天皇のオリンピック開会宣言はなぜ問題なのか

天皇のオリンピック開会宣言はなぜ問題なのか

桜井大子(女性と天皇制研究会)

2021年7月23日、大きな反対の声が上がるなか、2020東京オリンピック開催は強行され、その開会宣言を天皇が行なった。開会宣言についてIOCは「開催国の国家元首によっておこなわれるものとする」と規定している。「元首」とは「国家の首長、国際法上、外国に対して国を代表する者、君主国では君主、共和国では大統領」(『岩波国語辞典第4版』)と一般的に認識されているが、では、天皇は日本国の元首なのか? 君主なのか?

憲法では天皇は「日本国」と「日本国民統合の象徴」であると規定しているだけで、君主規定も元首規定もない。だから自民党は改憲案にわざわざ天皇の元首規定を盛り込んでいるのだ。であるならば、なぜ何の議論もなく天皇は元首として開会宣言をできたのか。過去の長野、札幌、東京で行われた冬季も含めたオリンピックの開会宣言すべてを天皇が担った。そのことの違憲性を指摘する声はごく一部から上がるのみで、今回も当たり前のように天皇は元首として国際舞台に立った。誰が天皇を元首と決めたのか。「元首規定」をしたがる日本政府があるだけである。せめて議論くらいはなされなくてはならなかったはずだ。

私は天皇を「元首」と認めないし、元首化に反対だし、天皇制はやめるべきだと主張し続けている。理由は多々あるが、以下簡単に述べてみる。

まず第一に、なんの議論もなく誰が決めたかもわからないまま、天皇が元首であると位置づけられていること自体に大きな問題がある。経緯が不明のまま国の代表があらかじめ存在する社会とは、自分たちの代表を自ら選べないということと同意であり、それは支配層と住民という関係が前提の、主権在民原則が著しく蹂躙される社会に通じる。世界史的にみれば、ともかくも主権は人々によって闘い取られてきている。この社会はそれをむしろ忌避し、逆に支配層との関係に安住する人々で溢れているようだ。いかにも天皇制的だと思う。生まれながらに国の代表となる天皇の存在は、そのような傾向に人々を向かわせる機能を持っているのだ。

この国は憲法三原則を提唱している。主権在民原則・基本的人権の尊重・平和主義。この原則に沿って法律も憲法も作られ運用されることとなっている。しかし実態はどうなのか。

前述した通り、天皇元首を自明とするというだけで、主権在民の原則はすでに崩れている。基本的人権の尊重についてもそうだ。ここには生存権、平等主義、思想・良心の自由や表現の自由など、人が生きるに必要な基本的な権利が含まれ、そのことごとくが天皇制によって踏み躙られている。

たとえば、世襲によって継承される特権的な天皇の地位は、それだけで平等原則に反している。「国民の総意に基づく」とあるが、多くの人は意見を求められたこともない。たとえばその地位を金銭に換算すると、天皇は国家公務員で最高額を受け取る首相や最高裁判事などの年収をはるかに上回る年収を受け取り、親王・内親王は生まれたその時から「品位保持の資に充てる」として305万円が支給され、全ての皇族は成人すると640万〜915万円、宮家をもつと3050万円が支給される。「門地によって差別されない」という憲法は嘘っぱちとしか言いようがない。そして世襲制や家父長主義、男子主義を基本とする家制度によって、女性は常に産む性として位置づけられてきた。家制度を否定した戦後も天皇家だけはそれを維持しそれを伝統としている。秋篠宮家の眞子「結婚騒動」で「婚姻の不自由」も露呈したばかりだ。その婚姻制度自体も天皇制的不自由な縛りがあり受け入れ難いものであるが、その範囲の自由すらないということだ。この天皇家の伝統をありがたく受け入れさせようとする社会に基本的人権があるはずもない。また天皇制への異議申し立てを許容できない社会にあって、思想・良心の自由や表現の自由とは無縁の社会だ。

平和主義についてはどうか。近代以降、日本の支配者たちはアイヌの人々が住む土地と琉球王国を武力で併合した。そこから続く侵略戦争、台湾・朝鮮半島の植民地支配とアジアの国々に対する軍事的占領支配。この殺しと略奪を繰り返したその政策の最高責任者であった天皇は、その責任を曖昧にしたまま戦後は象徴として特権的な地位にあり続け、現天皇もその延長にある。戦後は米国の下で戦争に加担し、今では立派な戦争国家の象徴だ。決して平和主義者などではないのだ。

民主主義を標榜する国は多い。しかし、主権在民原則・基本的人権・平和主義を尊重する国はどれくらいあるのだろう。この三原則を無視するならば、民主主義をどんなに叫ぼうと碌でもない社会にしかならない。そして天皇制はこの三原則とは真っ向から敵対する。少なくとも近代以降ずっと大いばりで踏みにじってきた。だから天皇制をなくしていきたいし、元首化なんてとんでもないのだ。これは私の考えに過ぎないが、少なくとも元首でもない天皇が元首として国際舞台に立つことなど、認めてはならないと思う。

*初出:『f visions』no.4 2021.12, p.30-31(アジア女性資料センター発行)

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