリスト、さらには極右政権と捉えているのです。決して新自由主義者ではなく、有体に言えば、もっと右に行っている。自民が維新と連立を組めたのも、思想的に深い繋がりがあってのことでしよう。
それと同じように、高い市政権を極右ポピュリズム政権と捉え、共に闘う戦線の構築を図るべきでしよう。高市政権をはじめ、日本の保守権力の現在を新自由主義だとする程度の把握では、闘いの戦線は組みようがないということです。欧米では確かに右翼の台頭が著しいのですが、左翼の復興も目覚ましいものがあります。左右の対立が先鋭化しつつあります。
これについては、私などより詳しい方達が本日の会場にも沢山参加されていると思います。フランスのメランション(不服従のフランス)、ドイツのラフォンテーヌ(左翼党)、イギリスのコービン(新党及び緑の党)など、社民系の左翼政治家たちが主導する政治運動が確実に成長しています。欧米での動きが、日本には存在しないのはなぜでしようか。そこは不思議でなりません。その辺を皆さんと、さらに考えていきたいと思いますし、そのように考えて活動されてる方も、決して少なくありません。
「抵抗の主体は形成されていますか」の問い
こうした反与党の諸政党の衰弱ぶりとは別に、反戦平和を目指す運動を再構築しようとする動きも勢いを増していると。国会前のデモ参加者や発言など、2015年の安保法制繁体運動とも異なる風景を醸し出しているように感じます。確かに政党のように、一つの綱領など統一的な政策や文書は存在しませんが、一人一人が自立的で主体的な存在感を発揮しています。望むべくは、それが燎原の火の如く日本の津々浦々に拡がっていくことを強く希望せざるを得ません。
今日もこの会場の入り口で、中国メディアから取材を受けることになりました。中国のメディア各社は、何社も日本に支局を構え、中国が言う「新型軍国主義」の実態を具(つぶさ)に中国国内に報道しています。同時に日本の反戦・反軍国主義の運動も、繰り返し本国に向けて報道しています。日本国家や政府の動きと、日本市民の動きとは異なる側面を正しく伝えることに尽力しています。私も中国のメディアから事ある毎に取材を受け、中国に向けての執筆活動を続けています。これに対し、中国のプロパガンダ(政治宣伝)に使われているだけだとの批判や、「媚中派」などとレッテル張を受けている一人ですが、日本の動きや政府の施策の危うさを思った通り触れているだけで、それが中国の国益に利するとは思っていません。むしろ中国のメディアは、両国国民が対立状況に立ち入らないために、懸命にメディアとしての役割を果たしているのだと思います。
中国の人たちは、日本の軍国思想の復活を大変恐れています。そして、中国の人たちに常に問われるのは、日本には軍国主義に対抗する力は形成されてますか、と言うことです。その主体は存在しますか、と。別段の言い方をすると、抵抗勢力の主体、抵抗の戦線は、いかに構築されていますか、と。私は、「いい話は決して多くありません」と答えるばかりでした。
私は、『リベラリズムはどこへ行ったか』(緑風出版、2022年)という本を書きましたが、残念ながら多くの読者を得ることは出来ませんでした。今リベラリズムも解体の危機にさらされて、新リラリズム|こんなものリベラリズムと言えるか|という新ベラリズムというものが語られます。新自由主義とか。新リベラリズムとか、「新しい」をつければ何かいいものだという思想状況になってしまっています。その果てに、「新しい戦い方」、それから「新しい守り方」などという言葉も跋扈(ばっこ)している有様です。これ12月に公表される「新安保三文書」に登場します。最近公表された「防衛白書」には、既に登場しています。
今年の「防衛白書」の「刊行に寄せて」で、小泉純一郎防衛大臣が、「わが国を取り巻く安全保障環境は、戦後最も厳しく複雑なものとなっています」として、「新しい戦い方」や長期戦への備えを急ぐなど、安全保障環境の変化が様々な分野で加速度的に生じています」というようなことを書くわけです。時の防衛大臣が、〈「戦争を準備しなさいよ。皆さん。平和主義とか護憲主け義と言ってる暇はありませんと」と、言っています。非常に恐ろしい状況下にあると思います。
日本版DSAの結成を
私たちが護憲主義、護憲運動で頑張ってきたけれども、なかなか力を持ち得なかった。そして、同じことを繰り返してしまいますが、政党レベルでも、社民党、共産党、新社会党も含めて、いわゆる革新政党が、力を失ってきてしまった。これは、なぜなのか。そいう問いを、いつでも考えておかなければならないと思うのです。
私は、折に触れて、いろんな本を書かせていただいて、いろんなことを言っているわけなのですが、今日はその話を中心に話す時間はもうありませんが、「非武装中立」という安全保障政策、とか人間中心の安全保障政策、「いのちの安全保障」という言葉で、「共同テーブル」という緩やかな運動体を結成しています。
沢山の人たちが集まっていて、カッチリした綱領のようなものも、最終的に何処に向かうのかも明確にされている訳もありません。ただ、私などは、先ほどが述べているように既存の左翼政党が斜陽化するなかで、もう一度、別角度から別種のい政党を結成する先導役を買ってでるべきだと思っています。
