〈2022.11.3 wamセミナー天皇制を考える(8)講演録〉

撃ちてし止まむ!
——私の思想や論理の手前にいるその天皇をこそ

池田浩士

1.はじめに:世界に天皇は何人いるか?

今日(11月3日)は「特異日」と言うんですね。11月3日「明治節」、明治天皇が「お生まれになった日」、これが本当かどうかは知りませんが、まあ神武天皇よりは確実だと思いますけど、その日は今の日本の気象庁、昔は「気象台」と言いましたが、その気象台が「日本全国特異日」と呼んだ。この日は「晴れ」の確率が圧倒的に多いんです。いまはみなさんのその信仰がちょっと薄れたので、天気が悪い日もあるようですが、それでも11月3日というのは他の日に比べると圧倒的に晴天が多い日なんです。やはり日本は天皇なしでは慶事もできないという、そういう日なんです。今日はそういういい天気の日にわざわざこういうコンクリートで固めた建物の中に閉じこもっていただいて、大変申し訳ございませんが、何時間かお付き合いいただきたいと思います。よろしくお願いします。

■原敬は「平民」?
いま司会のかたからもお話しいただいた前回2年前、コロナが始まって最初のピークだった頃の2020年の11月3日に話をさせていただいた時に、こういう話をしたんです。

明治維新以降、大日本帝国の総理大臣になった、たかが首相ですけど、その首相になった人間は、「大東亜戦争」に負けた直後に敗戦処理内閣として東久邇宮という天皇一族が首相になりましたが、あれが30人目なんです。伊藤博文が一代目。何回も第何次党内閣というのがありましたが、伊藤博文を一人と勘定しますと東久邇宮稔彦が30人目の首相です。その時点でまだ日本には身分差別がありました。まず「華族」。これは旧大名と旧公家で、いわゆる明治の壬申戸籍という新しい戸籍ができた時に「華族」となったんです。ヨーロッパでいえば貴族ですね。だいたい300から400いたんですけども、その次が家老以下です。大名は「華族」ですから、家老以下の武士、これは福沢諭吉などもそうでしたが、一番下の「殿様のお目見え」が叶わないような下士と呼ばれた足軽にいたるまでの下級武士、これが「士族」。それからそれ以外のいわゆる「士・農・工・商・えた・ひにん」と言われたなかの「農・工・商・えた・ひにん」は「平民」というふうになったわけです。

さて、さっき申しました30人の首相のうち何人が「平民」だったかというと、一人なんですね。前回申し上げたとおり、これに間違いありません。みなさん「え〜、教科書で習ったのと違うじゃない」と言われるかもしれません。この頃の教科書でどう習うのか知りませんが、暗殺された平民宰相・原敬というのがいますね。原敬は「平民」だというのを売りものにしてたんですが、そうじゃないんです。東京極東軍事裁判でA級戦犯として訴追されて絞首刑になった一人、広田弘毅。これが「平民」なんです。では原敬は何なんだ。前回の講座でわたしは、たぶん縁戚関係か何かで「平民」になったのだろうという話を曖昧にしたのですが、そのあと勉強しました結果で、壬申戸籍を読み直すとものすごくはっきりしている。「華族」および「士族」で分家した者、つまり一つの家は一人しか継がないでしょ、たいがい日本の場合はそうなんです。で、分家をした者は「華族」であろうが、「士族」であろうが、すべて「平民」になる。だから、いやな言い方ですが、女性の場合は嫁いでいけば「華族」や「士族」に嫁げば「華族」「士族」になるけれども、「華族」であろうが「士族」であろうが「平民」と結婚すれば「平民」となる。

それで原敬はなんと岩手県南部藩の家老の家系なんです。「御家老」です。その次男坊だから、分家をしたので自動的に「平民」になる。「原敬は自ら平民を選んだんだ」という伝説があるんですが、「平民」を選ぶかどうかの自由はなく、次男坊で分家をしたので「平民」になったのです。福沢諭吉は「平民」を選んだんですよ。その点ではわたしはえらいと思いますけども、あの時代ですからね。

