天野恵一
天野 宮沢俊義の八月革命説のまわりをグルグルしすぎて、話が繰り返しになってしまったようなので、今回で一気に、走り抜けたいと思います。
--ハイ、ドーゾ。
天野 とにかく、すごいスピードで新憲法づくりはスタートされます。幣原喜重郎内閣下の1946年の元旦、いわゆる「人間宣言」が天皇ヒロヒト自身の言葉で発せられますね、「神格化否定の詔書」です。これも準備の一環です。そしてマッカーサーがGHQ民生局に憲法草案の作成を指示するのが2月3日。2月10日にはGHQ案は早くも完成します。これより二日前の2月8日に、日本政府の憲法改正要綱(いわゆる松本試案)がGHQに提出されます。この案づくりの中心に宮沢俊義はいます。この案は大日本帝国憲法の原理はそのままのもので、GHQに拒否されたオソマツなものでした。拒否したGHQは自らの「草案」を日本政府に渡し、2月23日には日本政府は、この草案の受け入れを決定します。すぐGHQ︿マッカーサー〉草案に基づく憲法づくりがスタートします。そして、この作業そしてできた憲法・解釈作業の日本側の中心にも宮沢俊義は存在しています。
彼の活動の場所は、GHQ案をにらんで2月14日にスタートした「東京帝国大学憲法研究委員会」。発案者は総長であった南原繁です。
民法学者我妻栄のレポートを紹介します。「知られざる憲法討議―制定時における東京帝国大学憲法研究委員会報告書をめぐって―」(憲法問題研究会編『憲法と私たち』〈岩波新書・1963年〉所収)。政府の改正草案に「貢献する債務」のため作られたこの組織について、こう論じています。
「委員長は宮沢俊義(法)で、特別委員として、高木八尺、杉村章三郎、末広厳太郎(以上法)、和辻哲郎(文)、舞出長五郎(経)の六人―」
「委員会は、まず、一般的な討議によって、『憲法改正に関し検討すべき諸問題』を決定した。そしてそれに基づいて論議を始めた時に、突如として政府の憲法改正案要綱が発表された。それは三月六日、委員会が発足して僅かに二十日の後である。/そこで委員会は予定を変更して、要綱とそれを追って発表された「内閣草案」(政府案)とに取り組むことになった。/ついで『内閣草案』に基づいて逐条の審議を重ねた上で、第二次報告書を作成して任務を終った。解散した時期がいつであったか記憶がない。委員会のうち多くの者は、あるいは貴族院議員となり、あるいは政府の法令制定委員となってその方に活躍しなければならなくなったので、内閣草案の発表された後あまり長い月日でなかったと記憶する」。
この研究会の「委員」の一人に政治学者(助教授)丸山真男もいた。「八月革命」というネーミングの提案は、この会での交流を通してのことであるようです。
--ストップ。早口すぎます。この会の活動を通して宮沢さんの「八月革命」という理論が作り出されてきたというわけですね。
天野 そう。東京帝国大学の教授たち、大インテリの頭の中だけで、ひねり出された「革命」!。おまけに驚くべき時流便乗の精神の産物ですね。なにせ主権原理の転換をスイスイ進めた非武装平和主義憲法への、なだれこみですからね。
我妻栄は、この論文で、会のメンバーは占領軍のプランに基づいて政府案が作られていることをみな知っていたが、決して「押しつけられた」とは考えてはおらず、内容を積極的に支持する方向で討議していた、と繰り返しています。内容への共感が、そんな感情を生み出させなかったと論じているけど、占領民主主義の時流にただ流されていたのではないかという反省は、そこにはゼロです。スイスイ原理(立場)の転換をしている宮沢の態度に象徴されるものに注目すれば、右翼の「押しつけ」論とは違った意味で、やはりグロテスクな思想風景というしかないのではないでしょうか。
--その点に、ズッーとひっかかり続けているわけね。
