池内文平
高橋寿臣さんの「遺稿集」--活動家の高橋さんらしい、伝えたいことがはっきりとしている簡潔な文章がずらりと並んでいる。ほとんどが運動(活動)の報告なので、ちょっと勢いをつけたいところもあるが、そんな時でもあえて首を回してスタート地点を見る。立ち止まってというよりも、動いてる生身で考えるという感じだ。
高橋さんのことは『反天ジャーナル』の読者なら(ほぼ)知っていると思うけど、この本(遺稿集)にも収められた、高橋さんの最後の文章に添えられた紹介によれば…「1949年和歌山県で生まれる。1967年以降学生運動に参加。1974〜2014年、東京都非常勤講師組合で活動、1981年から靖国問題研究会参加(88年休会)。1984年、反天連結成に加わる。天皇制、沖縄、安保が終生の課題」となる(学生運動のところは党派活動家、終生の課題には三里塚を加えた方がいいかもしれない)。…そして2019年4月1日にプールのサウナで倒れて亡くなった。
ぼくが高橋さんと出会ったのは、間違いなく1984年の反天連の結成の頃に違いないけど、まったく記憶にない。その時期は山谷にヤクザが右翼組織として登場していて、ぼくらはそれに掛かりきりになってたからだと思う。ただ翌年の85年8月15日には中曽根首相の靖国公式参拝があって、靖問研は境内で果敢な抗議行動を行った。ぼくらは秋の芝居でその抗議行動をパロディ(引用)して群衆シーンを作った(ぼくが靴下に隠したビラをテント中に撒いた)くらいだから、高橋さんたちの活動には、それとなく意識していたんだと思う。
とりあえず、この本の構成を紹介しておこう。表紙のデザインはバウハウス風の(?)モダーンなもので、高橋さんに似合って(??)すっきりした印象。Ⅰ部・Ⅱ部に分類された年代は、高橋さんの元の文章が載った、雑誌、パンフレット、書籍、ビラなどが出された年となっている。
「第Ⅰ部」は、1986年〜1989年。それ以前の靖問研の結成(81年)を含めて、「昭和」最末期の激動編。高橋さん自身が「まったくあきれかえるくらい「課題」にはこと欠かず」と記しているように、84年の全斗煥・天皇会談、85年の靖国神社への首相公式参拝、86年の天皇在位60年奉祝式典(と、その運動)、87年の天皇の沖縄訪問(ヒロヒトの入院で中止/皇太子が名代で訪沖)、そして88年9月19日の天皇の下血、翌89年1月17日の死去(Xデー)。ここまでが「昭和」。
そして「第Ⅱ部」は、1991年〜2019年、「平成」へと移る。「第Ⅲ部」は「10・8羽田闘争と非常勤講師組合活動」となっている(1967年10月8日の羽田闘争は高橋さんの全共闘「デビュー戦」だ)。末尾は「追悼」として、第1期・反天連の仲間であった末田亜子の追悼文、それに反天皇運動を共に担った4名による「追悼座談会」が収められている。
ぼくが高橋さんの文章でとくに共感を持つのは、「勝つ」ということの意味、つまり「どのような(人間の)運動で、どのように勝つのか」という問題意識に常にかえっていく点だ。これはいうまでもなく、いつも「危機アジり」をし「決戦」を叫んで「勝利至上主義」を呼号する党派活動の苦い経験からきたものだ。それは要するに「ひたすら、勝つための組織化・効率化--そのための人間の動員」ということになり、それだと靖国の思想と同じように、国家による国民の統一化と同じレベルの思想になってしまうということだろう。もちろんこれは党派に限った問題でもない。
それともう一つ。高橋さんが(高校の)非常勤講師だったことだ。その組合活動のなかで高橋さんは、現実的・具体的な課題を持ち持続すること、組織の意思決定は必ず集団で行うこと、「自力・自闘」で闘うことなどの、大衆運動における大切なことをまざまざと体験したという。その上で、非常勤講師制度は「使い捨て」の存在であり「教育現場の被差別労働者である」として、日本社会が差別構造社会であることを、身近な現実の問題として再認識したと書いている。これは、文字通り「人の生死の価値序列化」であって、上からの「国民」の統一化に加え、下からの支配秩序の固定化と言えると思う。
まあ、このような考えも含めて、高橋さんは「Xデー」に向かう時間と、Xデーそのもの、その後の30年間を無党派として大衆闘争の現場に立ち続けた。この本の編集を担当した天野恵一は「…反天皇制運動の思想と行動の〈経験史〉を歴史的に発掘し、現在の状況の中に露出させる作業こそが、私に可能で、私たちにしかできない重要な作業」と「発刊にあたって」で述べている。この「遺稿集」も間違いなく、高橋さんも含めた協力作業だと言えるだろう。現に「第Ⅰ部」は1989年に書かれた文章が半分以上を占めている。つまり、「昭和」のXデー闘争を丸ごと振り返り、その経験を「次」の現場に差し出そうという(編集)意図がはっきりと示されている。
ぼくがもし、この本を下敷きにして芝居を書くなら、絡まりつく、時代の支配秩序を遠くに見ながら「逃げる主体」を設定するのだけども、そういうキャラクターは、表に出て、敵と面と歯向かう役柄がいないと成り立たない。もちろん表に出る役は高橋さんにやってもらうつもりだが、これもたぶん群衆劇だ。高橋さんは、一人よりも、沢山の人に囲まれていたほうが「絵」になるし、本人もそのほうが楽しいと思うから。オヤジギャグ、いっぱい書くからさ。
*高橋さん以外は敬称略