ということで原敬を入れると「平民」で首相だったのは二人になるわけです。だけど原敬はいわゆる「系譜」からすれば「士族」のしかも南部藩というとてつもなく大きな藩の家老の息子であったということなので、あまり「平民宰相」を売り物にしてもらいたくないという思いを話しました。ということで、前回未解決だった問題を思い出しましたので最初にお話をさせていただきました。

有楽町の日劇正面に掲げられた 「撃ちてし止まむ」(写真は『反天ジャーナル』編集部による)

■「撃ちてし止まむ」
「撃ちてし止まむ(うちてしやまん)」というのは、ご存知ない若い方もいらっしゃると思いますけども、1943年のある日、有楽町駅の前に昔日劇がありましたよね、その向こう側に『朝日新聞』の本社があったわけですが、その日劇の正面にとてつもない大きな看板が掲げられて、そこに「撃ちてし止まむ」というスローガンが掲げられた。日本がアメリカ・イギリスその他との戦争、「大東亜戦争」を始めて3年目にそういう看板が掲げられたことで、一挙に、いわゆる「臣民」たちに共有されるスローガンになったわけです。「撃ちてし止まむ」というのは、簡単にいうと「撃ち果たしてしまって初めて止める」という意味です。「撃ち果たしてしまうまではやめないぞ」という決意の表明です。「撃ちてし」の「し」は強調の「助詞」だそうですが、「撃ちて」「しまって」そして「止めよう」、「撃ち果たしてしまって初めて止めよう」という意味になるのですね。逆に言った方が日本語としてはわかりやすくて、「うち果たして、撃ち尽くしてしまうまでは止めないぞ」という決意の表明です。なんでこんなものを今日のテーマとして選んだのかというのを、これからお話をしていきたいと思います。

わたしはこのスローガンが一番、天皇と天皇制の中に生きているわたしたちとの関係、あるいはそういう関係をすっぽり包摂している天皇制度、これの本質といいますか、真髄といいますか、こころといいますか、そういうものを一番よく表しているスローガンだというふうに思います。それを単に戦時中の戦意高揚のスローガンとして過去のものであるというふうに思うことが、どうも間違っているのではないかとわたしはこのところ思っているので、それを今日はみなさんとご一緒に考えることができればというのでこういうテーマを選びました。お手元のレジュメに沿ってお話をしていきたいと思います。

2.日本の「政体」——その起源と正体

■「政体」が書かれていない唯一の国・日本
みなさんご存知かどうか知りませんけども、『データブック・オブ・ザ・ワールド』(2022年、二宮書店)という資料集があります。世界中の現在のデータ、たとえば輸出入の総額とか、工業生産高、鉄やアルミニウムをどれだけ生産しているかとかいうのを、世界各国についてのデータを毎年一回だしています。しかもものすごく安くて、現在は700円プラス悪税になっていますが、ついこの前まで600円プラス悪税だったという、世界中のそういうデータブックがあります。そこに世界各国の現状の紹介が載っています。それぞれの国の公式データをもとにしたわたしが知る限りではとても信頼ができる資料集なんですが、それによりますと、今年度版ですから去年の秋時点で世界には197カ国があります。東チモールなどもぜんぶデータが載っていますが、その197カ国のそれぞれについて、政体(政治体制)という項目があります。その国がどういう政体であるか、まず政体という種別でみていくと、共和制が151カ国、君主制および首長制(アラブ首長王国連邦など議会のない君主制)が6カ国、立憲君主制が36カ国、ただしこの立憲君主制の国の36カ国の内の15は連合王国、つまりイングランドおよび北アイルランド連合王国、この前エリザベス女王が亡くなっていま男の国王になりましたが、あの大英王国のもと植民地だったところが独立と引き換えに連合王国以外の英連邦諸国と呼ばれている国です。だからすべて国のトップは今度の国王ですね。ニュージーランドとかオーストラリア、そういうところを含めて全部、イギリスの国王が国のトップにある。だから実質的に立憲君主制というのは36のうち21にすぎない。だから、あとはみんないわばその支配下にある属国だということです。

