憲法論議の犯罪化? 王制に対する抗議活動、反逆、公共秩序

要約・翻訳:編集委

Alex Benn
UK Constitutional Law Association HP 2023/5/25

https://ukconstitutionallaw.org/2023/05/25/alex-benn-criminalising-constitutional-debate-anti-monarchy-protests-treason-and-public-order/

*Alex Bennはオックスフォード・ユニバーシティ・カレッジの講師であり、レッドライオン・チェンバーズの法廷弁護士。

編集部注:日本語の文献では「英国に憲法はない」とされているが、英語では、憲法も、英国の「憲法に相当するもの」もconstitutionであらわされているので、本稿では便宜的に「憲法」と訳出した。

2022年までの英国では、王制廃止を求めることは、反逆の一形態ではあったかもしれないが、一般的には犯罪とみなされるものではなかった。法令集によれば、複数の反逆罪法(the Treason Acts)は依然として有効ではあったものの、特殊な手段であり、限られた範囲の犯罪を対象としていた。例えば、1848年の反逆罪法第3条は、王室の威厳、名誉、名称から国王を退けることを企図、想像、考案、意図することを犯罪としていたが、実際には、こうした法律が使われることはほとんどなかった。君主制に対する激しい批判でさえ、そのような告発や訴追には至らなかった。君主制の廃止を求めることは、厳密には「反逆罪」であることに変わりはなかったが、実際にはそのような法律はないに等しかった。スコット卿は、1848年に制定された反逆罪法(the Treason Felony Act 1848)の合法性と、1998年に制定された人権法(the Human Rights Act 1998)による人権の保護とは両立するのか、という問題を取り上げ、次のように述べている。

裁判所の貴重な時間は現実の問題に費やすべきである。既に述べたとおり、被申立人が訴追を恐れる必要はないと思われる。繰り返そう。君主制と共和制の問題について定期的に討論していない学校はないだろう――1883年以来、この法律に基づく訴追は行われていない。1998年に人権法が制定・施行され、平和的な政治変革の提唱が事実上容認されるようになったからだ。
R v Attorney General, ex parte Rusbridger [2003] UKHL 38 [45].

ところが2022年後半から、その「容認」の立場は微妙に変わり始めているようだ。刑法がひそかに、王制への反対を監視する上で、より大きな役割を果たし始めたのだ。本稿ではこのことを明らかにするために、エリザベス2世の死後に起きた反王制抗議活動に関する事件を考察する。憲法論議のなかで刑法の役割は見過ごされることがあるが、最近、王制の文脈で刑法が使われるようになり、このことは憲法の議論、公正な取り締まり、言論の自由に重大な危険をもたらすと考えられる。私たちは、あからさまな禁止から、多様な表現をひそかに抑圧しようとする、より巧妙な権力への移行を目撃しているのかもしれない。

伝統的なイメージ
私たちが君主制について考えるとき一般に思い浮かべるのは、法律の2つの側面である。ひとつは憲法上の枠組みである。「王室」という実体、君主の意のままに仕える大臣たちという歴史的な考え方(実際には大きく異なるとしても)、議会の有益な監督者としての君主と党派政治のいざこざから距離を置いた象徴的存在としての君主、民主主義における君主制度の儀礼的役割、などである。ふたつめの側面は、もっと歴史的な反逆罪法で、それは特に君主とその家族を保護しようとするものである。前者よりも古く、よりドラマチックなこの側面は、「反逆罪」という概念が中心で、チューダー朝のイングランドや、現代の国王よりもはるかに大きな権力を行使していた王たちを思い起こさせる。反逆罪法は、君主の安全を確保するために特別に立案された、刑法の特殊な手段である。しかし、あまりに特殊で重大であるためか、ほとんど使用されていない。ウィンザー城でクロスボウを振り回したジャスワント・シン・チャイルが2023年に有罪判決を受ける前、反逆罪で有罪判決を受けた最後の人物は1981年のマーカス・サージャントだった。どちらの事件も、反逆罪にありがちなように、かなりの量の報道を生み出した。こうした罪は決して軽くはないのだ。