労働運動、社会運動、市民運動、文化運動などを緩やかに集合したような形式で、いずれ多少生々しいのですが、その方向づけを検討する「協商会議」を開く機会を設定すべきではないか、と個人的には密かに期待しているところです。「共同テーブル」も、今年10月15日開催(文京区民センター)のシンポジウムで20回目を数えますから、もうそろそろという感を強くしています。
私達が依って立つべき拠り所、あるいは基盤形成を急ぐべきですが、私個人は別種の政党創りという旧来型の運動ではなく、現在も実に沢山の市民運動が展開しているように、それらを糾合して政党ではなく、纏まりのある「政治勢力」を構築すべきに思います。
最近日本の市民運動の担い手たちが、頻繁に紹介し、一つのモデルとする「アメリカ民主社会主義者」(DSA:Democratic Socialists of America)は、確かに注目すべき運動団体です。もっともDSAは、共和党に対抗する民主党の拡大を図るための組織集団ですが、最初から政党に収斂されるのではなく、その目的とは別に広範な戦線を形成することを主眼とする政治運動です。こうしたアメリカの動きは、もう一つの世界の政治潮流としてある事も確認しておきたいと思います。いつか〝DSJ:Democratic Socialists of Japan〟が結成されると良いですね。すでに、それに向けての運動が起きているかもしれませんが。
「死せる安倍、高市を走らす」
高市政権の戦争国家体制に抵抗するためには、国家権力の言う思想-国家主義、軍国主義あるいは靖国思想-に抗していくためには、私たちの思想、精神というものを何によって打ち出すかということが問われている。それはやはり、平和主義や民主主義であり、本当の意味での自由主義でしかないだろうと思います。そして、労働者、市民、これを別つことなく、あるいは外国人を別つことなく、この土地に住むすべての人が、平等な権利を持って自由に発言し行動できる、そういう空間として、この場・土地・地域を再設定していくことが必要に思います。ここまで言ってしまったら、誰でも言うようなことでしかありません。私が初めてものする言葉でももちろんないのですけれども、こういった集会を含めて、訴え続けなければいけないことだろうと思います。
今日の集会にも、靖国思想という言葉が書いてあって、それで申し上げるんですが、私の研究室のある大学の近くに靖国神社があります。その靖国神社が靖国思想、侵略思想、あるいは軍国主義思想の発信源であることは、いまさら言うまでもありません。靖国神社の遊就館の展示を見れば明白です。
そして、現在の市ヶ谷の防衛省には、市ヶ谷記念館と言われる建物がありますが、そこは、旧陸軍省です。現在は一部を移設復元して資料館になっています。現在は六本木にあった防衛省が新しく堅固な建築物として新防衛省の建物があります。旧陸軍省の大講堂は極東国際軍事裁判でも使用されました。旧陸軍省は、戦後陸上自衛隊東部方面総監部が置かれました。2階に「旧便殿の間」があります。そこは、天皇の休憩所として使用されていました。そこが保存展示されています。靖国の遊就館だけではなくて、いわば「戦争を寿(ことほ)ぐ(褒める)」ための、そして天皇を仰ぎ見る空間が資料館の目的となっているわけです。
一方、中国に行くと、本当に各地に戦争資料館があって、戦争の惨さを訴え、二度とこのような時を迎えない、平和の時にこそ、苦しかった時代を思い起こそうという標語のもとに、歴史を鏡として学んでるんでいます。日本とは、真逆の歴史認識が示されています。「日本人が歴史から学んだことは、歴史から何をも学ばなかったことだ」という有名な言葉があります。そういう意味で言うと、私たちはもう一度歴史を辿り、靖国思想に抗する思想を鍛え上げていくということが、ますます必要になってきてる。そのためには先達たちの尊い行動や実践の歴史を学んでいきたいと思います。
話は飛びに飛びますが、安倍の国葬に際して違憲訴訟があります。その裁判にも証言を要請されました。安倍の行ったことは戦前への回帰でした。その安倍の国葬に17億円の税金が投入され、これへの世論の反応は頗る鈍いものがありました。岸田政権ができた時に、「死せる安倍、岸田を走らす」と私はクレームを付けましたが、私はもう一度この言葉を使いたい。「死せる安倍、高市を走らす」と。安倍が敷いた戦争へのルートを、高市が直走(ひたはし)っているような気がしてなりません。だから「高市戦争内閣」とあえて言うわけです。
あちらこちらに話が飛んだ、いつもの悪い癖が、今回も全面展開してしまったようです。まだまだ話さなければならないことは、沢山ありますが、またの機会に皆さんと大いなる議論をさせて頂ければ幸いです。ありがとうございました。
*本稿は、国家・天皇による「慰霊・追討」を許すな!! 8.15反「靖国」行動(2026年)における「高市政権の戦争国家体制に抗する!」8.11集会の記録です。(2026年8月11日 於文京区シビックセンター4Fホール)。当日の講演をベースにして、纐纈さんが加筆修正されたものです。
纐纈厚紹介:山口大学名誉教授。現在、明治大学国際武器移転史研究所客員研究員。植民地文化学会代表理事、重慶大爆撃を継承する会共同代表。主著に『近代日本政軍関係の研究』(岩波書店)、『文民統制』(同)、『近代日本政治史研究の諸相』(明治大学出版会)、『侵略戦争』(筑摩書房・新書)、『暴走する自衛隊』(同)等多数。