天野 ハイ、そうです。立場(原則)の変更は、もっと主体的努力(過去の否定さるべき思想(論理)への主体的な反省の言葉を生み出すこと)が伴うはずです。思想的反省(責任感)なき転換は時流便乗でしかない。無差別殺傷の空爆と原爆攻撃「デモクラシー」、天皇制を「人間」(デモクラシー)へと転換させた象徴(非政治・非宗教のタテマエ)天皇制へのモデルチェンジ。この流れへの便乗です。
これは米の占領政策が無責任にも天皇制を、侵略戦争の最高責任者ヒロヒト天皇を、スンナリと延命させたという大問題を、大部分の日本人に考えなくさせたのです。
--宮沢さんという人は、この時期、まったく〈原理〉が違う二つの憲法草案づくりの中心にいたというわけですね。
天野 そう、〈主権〉原理がまったく別の。その事実こそが、「八月革命」説の空疎さを象徴していますね。
--こだわっていること、言いたいことは、それなりに理解できました。
天野 ここで確認しておきたいのは、この大知識人の時流便乗は、圧倒的多数の日本の政治的支配者たち、そして民衆の便乗のそれこそ象徴であるという事実です。天皇ヒロヒトが、すごいスピードで、アメリカに抱きついて延命をはかり続けたという事実は、この間、大量に関係者証言が資料として示されつづけていますね。
次に、幣原内閣の下での憲法改正案委員会の委員長だった芦田均の、11月3日の憲法公布の式典の日の日記を紹介します。
「二時十分頃両陛下は馬車で二重橋を出られた。群衆は早くも帽子やハンケチを振って波立つ。陛下は背広、中折の姿でゆるゆると歩を運ばされる。楽隊が君が代を奏する。参会者一同が唱和する。何故か涙がこぼれて声が出ない。私許りではない。周囲の人々は皆そうらしい。/首相の発生で万歳を三唱すると民衆は沸き立った。陛下は右手で帽子をとって上げて居られる。皇后陛下はにこやかであらせられる。/陛下が演壇から下りられると群衆は波うって二重橋の方向へ崩れる。ワッーという声が流れる。熱狂だ。涙をふきふき見送っている。群衆は御馬車の後を二重橋の門近くへ押しよせている。何という感激であるだろう。私は生まれて初めてこんな様相を見た」。
--国民主権憲法の公布の式典で、「天皇陛下万才」の大騒ぎだったの。驚いた。
天野 ウン、私も、1989年に出版された作品社の『読本・憲法の100年』という資料集の3巻「憲法の再生」に収められたものから引いたんだけど、これを読んだときは、ビックリした。いくらなんでも戦後の主権在民の平和憲法の成立の風景が、こんなインチキだなんて。どうも、事実にそくして、キチンと戦後史がおさえられていないナーって、実感させられる体験だったので、よく覚えていますよ。戦争中のメンタリティーがそのまんまなんだもん。
ここで、以前にちょっと触れた、占領下に出された、日本人のマッカーサーあての手紙の問題。袖井林二郎さんが最初に紹介・分析してくれたやつ。この問題にもふれたい。
--いいですよ。どうぞ。マッカーサーの子供を産みたいなんて婦人の手紙も紹介されているやつね。
天野 ウン。彼はかなりのナルシストだったらしく、キチンと整理して残されていたらしい。岩波現代文庫に収められている(2002年)『拝啓マッカーサー元帥様―占領下の日本人の手紙』の袖井さんの「プロローグ」の書き出しの言葉を引くね。
「史上初めての敗戦とそれに続く軍事占領は、日本人の国民性の深部まで明るみにひき出す、すさまじい経験であった。それを裏づける一つの証拠に、占領軍総司令官として君臨したマッカーサーとその総司令部(GHQ)にあてて、人々が書き送った推定五〇万通の投書がある。日本全国各地から文字通り老いも若きも、男も女も、旧軍人から共産党員までが、思いのたけをこの外来の支配者に書き送った手紙の群れは、日本人がどのような民族であるかを雄弁に物語っている。/世界史に数多い占領の歴史のなかで、外来の支配者にこれほど熱烈に投書を寄せた民族はない。なぜそのようなことが起こったのか。その答えは『マッカーサーと日本人』という歴史の狡知が作り出した組み合わせに見出されよう。もともと人間は権威によりかかりたがる動物だが、日本人にはその傾向が民族性といっていいほどに強い。そして敗戦によっていっさいの権威が崩壊した彼らの前に現われたのは、『慈悲深い』権威主義者のマッカーサーであった」。