そしてなんと、この『データブック・オブ・ザ・ワールド』には上記以外として、あのローマ法王がいるところのバチカン市国があります。これにはローマ教皇庁が政府に相当するというコメントが書かれています。それからパレスチナ自治政府。みなさんがよくご存知のところです。イスラエルから目の敵にされているところですが、ここにはなんの説明も書かれていません。それからエリトリア臨時政府。これは昔エチオピアの一部でイタリアの植民地だったところが独立して、ここには一党制の臨時政府というコメントが書かれています。まだ臨時政府なので、どの政体と確定していないわけです。もう一つは日本国。日本国には何のコメントも書かれていません。つまり、世界の197カ国のうちで、ただ一つ政体が書かれていない国なんです。

では政体とは何なんだというと、これは、大昔からわたしがよく愛用している平凡社の『大辞典』(1936年)というのがありまして1930年代の中頃に全25巻で出た字引きですが、それに「政体」という項目がありまして、その時点での政体の定義は「国家の主権の活動する形式方法、立憲政体と専制政体とに分つ」と書いてあった。さらに古代ギリシャの場合は、アリストテレスに出てくるわけですが、君主制という政体がある。オイディプス王などの王が政治の主人公である。もう一つ貴族制。ギリシャ時代は貴族と奴隷ですが、貴族の集団的な、寡頭政治とも言われますが、少数者が政治の主体になっている貴族制です。それからもう一つは民主政体というのがあります。ギリシャ時代にもそういうのが構成されている。ただし、コメントとして、ギリシャ時代には「衆愚政治」という言い方で悪く言われたとあるんですね。ギリシャ時代はそうだった。時代によって違うんですね。日本ではどうだったんだろうかというと、政体というのは、後で申しますが、ある一つの重要な概念なんです。そのころはちゃんとはっきりとした日本国の政体というものは明示されていた。ところが今では憲法上も法律上も「政体」という言葉は日本では存在しないどころか、世界的にも日本はどういう政体なのかというのは認識できない唯一の国家ということをまず念頭におきながら話をしたいと思います。

日本は天皇制国家だ、ということさえ言えないわけですね。さて、なんで日本について政体というものが少なくともこの『データブック・オブ・ザ・ワールド』には明示できないんだと、みなさんはお考えになるでしょうか。わたしは常識的に立憲君主制だと思うんです。でも、そのように定義できない。憲法があるから立憲制ですよね。だけど立憲君主制ではないでしょう。天皇がもしも政治的な役割を果たしていれば、これは立憲君主制とはっきり言えるわけです。でも、イギリス国王とちがって君主じゃない。では、天皇とは国際的にはどのように認知されているのか。エリザベス女王の国葬の時、日本で二人だけ、岸田が行きたかったのに行けなくて、二人だけ行きました。だから、たぶん国際的には彼と彼の連れ合いが日本を代表する男女だというふうに認識されているでしょうね。でもそれは国民とどう関わるかというのは、わたしたちはもっと考えなければいけないんではないか、というのが政体を規定ができないというこの『データブック』を読んだ時にわたしが思ったことでした。それはあとでみなさんと一緒に考える一つの項目になるかと思います。

要するに天皇の位置が不明であるということだけではなくて、不可避の関係である「国民」と言われているわたしたちが、日本国という主権国だと思われている国家のなかでどういう位置にいるかということも、規定できていないわけですね。だから憲法では「主権の存する国民の総意に基づく」とありますが、さて、その「主権」というのはいったい何だろうかというのが、今日一緒に考えなければならない一つのテーマだと思うんです。

