この9月4日、辺野古基地建設の設計変更を不承認とした沖縄県(玉城デニー県知事)が、沖縄県に対して国(国土交通省)が行った「是正の指示」は違法と、訴えた裁判で、最高裁判所は「国の指示は適法だ」として上告を退ける判決を言い渡した。
一見すると最高裁判所が、沖縄県は辺野古の基地建設を承認するべきだ、との判断を下したように見える。三権分立のタテマエからも、行政府(沖縄県)は、司法の判断に従い設計変更を承認するのは当然であると思いがちである。
国はそのように主張し、大方のマスコミ・世論の多くはそのように受けとめているようだ。
しかしこの判決に対して、行政法研究者から「9.4 辺野古最高裁判決および国土交通大臣の代執行手続着手を憂慮する」との声明が発せられた(9月27日)。そこでは、「本件判決の理由は、地方自治の本旨を理解しない不合理極まりないものであり、本件判決により本件是正の指示が適法であることが確定したとして、国交大臣が代執行手続に着手したこと、および、上記の勧告、さらには今後発出すると予想される指示に従って、知事が本件承認申請を承認することは、自治権保障の実効化のために制度設計されている地方自治法の関与制度の趣旨に沿わない、あるいは、関与制度の形骸化を助長するものである」そして「本件判決によって知事が承認するよう義務付けられたものと解する向きも一部に見られるが、そのような理解は、本件判決がたんに本件是正の指示の取消請求を棄却したものにすぎず、承認そのものを義務付ける法的効果を有しない」と指摘している。この声明には、10月6日現在で100名以上の研究者(行政法の研究者の4分の1)が名を連ねている。
今回の裁判に限らず、辺野古への米軍基地建設に向けては、国(自民党・公明党連立政権)は、なりふりかまわないゴリ押しを続けている。今回の裁判は、地方自治法の悪質な濫用(本来は私人が行政権力から被る不利益を救済するためのものを、防衛省(沖縄防衛局)が、私人になりすまして同じ行政機関である国土交通省に救済を求めるもの)である。法律制定の意図に反した「脱法」的行為である。
国によるこうした恣意的な法律の運用や解釈変更による権力行使は、決して珍しいものではない。憲法9条(「戦争放棄」「軍備不保持」)下での今日の軍拡のありさまでもそれは明らかである。
また、米軍の駐留を違憲とした伊達判決を、安保改正に間に合うように高裁抜きの跳躍上告で最高裁に導き、統治行為論によって司法審査権の範囲外とすることで「合憲」としたのは、米国の意を直接に受けた、時の最高裁判所長官・田中耕太郎である。
今回も間違っているのは最高裁であり国である。10月5日、沖縄県知事は承認を保留し、国は代執行に向けての手続きを始めた。沖縄県知事はそして沖縄の人々は、毅然としてNO!(不承認)を突きつけたのだ。
戦後の民主主義は、日米安保体制と象徴天皇制という新たな「国体」のもとでのみもたらされたものである。そしてそれは、沖縄を構造的差別の下に置くことで維持されてきた。明仁を中心とした天皇・皇族が折に触れて口にする「沖縄への思い」は、捨て石として利用した過去と米軍基地を押し付け続ける現在の沖縄に対する「慰撫」(いいわけであり懐柔である)でしかない。
司法と行政の権力が一体となった沖縄に対する攻撃(辺野古新基地建設強行)に抗する、玉城デニー県知事を含む沖縄の人々の闘いは、戦後の「国体」の軛を断ち切った「民主主義」を求める闘いでもある。(九尾猫)