反靖国~その過去・現在・未来~(12)

土方美雄

靖国神社の「過去」~戦後、その公的復権への動き~ その2

『検証国家儀礼』(作品社)の第章「靖国問題の〈非宗教化〉と〈宗教化〉」の冒頭で、戸村政博は次のように、書いている。
「靖国神社問題の発端は、敗戦直後の1947年、日本遺族厚生連盟の結成にさかのぼる。1952年、日本遺族厚生連盟は第4回全国戦没者大会の決議で、靖国神社の慰霊行事の国費支弁を要望し、続いて56年の第8回全国戦没者遺族会で『靖国神社及び護国神社は国又は公共団体で護持すること』を決議した。これが明確に『国家護持』を決議の中に謳った最初であった。」「このような動きのもとで、1956年、自民党の『靖国神社法草案要綱』がまとめられ、社会党は『靖国平和堂(仮称)に関する法律草案要綱』を作成した。これより先、日本遺族厚生連盟は日本遺族会に発展的に解消し、56年、日本遺族会内に『靖国神社国家護持に関する小委員会』が設けられた。」
1947年に発布された日本国憲法は、その20条に、信教の自由と政教分離が、89条には、宗教団体への公金支出の禁止が、明記された。しかしながら、1950年6月、朝鮮戦争が起きると、8月には警察予備隊(のちの自衛隊)が設立され、翌51年9月には、サンフランシスコ対日講和条約とセットで、日米安全保障条約が、調印された。いわゆる「逆コース」の方向が鮮明になってくる中で、靖国神社の名誉回復を求める声が、公然と、あげられるようになっていったのである。
1951年9月、文部省・引揚援護庁は、「戦没者の葬祭についての次官通牒」を出した。1946年の通牒では、全面的に禁止されていた、慰霊祭への自治体首長等の参列、弔辞、香華奉呈を認める、というものであった。
これを受けて、翌月、靖国神社は、戦後初めての秋季例大祭を挙行し、吉田茂首相以下の閣僚や、衆参両院議長等が揃って、靖国神社に参拝した。各地の護国神社でも、時期を同じくして、例祭等への自治体関係者の出席が行われるようになった。
1952年に入ると、政府主催で、「全国戦没者追悼式」が、新宿御苑において、開催され、天皇・皇后が揃って、参列した。また、天皇・皇后の靖国神社への、戦後初の参拝も行われた。
こうした一連の動きの中で、前述の、日本遺族厚生連盟による「国費支弁」の要望が、出されたのである。
1953年には、3月に、皇太子の靖国参拝が行われ、10月には、秋季例大祭への勅使参向が復活するなど、靖国神社の公的復活への地ならしが、文字通り、急ピッチに進んでいった。
この年の12月、政府は「千鳥ヶ淵戦没者墓苑」の建設を、閣議決定した。この墓苑を、憲法の政教分離の原則にのっとり、欧米式の「無名戦士の墓」にしようという構想も、一方で、あったようであるが、靖国神社や、日本遺族会等、その公的復活を目指す勢力は、こぞって反対し、「日本における無名戦士の墓にあたるものは、あくまで、靖国神社。これと別個に、無名戦士の墓をつくることは、英霊に対する国民の崇敬心を混乱させることになる」等と、激しく、反発した。政府は、この意見を受け入れて、「靖国神社は、全戦没者の霊を祀るものであるのに対し、墓苑は特殊事情の遺骨を納める施設」であると、両者の区別を、明確化した。
赤澤史朗は、その著書『靖国神社』(岩波現代文庫)の中で、千鳥ヶ淵戦没者墓苑に関し、
「その建設後の政府の位置づけも一定しなかった。この千鳥ヶ淵の立地決定後、厚生大臣はこれは『あくまでも、引き取り手のないいわば無縁仏の遺骨』を収納したもので、『国民全体の崇敬の的である靖国神社とは対立するものとは考えない』と衆議院で答弁している。これは靖国神社こそ、『慰霊』の中心施設だと表明したものであろう。(中略)墓苑は、その政府の側の位置づけの曖昧さのために、1959年3月の創建時の後には、当時は国による定期的な拝礼式もおこなわれなかった。1965年からは毎年厚生省主催の拝礼式はおこなわれるようになったものの、政府によって積極的に利用される機会の少ない、いわば放置された国立施設となり、建設後の訪問参拝者もまばらなものとなってしまった。」
等と、書いている。
しかしながら、靖国神社への自衛隊の集団参拝が、政教分離の観点から、問題化したことから、自衛隊では千鳥ヶ淵墓苑に、集団参拝するようになった。そうした意味で、千鳥ヶ淵戦没者墓苑は、靖国神社の、まぎれもない補完物でもあるのである。
また、千鳥ヶ淵戦没者墓苑は、当初から、皇室との結びつきも強く、遺骨は「昭和天皇御下賜の金銅製茶壷型の納骨壷」に収められており、昭和天皇の「くにのため いのちささげし ひとびとの ことをおもへば むねせまりくる」という「御製」の碑も、苑内には、建てられている。徹頭徹尾、天皇制の施設であることも、同時に、忘れてはならないだろう。
とりあえず、区切りがいいので、今回は、ここまで。

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