国王の身に直接の危害が及ぶ場合以外では、刑法と王制の関係において、反王制主義者の役割は周辺的なものであった。政治的には、反王制主義者は滑稽な存在、あるいは風変わりな存在として扱われるのが常であった。トム・ネアンの言葉を借りれば、伝統的な見方は「王室を気にする者はただの変人だ」というものであった。2023年5月10日の首相質問でリシ・スナク首相は、労働党党首がかつて王制廃止を議論したことがあるとして、党首のキア・スターマーを嘲笑した。王制の是非を議論するなんて信じられないと言わんばかりに。特に刑法に目を向けると、学説の枠組みを一見しただけで、君主制に関する憲法上の議論とはほとんど関係がないことがわかる。その代わりに、他の政治的な戦い、特に強硬な環境運動家をめぐる戦いに焦点が当てられている。

ある意味で、「公序良俗」の使用は最近の現象ではない。何十年もの間、1986年の公共秩序法(the Public Order Act 1986)は、この分野において多くの起訴オプションを検察局に提供してきた。例えば、第4条は暴力の恐怖や挑発を引き起こすことを禁止し、第5条は嫌がらせ、警戒、苦痛を引き起こすことを禁止している。両条項とも「秩序を乱す行為」に言及しており、これは事実認定法廷(通常、一般判事で構成される法廷)に委ねられている。一方、最近では、2022年の警察・犯罪・量刑・裁判所法が、公共の場でのデモや集会に関する条件を追加し、それらの条件に従わないことに関する犯罪を改正した。

続いて2023年の公共秩序法では、「ロックオン」や「ロックオンのための装備」など、広く知られた抗議戦術に合わせて、新たな犯罪の数々が導入された。こうした新しいやり方は実際に問題を引き起こしている。たとえば、1984年の警察・刑事証拠法のコードCを考え、警察官は現場での質問を控える。なぜなら、突っ込んだ質問は通常警察署でおこなわれる注意深い取り調べまで待たなければならないことを警官たちは知っているからである。したがって、警官が南京錠を持っているデモ参加者を逮捕するのに必要な合理的な疑いを持ったとしても、警官は容疑者から詳しい「合理的な弁解」を聴く時間をとろうとはしない。何時間も勾留して事情聴取をしなければならないからだ。ただし2022年と2023年の公共秩序法を支持する人々の焦点は、「エクスティンクション・リベリオン」や「ジャスト・ストップ・オイル」といった環境運動団体に絞られているようにみえた。反王制主義者であれば誰でもこの禁止令に引っかかる可能性があったが、政府の関心は別の種類の抗議活動に向けられているようだった。

変化する図式? 刑法と反王制主義
最近の立法を、単に同じことの繰り返しだと片付けたくなるかもしれない。「秩序を乱す」行為を大雑把に禁止するもので、ある時代において政治的脅威とみなされるものであれば何でも対象とすることができ、君主制の問題とは特に関連性がないものだと。例えば、2023年の公共秩序法は「公序良俗」というラベルを残し、一定の数の犯罪を設けている。しかし、この法律の政治的・憲法的背景は重要である。少なくともいくつかの文脈では、政治家たちは一貫して、抗議者たちを「言論の自由」や「集会の自由」の問題とは一線を画すものとして特徴づけようとしてきた。その代わりに、抗議者(おそらくまさに、最も基本的な問題を提起している人々)は過激派、国家インフラの破壊者、したがって犯罪者とみなすのだ。

