原爆忌とイスラエルの不招待をめぐって

上坂類

広島・長崎それぞれの原爆忌の式典にイスラエル代表を招くかどうかが、この夏話題になった。

式典にいつごろから海外の代表が公式に呼ばれるようになったのか、今回調べることはできなかったが、たとえば今年で言うと、広島では109カ国と欧州連合(EU)、長崎では100カ国・地域とEUの代表が参列している。

問題となっているのはイスラエルだけではなく、ロシアとその同盟国であるベラルーシの招待との関係だ。広島市も長崎市も、ロシアによるウクライナ侵攻が起こった2022年以来、式典に両国を招待していない。ところが、昨年10月以降のガザ地区での新たな事態の発生を受けて、イスラエルに関しては広島市が招待、長崎が不招待と対応が分かれたために、話が大きくなってきた。

広島と長崎のどちらの対応が「筋を通した」ものなのか、それぞれの立場によって評価が変わってくるのは言うまでもない。「ロシアは侵略国だが、イスラエルはパレスチナの『テロリスト』に対する自衛権を行使しているだけ」という立場からすれば、広島の対応が「筋を通した」ものとなり、長崎の対応では「イスラエルを悪者扱いしている」ということになる。反対に、「ロシアは侵略国だし、イスラエルの行為は虐殺・民族浄化に他ならない」という立場からすると、広島の対応は「イスラエルの行為を正当化するもの」として批判の対象になるし、長崎に対しては「よくやった」という評価になる。

◆なぜ長崎市は理由を説明しない?

「ロシアの戦争もイスラエルの虐殺も許せない」という社会運動界隈の見方からすると、長崎市を好意的に評価したくなるのも、いちおう理解できる。ただ私自身は、戦争に関する見方はこれと同じでも、長崎市長の態度を称賛するのはまだ早いのでないか、と思っている。

というのも、鈴木史朗・長崎市長がイスラエル不招待について納得のいく理由を示しているとは思えないからだ。市長がこれまでに言ってきたことは、平和祈念式典は平穏かつ厳粛なものでなければならないが、イスラエルを招待すれば「不測の事態」を招く可能性がある、②自分の判断は「政治的な理由によるものではない」、この2つだ。

「不測の事態」などと言っているが、実際には、イスラエルの虐殺行為に対する抗議活動などが想定されているのだから、むしろ「予測の事態」とすら言ってよい。ロシア・ベラルーシを招待しない判断についても同じ理由だ。その意味で筋は通っている。

しかし、抗議活動がありそうだからとの理由で特定の国を招待しないという判断はおかしいのではないか。これでは、民主的な権利である抗議活動自体の価値がおとしめられている。8月6日の平和記念式典開催にあたって、平和記念公園への入場規制を強行した広島市の態度と変わらないのではないか。

「政治判断ではない」と長崎市長が繰り返していることも、よく理解できない。市長は、「不測の事態」を本当に唯一の理由と考えているのだろうか? 他方で鈴木市長が6月7日にイスラエルのコーヘン駐日大使に送った書簡では、「武力衝突によって多くの人々の犠牲が見られることに、被爆地の市民は心を痛めている」として、即時停戦を求めたという。ということは、市長自身、イスラエルのこれまでの行為に対して何らかの価値判断、政治判断を心の中では持っているということなのではないか。

しかし、鈴木市長は「政治判断ではない」との建前を頑なに崩さない。8月9日の平和祈念式典で市長が読み上げる「長崎平和宣言」の起草プロセスでは、イスラエルを強く批判するよう求める意見が一部の起草委員からあがったが、結局のところ、最終的に採用されたのは、「ロシアのウクライナ侵攻に終わりが見えず、中東での武力紛争の拡大が懸念される中、これまで守られてきた重要な規範が失われるかもしれない。私たちはそんな危機的な事態に直面しているのです」という毒にも薬にもならないような文言だった。

結果として、市長の真意をめぐる憶測ばかりが飛び交う結果となっている。

◆式典の政治利用?