■「新聞紙法」に明示された「政体」と戦後市民権を得た「天皇制」という言葉
『データブック』でもあたりまえに使われている「政治体制」を表す「政体」という言葉が、日本で法的に、わたしが調べた限りで明示されたことが一回だけあります。「新聞紙法」という法律です。これは「治安維持法」とか「出版法」とかいうものと並ぶ悪法の最たるものです。「新聞紙法」と「出版法」はどう違うかというと、雑誌や新聞のような定期刊行物は「新聞紙法」で取り締まれました。定期刊行物ではない一回限りの図書出版の図書は「出版法」で取り締まれられた。だから新聞だけでなく雑誌もすべて、定期刊行物は「新聞紙法」。この第42条に「皇室ノ尊厳ヲ冒瀆シ政体ヲ改変シ又ハ朝憲ヲ紊乱セムトスルノ事項ヲ新聞紙ニ掲載シタルトキハ発行人、編集人、印刷人ヲ二年以下ノ禁錮及三百円以下ノ罰金ニ処ス」という項目がありました。ここで「政体」という言葉が法的に使われています。つまり皇室の尊厳、これは治安維持法で「皇室の尊厳や国体の変革」というのが禁じられていました。「新聞紙法」では「国体」ではなくて「政体を改変しまたは朝憲を…」とあります。「朝憲」というのは「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」という第一条で始まる「明治憲法」がもっとも骨格になるもので、そういうものに反する記事を載せた場合は、これこれだけの処分をすると規定するものです。ここで「政体」という言葉が当然のように使われているんですが、それは治安維持法で「国体」という言葉で表されているんです。だから「政体」というのは「明治憲法」下ではちゃんと意味があったんです。つまり天皇制ということですよね。天皇制の議会主義ということです。

敗戦によってこの「新聞紙法」は廃止されました。いつ廃止されたか。制定されたのは1909年ですから明治42年です。廃止されたのは1949年の5月24日。日本の敗戦はご存知の通り1945年の夏です。つまり戦後民主主義のただ中でこの「新聞紙法」は4年近くも生きていたわけですよ、ただ適用されなかっただけで。だから権力の側は適用しようと思えばできたんですね。これは驚くべきことですよね。敗戦の年の10月に共産党員たちはみんな釈放されましたね。そういうのは早かったけども法律はこのようにずっと生き続けていた。だから、この条文にあるとおり皇室の尊厳も、国体も朝憲も生き続けていたということです。

しかしその一方で、大きな変化が起こりました。それはみなさんがよくご存知の「天皇制」という言葉が市民権を得ます。敗戦前天皇制は、天皇制という言葉・名称そのものが市民権を持たなかったどころか、言葉は悪いですが、いわば一部の方言にすぎなかったわけです。1930年代の前半から日本の敗戦に至るまでの10数年間の、共産主義者たちの方言にすぎなかったんです。それも日本の共産主義者たちです。世界各国の共産主義運動のセンターであったコミュニスト・インターナショナル(コミンテルン)という、国際共産党と訳されていた共産党の世界組織でも天皇制という規定をしていなかった。君主制・モナルキーという、そういう定義にすぎなかった。だから世界的にも天皇制というのは認識されていなかったし、ましてや共産党なんてのは近づくだけても怖いというか、その存在があるのを意識するだけでも恐ろしいと思っていた臣民たちからすれば、天皇制という言葉はないに等しかったわけです。それが突如として天皇制という言葉が認知されるようになりました。まさに1945年の秋から日本の歴史の中に登場してくる、わずかたった77年、80年にも満たないそういう歴史しか持っていないんです。

