彦坂諦『天皇のはなしをしましょう 「あたりまえ」だとおもっていることは、ほんとうにあたりまえなのかしら?』

天野恵一

彦坂諦の本書『天皇のはなしをしましょう』を手にして、彼の戦後憲法と九条平和主義の関係を論じた『九条の根っこ--なぜと問うことからはじめよう』(れんが書房新社、2006年)を思い出した。

彦坂諦著『天皇のはなしをしましょう 「あたりまえ」だとおもっていることは、ほんとうにあたりまえなのかしら?』(戦争と性編集室、2023年)

彦坂は、そこの「まえがき」で以下のように論じていた。

「わたしがやろうとしたのは、……日本国憲法第九条の根っこになにがあったのか、そしていまなにがあるのかを、もう一度考えようとすることでした。言いかえれば、これまでわたしたちがずっと『あたりまえ』だと思ってきたことについて『ほんとうにそうなのか?』と問いなおし、根底的に考えぬくこによって、そのことがなぜ『あたりまえである』のかを再確認する、そういったいとなみをここでわたしはやろうとしていたのです」。

憲法九条(絶対平和主義)原理は大切にすべきもの、しかし自明の「あたりまえ」に放置していてはいけない。これを支配者が破壊(改憲)しようとしている状況の中で、あらためて根本的に考えぬくことによって、その大切さを思想的にキチンと再確認する必要こそが、そこでは力説されていたのである。

『天皇のはなしをしましょう』の方は、天皇が存在していることはみな「あたりまえ」のこと、自明の事柄だと考えているが、その存在は「あたりまえ」と本当にいえるのか、その点を徹底的に考えなおしてみるために、本書は書かれたと著者はまず語りだしている。

戦後憲法の第一章(天皇条項)と九条(平和主義)への著者の基本的スタンスは真逆なのである。著者はまず、自明とされる人々の天皇への尊敬という「神話」にメスを入れる。

戦争でも、戦後の「国策」でつくられた原発とその事故でも、本当は最大の責任者である国〈くに〉の責任は問われないかたちで、何故時間は流れるのか。国の元首(あるいは象徴)である天皇らが被災地を訪問して、被災者に温かい声をかけると、人々は責任を問うことを忘れ、ひたすら感謝感激する、この「逆転現象」(国の責任解除)をつくりだす国家の政治装置として、天皇制ほど便利なものはない。こういった事実にこそ、著者は注目する。

決して尊敬に値しないものに最大の「尊敬」のまなざしを向けるように、私たちは、常に自分たちの感性と論理を操作され続けているのである。その結果、この「逆転現象」が日常化しているのだ。

戦後の象徴天皇制の歴史的批判がテーマの『天皇のはなしをしましょう』は、それが、日本の歴史的伝統などではなく、アメリカの占領政策の産物にすぎないという事実を、クローズアップして論じている。メイド・イン・USAの「伝統」であること、占領コストを安く上げるために、イギリス君主制などをモデルにアメリカがつくりだした制度であるという事実が、キチンと示されているのだ。

『九条の根っこ』同様、私は強い共感の下、いっきに読み進んだ。

ただ一点、彦坂が、アキヒトが「ビデオ・メッセージ」で本心を語り「生前退位」を要求したことに「共感」すると語り、「天皇制条項」はすべて「憲法違反」だと強弁しているくだりには、大きな疑問符をつけざるをえなかった。

世襲の象徴天皇制は、戦後憲法自体が根拠づけてしまっている「アメリカじかけ」の制度なのである。だから、それを、同じく憲法が原理とする平和主義や人権・デモクラシーと関連づけて、整合性のあるように解釈するか、という点をめぐって長い論議が続けられてきた。私は「平和・人権・民主」原理と敵対するこの象徴天皇原理を、最大限無力化する方向で解釈することこそが、憲法論の土俵で論議する際には必要と考えている(憲法論の土俵にのらないという方法はもちろんあるが)。彦坂も、一応戦後憲法の土俵にのって論じているのだから、この主張はいささか乱暴にすぎるように思えた。

こうした疑問は疑問として。とにかく、私たちの「あたりまえ」を内側から突き崩すために広く一読をお勧めしたい、象徴天皇制論である。

 

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