このような図式の中で反王制主義者が目立つようになったのは、法的枠組みの変化によるものというよりむしろ、以下の2つの文化的な動きを反映してのことであろう。第一は、ジェフリー・エプスタインの騒動、メーガン・マークルをめぐる論争、エリザベス2世の死と後継者の戴冠などをめぐって、この4年間に王室に向けられた厳しい眼差しである。第二は、王制に対する支持が特に若い人々の間で低下しているという調査結果である。このような背景から王制への反対論が活性化し、抗議行動をも伴うようになり、これまでにも試されてきた刑法という手段が適用されるに至ったのである。例えば、1986年の公的秩序法が手っ取り早い手段である。法改正が原因というよりも、反王制主義者が公共の場での活動を増やし、公式行事での混乱を招く危険性があるため、刑法が使われる機会が増えているのであろう。

とはいえ、反王制主義を憲法論議の一環として考える場合、独特の問題が生じる。2023年の公的秩序法は、より巧妙な戦略を示唆している可能性がある。2023年5月2日に勅許が下されたこの法律は、戴冠式の期間に出動するための新たな権限を警察に付与できるタイミングで施行された。起草者たちが2022年初頭に(法案の主な起草者である当時の内務大臣プリティ・パテルがよく取り上げていた環境運動団体などではなく)反王制主義者を念頭に置いていたとは考えにくいが、立法過程の最後の数カ月で焦点が変わったのかもしれない。2022年後半には、エジンバラでのエリザベス2世の葬列で罵声が浴びせられ、卵が投げつけられた。戴冠式のわずか数日前、警視庁は戴冠式への妨害行為には容赦しないという不吉な宣言をツイートした。そのため戴冠式当日までに反王制主義者たちは、抗議行動を抑えつけようとする風潮に押し込められてしまったようだった。

戴冠式中に逮捕された50人以上のうち、少なくとも6人の反王制活動家が見出しを飾ったが、その中にはリパブリック(英国の反王制団体)の最高責任者グラハム・スミスも含まれていた。繰り返しになるが、これは注目に値しないニュースに思えるかもしれない。反王制主義者が逮捕されたとしても、それは刑法の行き過ぎによるのではなく、法律が近年ますます他の種類の抗議者に適用しているのと同じ手段を展開しているに過ぎない。しかし、そこには違いがある。抗議行動に対する規制は今や、英国で最も身近で根本的な憲法問題のひとつである「君主制の是非」にまで影響を及ぼすようになったのだ。政治家たちは、反王制主義者たちをばかばかしい、風変わりだと切り捨てる代わりに、タカ派的な取り締まりと強制を可能にする刑法をもって臨むようになったのだ。

憲法論争の取り締まりと広範な危険性
コメンテーターたちはこの変化に気づき始めている。『フィナンシャル・タイムズ』紙は最近、君主制に対する考え方が変化する中で、英国の反王制主義者のプロフィールが変容していることを紹介した。反王制活動家と環境運動活動家の間にどれほどの重なりがあるのかは定かではないが、警察は両者をますます似たように扱い始めている。しかし、本稿の主題からすれば、反王制主義者に対する取り締まりの強化こそが、事実上、身近な憲法論争における一方の側だけを犯罪化することにつながるのだ。大げさに聞こえるかもしれないが、活動家が公の場で反王制の感情を表明した場合、警察は彼らを黙らせるために、広範で定義の曖昧な法律を根拠に対応するということがあり得るのだ。

その意味で、法的枠組みは変わったのだ。ルートンの街で卵を投げる若者は過激派でもなければ、深刻な混乱を引き起こす人物でもない。リパブリックの代表も、中道的なキャンペーンで知られるごく普通の組織であり、公共の安全や国家安全保障を脅かす存在ではない。しかし、卵を投げる若者とグラハム・スミスを刑法に触れる存在とすることで、重要な憲法論議の自由が危険にさらされる。

