反靖国〜その過去・現在・未来〜(31)

土方美雄

中曽根首相による「靖国公式参拝」への道 その3

以下も、引き続き、戸村論文(「靖国問題の〈非宗教化〉と〈宗教化〉」)からの引用の続きです。あまりにも長くなりますので、とりあえず、もう少しで、一区切りにします。

「社会通念」は、今や政治によって、伝家の宝刀となった。「靖国懇」の結論まとめが難航する中で、事務局はさらに「参拝の方式」についての議論を促していった。こうして、第19回(8月3日)の懇談会では、林座長代理によって提示された「素案」に各委員の修正意見を加えた「第2次素案」が示され、公式参拝については、「宗教色を薄めた形式であれば、憲法の政教分離の原則に違反しない」という意見が出された。しかし、終わりの段階では「『政府は・・公式参拝を実施する方途を検討すべきである』とする報告書がバタバタとまとめられた」(『朝日』1985.11.24)。

委員の芦部信喜氏は、『ジュリスト』臨時増刊号(1985・11・10)で、当初「一定の方向を定めて議論をお願いしたものではない」という政府説明にもかかわらず、「7月下旬に報告書をまとめる段階になってから、私の感じでは、この政府説明とはかなり異なる形でことが運ばれた」(「靖国懇と私の立場」)と述べていることは注目される。中曽根首相の「合憲」指示に答えるように、事務局の巧みな誘導がなされたことは明らかである。

「見解」も「靖国懇」報告書も、ムリにムリを重ねて、〈非宗教化〉を進め、「宗教色」排除という結論を取って付けたような形となった。それが具体的になんであったかを、われわれは、中曽根首相の「公式参拝」においてみるのである。

1982年11月に、中曽根内閣が誕生すると、その翌年、1983年4月の靖国神社の春季例大祭に合わせて、中曽根首相は、靖国神社へ首相として、初めて参拝し、鈴木前首相の「公私の区別を答えない」方針からさらに一歩、踏み込んで、参拝の資格は「内閣総理大臣たる中曽根」であると、明言した。事実上の「公式参拝」宣言ではあるが、しかしながら、同時に、曖昧さも残る表現で、自らの参拝を「公式参拝」であると、明確に、宣言したわけでは、ない。その前に、何としても、与党・自民党や、政府としての、公式参拝「合憲」の統一見解を出す必要が、あったからである。首相はその年の8・15を前に、7月に、自民党に対し、「公式参拝」合憲の根拠づけを、まずはその第一歩として、正式に指示した。

その後の経緯については、概略、引用した戸村論文の通りであるが、それとは出来るだけ重複しないように、私が当時、書いたヤスクニ・レポートからも、随時、引用していくことにしたい。

以下は、『新地平』1983年11・12月合併号からの、抜粋である。

1983年8月15日は台風5号・6号の影響で、朝から雨が降り続け、首相の車が靖国神社の到着殿に入ったころには豪雨になった。

私の所属する靖国問題研究会では、82年のこの日、第1回目の「戦没者を追悼し平和を祈念する日」制定と首相・閣僚らの靖国集団参拝に抗議する市民運動を広く呼びかけ、結果的には25名という少人数ではあったが、とにもかくにも抗議の意思表示を行った。

今年は8月15日が平日にあたるため、8月10日の夜に「ヤスクニの本質を問う8・10市民集会」を開催、15日当日は休暇のとれる者のみが午前10時、水道橋の全水道会館に集まった。参加者わずか16名の小規模な抗議集会に、TVカメラをかついだNHKの取材班が4、5人も現れるというハプニングもあり、その対応にテンテコ舞いし、何とか集会を無事に終えたのが11時過ぎ、私はその足で、靖国神社へとむかった。

会場を出る前に、われわれの小さな集会にわざわざ足を運んで下さったキリスト者遺族の会の小川武満委員長から「私は抗議行動に専念したいので、誰か写真を撮ってもらえませんか」と、カメラをあずかっていたのだが、その小川牧師が抗議行動の最中、麹町署員に不当拘束されるという事態が起こったのは、それから2時間後のことである。

11時半を少しまわったころ、靖国神社へ到着。小雨の降る中、地下鉄・九段下の出入り口でビラをまいている黒い僧服姿の真宗大谷派、非戦平和を願う会のメンバーと出会った。彼らがまいていた「亡き人々の『願い』に生きよう」と題するビラには、

「あの戦争で死力を尽くして戦い、敗れ死んでいった多くの人々は一体何のために戦い、そして死んでいったのでしょう。彼らは、この戦争が、我が母を守り、我が友人を守る、そういう平和のための止むをえぬ思いで、戦場へと旅立っていったのです。

私たちの父、息子、先輩、後輩たちを、彼等自らの平和への願いとは全く逆の方向に、騙し導いたのは一体誰なのでしょうか。それは靖国神社を護持してきた国家であります。

平和をどこまでも願い、そして亡き人々と共に生きようとする私たちは、靖国神社の存在に反対し、それを護持しようとする国の在り方にも反対するものであります」

と、書かれていた。

雨のためか、例年より参拝者はだいぶ少ない。ボディに「靖国神社国家護持」「憲法改正」「自衛軍備強化」などと大書された右翼の宣伝カーも街頭へ散ってゆくところで、われわれのやってくることを見越してか、私服警官の姿ばかりが目につくような情況だ。

式典(武道館で開催された、政府主催の「第21回全国戦没者追悼式」)を終えた首相が、公用車で靖国神社の到着殿に入ったのが午後1時を少しまわったころ。このころには、朝からの雨は豪雨に変わり、私を含め、北門近くに集まった志を同じくする人々はカサをさしても、なおズブぬれの状態。

警官の阻止線のむこうに到着殿が見える。5、60名のキリスト者に加え、われわれ市民グループで総勢は70名あまりにふくれあがった。人々は手に手に、「中曽根首相は靖国に来るな! 閣僚も来るな!」などと書かれた布をひろげ、誰彼ともなく抗議のシュプレヒコールがまきおこる。ジュバンの背中に、じかに「沖縄で住民を殺した奴も、死ねば『英霊』なのか! 琉球人は糾弾する!」とのスローガンを書き込んだ人、憲法の各条をビッシリ書きこんだシャツを着たカトリック信者の姿が見える。

北門に来る途中で、チラッと小川牧師の姿を見かけたが、そのころ、氏は「立ち入り禁止のロープを越え、首相の車に近づこうとした」という理由で、麹町署員に連行されていた。数時間後、小川牧師連行の知らせで、日キ教団の森山牧師が弁護士と共に麹町署へ直行。即日、小川牧師を釈放させたが、麹町署では小川牧師を、「右翼の妨害から守るため、やむなく連行した」などと強弁したという。

以下、次号へ。

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