「戦時中の言論弾圧のもとでは、軍と特高警察による思想統制が行きわたり、政治に対する批判はいっさい許されず、国民が直接に支配者になにかを訴えるということは、不可能であった。その重圧がいっきに取り除かれたのである。/しかし、それだけでは投書ブームは起きても長続きはしない。この現象にはなにか日本独特のものがある」。
「しかも、そうした手紙を書き送る側の心情をかきたてたのが、絶対権力者としての開明専制君主を演じ続けたマッカーサーである。占領下の日本とドイツの違いは、国民の成熟度だけでなく、総司令官の権限と個性にもあった。ドイツは米英仏ソの四ヶ国による分割占領であり、アメリカ占領地区の軍政責任者ルシアス・クレイ将軍の権限は、日本におけるマッカーサーのように絶対的なものではなかった。マッカーサーのもっていた強烈な使命感とカリスマ的な個性は、クレイには無縁なものである。マッカーサーが自らを『経済学者、政治学者、技師、産業経営者、教師、そして一種の神学者』(『回想録』)でなければならぬとして、日本の民主的改革を神から与えられた使命と心から信じていた」。
「マッカーサーには、この人ならばと聞き入れてくれるだろうと、老いも若きも筆をとりたくなるような、磁力にも似たものがあった」。
--ストップ。私も読んだけど、なんだかイヤーな気分になるような手紙、ファンレター、感謝の言葉が、実に多すぎない。だって、原爆を広島・長崎に投下して無差別殺傷したのはアメリカ。東京・大阪から地方都市へのこれまた無差別空襲も、あのアメリカ。あれだけの大量の死傷者が出た直後でしょう。いくらアジア侵略のゴールの攻撃だって、あんなの自分たちの作った国際法にだって違反しているじゃない。ケロッと忘れて、米占領に「感謝」てのは、どうかしていない。
天野 だから、そういう歴史の上に、私たちの時間も流れているわけでしょう。天皇陛下万才の「現人神」権威主義のメンタリティーをフルに活用した方が、占領のコストもかからず、うまくいくという親日派グループらの判断の線で、トルーマン大統領も、マッカーサーも動いた。そのためにヒロヒト天皇と天皇制を延命させた。東京裁判の被告として名をあげることも、証人として法廷に呼ぶことすらしなかった。戦後何度もあった天皇ヒロヒトとの会見に、マッカーサーが出かけることは最後までなかった。ヒロヒトより偉い人として天皇に自分の所へ来させ続けた。マッカーサーは、あまり姿を見せず、隠れた絶対権威としてふるまい続けた。これは彼の政治家としての自覚的ふるまいだったことは、今は明らか。天皇より偉い人としてふるまい、天皇制の権威主義を利用したわけですね。
こうした政治プロセスについては、NHK取材班と栗屋憲太郎の共著『東京裁判への道』(NHK出版・1994)が、生き残った人たちの証言をもベースに、一番詳細に分析しています。占領開始とともに、アメリカ世論を含めた天皇の戦争責任を問うという、あたりまえの世界の大きな声を無視し(一貫して天皇の戦争責任を問題にし続けたのは、東京裁判の裁判長を務めたウエッブの祖国オーストラリア)、そういう占領支配の政治が展開されたプロセスが、そこで細かく分析されてますね。
--「東京裁判」の判決が、一つのゴールなんですね。
天野 モチロン。戦犯25被告に有罪判決。1948年12月23日に東条ら7人に絞首刑が執行されていますね。
--アッ、それとの関係で、ニュースの読者から、天皇は何故靖国神社に参拝しないのか、という質問が前号ありましたよね。ここで答えてくれますか。
