反靖国~その過去・現在・未来〜(43)

土方美雄

最後のヤスクニ・レポート その3

詳しくは、それら一連の著作に譲り、ここでは、話を先に進めるため、靖国神社とは、一体、何かについて、ごくごく簡潔に、記すことにする。

靖国神社は、「東京招魂社」として、1869年、東京・九段の地に創建された。創建者は、明治維新政府の軍事的指導者の中心的人物、大村益次郎である。

彼は長州藩の出身で、同藩は1863年の「攘夷」決行以来、もっとも多くの戦死者を出し、その死者を「国事受難者」として、藩をあげて慰霊・招魂することで、後に続く者の士気高揚を図ってきた藩である。招魂祭の持つ重要性を、文字通り、熟知していた大村は、戊辰戦争が終結すると、直ちに、政府軍の戦死者を対象にした招魂祭を実施する旨、政府の名前で通達し、自ら、招魂社の建設候補地の選定に乗り出した。

こうして、九段坂上に創建された東京招魂社は、その創建当初から、極めて、軍事色の濃厚な神社で、それはその例大祭実施日が、政府軍が幕府軍を決定的に打ち負かした、伏見戦争記念日、上野戦争記念日、函館降伏日、会津藩降伏日の年四回に定められたこと等からも、明らかであろう(その後、1912年に、日露戦争凱旋陸軍大観兵式記念日の4月30日と、同海軍大観艦式記念日の10月23日の年2回に、改められた、これが現在の靖国神社の例大祭の起源である)。

西南戦争の終結によって、激烈な内戦の時代を、ようやく乗り切った明治維新政府は、1879年、東京招魂社の社名を「靖国神社」と改め、「別格官幣社」という高い社格と、天皇の祖先神を祀る神社神宮(伊勢神宮は通称)に次ぐ、社領を与えると共に、同神社を、他の神社とは異なり、陸・海軍省の直接管轄下に置いた。

以降、日本の対外侵略によって、新たな戦死者が出る度に、その戦死者を合祀する臨時大祭が、同神社で大々的に開催され、それには必ず、「現人神」である天皇自らが参拝することが、恒例となっていく。

つまり、靖国神社はその生い立ちから、一貫して、その天皇の軍隊の死者のみを「英霊」として祀り、天皇=国家のために死ぬことの無出来る兵士をつくり出していくための、いわばイデオロギー装置として、その後の日本の、対外侵略戦争の拡大・泥沼化の中で、いわば犠牲になった幾多のアジアの人々の血を吸って、発展してきた、世界にも、あまり類例のない、特殊な軍事的宗教施設(あるいは、宗教的な軍事施設)として、終始、存在し続けてきたのである。

戦後、歴代の首相等が、同神社に参拝する際の常套文句は、「平和を祈念し」であるが、私たちは靖国神社を巡る議論の前提として、同神社が、文字通り、の果たしてきた、その歴史的役割を、絶対に忘れてはならないのだ。

1946年、第二次世界大戦で敗北した帝国日本は、占領軍が、軍事主義・天皇制崇拝思想の元凶として、国家神道の廃止を目的とした「神道指令」を発令すると、それへの対抗策として、靖国神社を陸・海軍省の管轄下から切り離し、「信教の自由」をタテに、あくまで、「民間」の一宗教法人として存続させることで、その延命を図ることにした。しかしながら、それがまったくのまやかしであったことは、一宗教法人となった後も、同神社が密かに、厚生省引揚援護局との連携下で、新たな祭神合祀を続けてきたこと等からも、明らかである。

今日の靖国神社は、「日章旗」や、軍服姿の参拝者で埋め尽くされる、8月15日の「特殊」な記念日以外は、その概観は、一見「平和」そのものである。境内に立ち入ろうとする者を威圧するかのような、あの大鳥居を別にすれば、木々に囲まれた静寂で、広大な境内は、アベックや家族連れで散策するのに、もってこいかもししれない。都内有数の桜の名所でもあり、夏の風物詩ともなっている「みたま祭り」は、参道にビッシリ、屋台が建ち並び、巷で「ナンパ祭り」と揶揄されるほど、深夜まで、酒を飲んで騒ぐ大勢の若者で、賑わっている(もっとも、今年から靖国神社サイドは、そうした「風紀の乱れ」を理由に、みたま祭り期間中の屋台の出店を、全面禁止にした)。

しかしながら、それは靖国神社の、あくまで人寄せのための「ひとつの顔」に、過ぎない。というか、戦時下のごく一時期を除き、たとえ、陸・海軍省管轄下の戦前であっても、靖国神社の祭日には、境内にサーカスや見せ物小屋などが、賑やかに立ち並ぶのが、常であったのである。

読者が靖国神社の「本当の顔」を見たければ、拝殿に向かって、右手奥にある「遊就館」に、是非とも、行くべきである。かつて、国立の軍事博物館であった同館は、戦後、長く閉鎖されていたが、1985年に再開され、かつての日本の侵略戦争を「聖戦」と称え、その戦争での戦死者=靖国神社の祭神を「英霊」と讃美する、驚くべき歴史観に基づく展示が、誰の目をはばかることなく、堂々と行われ、特に、「零戦」等旧日本軍の戦闘機や、「人間魚雷回天」等の兵器・武器の、これ見よがしの大規模展示は、一体、いつの時代に紛れ込んでしまったのだろうと、入館者を戸惑わせるほどである。もちろん、近隣諸国の批判に対応して、随時、多少の表現の部分的修正が図られているとはいうものの、これこそが靖国神社の紛れもない本性であり、その軍国思想そのものなのである。

(以下、続く)

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