不思議な本である。「あとがき」に自ら「旧稿を集めて本にするのは、なかなか勇気がいる。その後の研究の進歩、自分の過去への悔恨、矛盾、重複等」と記しているが、58歳時に30年も前のものを出している。
各章を執筆順に並べると、
掲載順 | 章題 | 執筆年 | ページ数 | 執筆順 |
4 | 美濃部達吉の法哲学 | 1969 | 53 | 1 |
7 | 二つの憲法と宮沢憲法学 | 1969 | 7 | 2 |
3 | 敗戦史の法哲学 | 1971 | 14 | 3 |
5 | 上杉慎吉伝 | 1972 | 82 | 4 |
8 | マッカーサーと戦後民主主義 | 1974 | 27 | 5 |
2 | 穂積八束 | 1975 | 24 | 6 |
6 | 国民主権と天皇制 | 1978 | 16 | 7 |
9 | 日本国憲法の正統性問題 | 1996 | 17 | 8 |
1 | 「国体」と「憲政」 | 1996 | 26 | 9 |
となり、わずか7ページの『創文』掲載文章まで収録している。
もちろんそれぞれ意図があって収録したのだろうが、そうであれば、いくつかの文章をまとめて1章とするとかしてバランスを取るのが、書籍刊行の礼儀ではないか。「東大教授」の肩書きがあれば、こんなものでも出版社は飛びつくのかという思いを禁じ得ない。
長尾龍一研究をしているわけではないので、同人がいつ「回心」を迎えたかは定かでないが、第Ⅱ部第4章(上記8)では極東軍事裁判について、「旧植民地宗主国による復讐という性格、裁判所の構成そのものが植民地支配に対する批判も反省も含んでいないどころか、むしろそれを擁護する性格」(250)という一面では真実も言いながら、「占領初期は日本人が「慈父マッカーサー」のもとで心理的に文字通り幼児化していた時期」(251)として、「日本は対米依存のもたらした戦後の「繁栄」のツケを払うべき時期を迎えつつ、世界的・人類的次元における展望も理念も持たない」(257)としている。
同第5章(上記9)では、「日本の庶民にとっては、日本国憲法の正統性は、制定過程や基本哲学ではなく、その下で平和で安楽に暮らせること」(276)としている。
そして、これが本音かなと思う「あとがき」には、「マッカーサーによる日本占領は、「理念の支配」」(279)だとし、「日本国憲法は、共産圏の側から冷戦を戦う勢力によって喰いものにされてきた」(280)と記されている。
見るとおり、一番ページを割いているのは「上杉慎吉伝」である。これまた「あとがき」によると、同論文執筆のきっかけは古書店で偶然に関連書籍を見つけたからなのだが、思わず心底では上杉(の生き方)に心酔しているのではないかと疑える本である。
(2021年11月学習会報告/ぐずら)