天野 ハイ、天皇の神社、靖国神社が公然と示している歴史観は、かつての「大東亜戦争」はアジア解放のための正しい戦争だったというものですね。東京裁判の戦犯を裁き処刑した論理は、それは侵略戦争だったという判断が前提。「東京裁判」の歴史の裁きとは、当然にも対立的。処刑された戦犯は、戦後に持続された戦争の「戦死者」という位置づけになります。
2006年(7月20日)に『日経新聞』が富田朝彦(ともひこ)(元宮内庁長官)のメモと日誌を公開し、天皇ヒロヒトが「A級戦犯」が合祀されている靖国神社には行かないと語っている事実を明らかにしました。初代の、占領下からの筑波藤摩宮司が配慮してストップしていたものを後任の松平永芳宮司が断固「合祀」。この態度にヒロヒト天皇が怒ったという事実も明らかになったのです。松平は、A級戦犯は、戦後連合軍に殺された「戦死者」だと公言し、東京裁判の判決を認めていません。天皇のために死んだ「A級戦犯」を靖国が合祀するのはあたりまえと主張しています。
ヒロヒト天皇は「東京裁判」の判決で、文字通りの延命が確認されたわけで、アメリカ(マッカーサー)の「東京裁判」路線で、やっと延命できたことを「感謝」しているわけですから。こうした「靖国派」の天皇主義右翼とは対立してしまうわけです。
命の恩人アメリカ!「鬼畜米英」から「恩人アメリカ」へのハレンチな乗り換え。天皇は、まさに日本人の〈象徴〉ですね。
三代目の象徴天皇も、二代目同様、靖国参拝せず、の、ヒロヒト天皇の意思を継承しているというわけでしょうね。
--ハイ、ハイ、よくわかりました。
天野 軍の神聖なるトップ(統帥権者)であるという部分は、まるごと消滅させて、非政治・非宗教のベールをかけて、〈象徴天皇〉として天皇制を延命させたのは、アメリカ(マッカーサー)です。だから、象徴天皇制はアメリカの無条件占領の産物であり、それは徹底的に︿アメリカじかけ〉の制度なんですよ。ヒロヒト天皇が裏で、日米安保条約の成立のために精力的に政治的に動いていた事実については、今、少しずつ歴史資料が示されだしていますが、「反共」一直線で、ヒロヒト天皇が敗戦とともにアメリカの胸に飛び込んでいったことは、まちがいのない事実です。自分たちだけが延命できれば、歴史的・政治的責任なんてものは、どうでもいいんですね、この人。
--ストップ。靖国参拝問題との関連では、このくらいで。ずいぶん走りましたが、何か、この問題で、言い残したことはありませんか。
天野 ウーン、少し総括的なことを話しておきたい。
最近、読書会のテキストになったので、中川遼さんという政治学をやっている人の書いた『ナショナリズムとは何か―帰属、愛国、排外主義の正体』という中央新書を読んで、E・ゲルナーという歴史学者がナショナリズムとは端的に「外国人に我らを統治させるな」(No foreigners may rule us)という要求だと、主張していることを教えられた。
ナルホドと思ったが、だとすると日本の戦後ナショナリズムは、米占領の延長という政治性格から脱出できなかったそれは、こういうナショナリズムの基本条件が欠落した︿ナショナリズム﹀であった。特に軍事的にはアメリカのコントロール下で、とても主権国家とは言えない代物のまま、経済的には「大国」化した、奇妙な「戦後国家」である。
〈ナショナリズム〉の基本的条件が欠落したナショナリズム、それが象徴天皇制国家のナショナリズムです。
とにかく、象徴天皇制は〈アメリカじかけ〉であること。このことに、常に自覚的でなければならない。
この間、あらためて占領期の日本の政治を分析したテキストを何冊も読みなおして、そういう思いを強くしました。
*初出:『市民の意見』市民の意見30の会・東京発行、no.214, 2026.04.01