どうやら市長は、平和祈念式典は「政治的な場であってはならない」という考えを持っているようだ。

そして、その考えはかなり多くの人々に共有されている。被爆者やその遺族の中にも「8月6日・9日だけは静かな一日であってほしい」、ありていに言えば、「抗議活動なんかでギャーギャー騒がれるのはゴメンだ」という感覚は根強い。

こういう人たちからすると、8月9日を平穏な一日にすべくイスラエルを招待しなかった長崎市長の判断は評価されることになる。

他方で、イスラエル不招致に抗議して、長崎の平和祈念式典への大使級の参加をボイコットした米英仏など6カ国やEUに対して、「式典を政治利用するな」という批判がパレスチナ寄りの人々の間から出ている。

これらの立場はいずれも「式典は政治的な問題を議論する場ではない」という発想をベースとしているが、これは誤っていると私は思う。

広島の式典の正式名称は「広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式」、長崎は「長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典」というが、この名称からわかることは、両式典は「慰霊」と「平和祈念」という2つの要素を持っている、ということだ。
※ちなみに、広島の式典は慣例的に「平和記念式典」、長崎は「平和祈念式典」と呼ばれているが、誤植ではない。

そしてこの2つの要素は、そもそもの性格からして非政治的なものではありえない。

「慰霊」という行為が高度の政治性を備えていることは、歴史学や社会運動がこれまでに指摘してきたことであり、あえて言うまでもないかもしれないが、一般常識の方では依然として「慰霊とは個人的・非政治的なもの」という感覚だろう。

他方で、「平和祈念」の方は、抽象的な平和について語っているのではなく、核兵器の廃絶を世界に訴えるという機能を持っている。そして、「核兵器を維持すべきかどうか」ということが高度に政治的な問題であるかぎり、言い換えれば、核兵器の(不)必要性について世界のコンセンサスがまだできあがっていないかぎり、核兵器廃絶を世に訴える「平和祈念」は政治的行為以外の何ものでもない。

「党派」的行為ならいざ知らず、「政治」的行為に対してなぜ世間一般がそんなに否定的なのかはよくわからないが、長崎市長も、市長の判断を支持する多くの人々も、「式典は政治的イベントではない」という勘違いをしているようだ。

◆呼ぶ、呼ばない、が問題ではない

つまり、まず大事なのは、両都市の原爆忌の式典は政治的な行為そのものであると正面から認めることではないか。

そして長崎市長は、イスラエル不招致という政治判断をなぜ採ったのかを、今からでも遅くないから堂々と説明すべきだ。「イスラエルのやっていることは民族浄化・虐殺に他ならないからイスラエルをボイコットする」とはっきり言ってやればいいのだ。

ただし、今回の一連の論争の中で、「イスラエルを呼ぶ・呼ばない」に議論が収斂してしまっているように見える点は残念だ。

私自身は「呼ぶ・呼ばない」はそれほど大事なことではないと思っている。もちろん、広島市の松井一實市長のように、ロシアは呼ばないがイスラエルは呼ぶという二重基準で対応するのは言語道断だ。その意味では、両国への対応を揃えた長崎市長の方が評価できることは言うまでもない。

ただここで言いたいことは、両国に対する対応が一貫してさえいれば、呼ぶ・呼ばないは問題ではない、ということだ。もし招待するなら、その上で相手の大使を個別の会談に呼びつけて、「あなたたちの行為はただの虐殺であり、許しがたい」と文句を言ってやればいいし、招待しないなら招待しないで、招待できない理由を公にはっきり説明すればいいだけのことではないか【注】。

そのためには、パレスチナの地で現在起こっている(そしてこの80年近く起こってきた)ことに対する明確な状況判断をあらかじめ持っていることが必要とされる。たしかに、市長自身がふだんからこういうことを考えているわけではなく、まともなブレーンもいないような一地方自治体としては、これはしんどいことかもしれない。

しかし、平和祈念(記念)式典という世界に開かれた場を持つ以上、それは避けられないことだ。まして長崎市は「国際文化都市」であることを謳っている。イスラエル・パレスチナ関係に対する明確な情勢認識を持てないとすれば、看板倒れもいいところだ。

広島市長も長崎市長も、「平和の発信」を市の方針として謳うならば、それぞれの式典を明確に「政治的な場」として位置づけ、現在進行形の戦争をめぐる公論を自ら巻き起こすぐらいの気概を持ってもらいたい。

【注】
ただし、イスラエルに対するBDS(ボイコット、投資引揚げ、制裁)運動からすれば、イスラエルとの関係を断ち切ることでイスラエルの行動変容を促すという立場だから、「イスラエル代表を招待した上で文句を言う」路線はありえない、ということになるのかもしれない。

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