ここに、このテーマが、より広範な憲法上の原則、すなわち民主的参加、言論の自由、集会の自由といった事柄とどのように相互作用しているかを見ることができる。この文脈における政府のアプローチと、その他の文脈における政府のアプローチには深い乖離があるように見える。例えば、教育、学問、差別問題の場合には、政府はすぐに「言論の自由」を要求し、議論に対する権威主義的な浸食を防ごうとする。しかし、我々の憲法上の最も明確な特徴のひとつ(王制)についての意見の対立が高まると、政府は取り締まりや犯罪化に訴えるようだ。抗議行動が最も身近な言論活動の一形態であるならば、これは特に懸念すべきことである。なぜなら、抗議行動は安価で開放的で、メディアのプラットフォームや一流の仕事に就いている人でなくてもできる言論活動だからである。

このように考えると、2023年公共秩序法(the Public Order Act 2023)は、よく知られている反逆罪よりも危険である。というのも、その支配の手法には、より劇的な法令にはない陰湿さがあるからだ。その手法のひとつは、「公序良俗」という穏健な記号である。有罪判決を受けた者の記録に痕跡を残すには十分厳しいが、反逆罪のように人々の激しい怒りを買うような印象はない。その結果、刑法の強制は依然として機能しているにもかかわらず、厳密で効果的な国民の監視なしに行われるのである。「公序良俗」というおなじみの手段を通じて、政府の「反過激主義」レトリックは平凡な日常に溶け込むことができる。デモ参加者が逮捕される程度ではニュースにもならないし、「公序良俗を乱した」という容疑では話題にもならない。たとえそれが反王制主義者を巻き込んだものであったとしても。この意味で、取締りの手法は、旧来の公的秩序法の特徴を持ちながらも、現実には「公の秩序」を乱す危険性のほとんどない反対派の声を管理するために、徐々に進化しているのである。

戴冠式の先を見据えて
短期的な解決策は、ここで述べた2022年と2023年の法律の一部を廃止することかもしれない。これらの法律は定義が不明確で、裁量的な取締りという最悪の行き過ぎを助長している。だが、長期的な解決策はもっと難しいかもしれない。この分野、特に逮捕や勾留の初期段階での刑法の使用を常態化させることで、立法者は最も強制的な手段を憲法論議の場に導入してしまった。一部の政治家が合法的な反対表明を犯罪化しようとすることは、結果として逮捕や不当な訴追を招く危険性があることから憂慮されるだけではない。市民の熱心な参加や討論に対する浸食が知らず知らずのうちに起きてしまうことも憂慮されるのである。

今回の戴冠式によって、最近の刑法の憂慮すべき拡大があらためて注目されるようになるとよいのだが、「公序良俗」や抗議戦術(「ロックオン」など)を標的にした犯罪の使用を観察することで、抽象的な法令規定が現実の抗議活動に適用されたときに、いかに冷ややかな効果をもたらしうるかがわかる。環境運動運動家の過激な戦術を犯罪化することに異議を唱えない人もいるかもしれないが、反王制主義者たちの穏健なプロフィールを見れば、(刑法の拡大に)存在する危険性が明らかになるはずだ。反王制主義者が必ずしも環境運動主義者よりも大きな、あるいは弱い保護に値するというわけではない。例えば、気候変動という存亡の危機が、現在の生活様式を破壊する抗議戦略を正当化すると主張する人もいるだろう。本稿のポイントは、なぜこのように刑法を用いると、憲法上の身近なテーマについての合法的な表現や市民集会が阻害されるのかについて、反王制主義者がより明白な事例を示してくれるのではないかということである。冒頭に引いたスコット卿の言葉を借りれば、刑法は「どの学校でもやっている討論会」のお決まりの話題に踏み込み始めている。犯罪化を適用すべき方面もあるのかもしれないが、憲法論議はその方面ではない。反王制主義者をいまでも反逆者とみなし得ることはたしかである。だが一般的に言って、反王制主義を犯罪化するべきではないのである。

[謝辞]草稿に鋭いコメントをくれたトム・アダムス、ジェイコブ・ロウボトム、セショーナ・ウィートル、ポール・スコットに謝意を表する。

 

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