ところが、だからといって天皇制がわたしたちと無縁であったと、ここにおられる方は思っておられない方が多いと思いますけれども、まず最初にこれは画期的なことだということに気がついたのは、裕仁およびその臣下たちだったんでしょうね、おそらく。ご存知のとおり敗戦の翌年、1946年の1月1日に、現在でもなお天皇が年頭のお言葉なるものを発していますが、その敗戦後版の1号である「年頭の詔書」というものを発表しました。この「年頭の詔書」にはとても重要なことが述べられています。

裕仁はまず明治天皇の「五箇条の御誓文」なるもの、「広く会議を興し…」どうのこうのという聖徳太子の焼き直しみたいなことを明治維新の時に明治天皇が言いましたよね、それをそのまま繰り返した後に、とてつもない戦争があっていろいろみんな大変だったということを述べて、「然レドモ朕ハ爾(なんじ)等國民ト共ニ在リ」、大変なことがあったけども朕・裕仁はいつもお前ら国民とともにあるんだぞ、ということを言うんですね。そして「常ニ利害ヲ同ジウシ休戚ヲ分タント欲ス」。休む時と威厳を持って何かをしなくてはならない時、するべき時と休むべき時、忙しい時も暇な時も、それをともに分け合いたいと思っていると。そのあとに「朕ト爾等國民トノ間ノ紐帯ハ終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依リテ結バレ、單ナル神話ト傳説トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ」という有名な言葉が続きます。「紐帯」とは「ひも」「きずな」のことです。だいたい相手のことを先に言うべきで厚かましいですが「朕と爾等は、常に相互の信頼と敬愛との絆によって結ばれているのであって、単なる神話と伝説とによって結ばれているのではない」というふうに裕仁が言った。

これは、わたしはまだ若いころはこの言葉の意味がまだよくわからなかった、というか、なんという重要な言葉であるかということがわからなかったんです。このごろつくづく本当にすごいと思います。もう、言うべきことをピシッと言っているとわたしは思います。だって、問題は、朕と汝ら国民との間の絆の問題でしょ、天皇制というのは。わたしたちがどう思おうと、向こうはその絆が切れたときはおしまいなんですからね。ということをちゃんと意識しているわけです。いま、だから、神武以来の一大危機だったわけです、天皇制が。もしも汝ら臣民が一方的にもうわたしたちはこの神話を信じてきたけれども何も実質的に信頼もしていないし敬愛もしていない、と言ったらおしまいなんです。それを裕仁は先に言ったわけ、ちゃんと。だから、このときが、神武天皇以来、初めて、最初で最後のチャンスだったのに、わたしたちの先輩は、わたしは信頼もしていないし敬愛もしていないということを言わなかったわけです。

そして、しかも、交わっていることの例にしたのがすごいじゃないですか、神話と伝説です。だから「具合の悪いことはあっただろう、もちろんお前たちから見たらいろいろね、神風は吹かなかったし、だけどそんなものは神話と伝説なんだと。そうじゃなくて大事なのは相互の敬愛と信頼なんだ」と言ったわけ。で、神話と伝説を、天皇が先に否定したわけ。今まで小学生にも教えていたものを、向こうが先に否定したわけです。今まで嘘を教えていたじゃないかと、なんでわたしたちが言わなかったのか、ということですよね。そういうふうなことで、天皇制は、まったく新しいひとつの天皇制として、蘇生したわけです、ここで。それが、国体の規定もできないような「象徴天皇制」だったわけです。だから、国際的には、どういう政体なのかの認知も不可能なような、そういう中でわたしたちは生きている。つまり、主権者である国民の日本国民の総意に基づくと言ったってその主権者である国民の位置がわからないわけですからね。総意もクソも本当はないということですよね。まあ、そこまで言ってしまうとあまりにも、あの家に生まれてきた人に対してかわいそうかもしれないので、そのことは、また、あとで考えたいと思います。

3.天皇制の言霊(ことだま)、「撃ちてし止まむ!」――象徴天皇制の起源を考えるために

さて、それで、あらためて神話にわたしたち自身が目を向けてみたいというのが、今日の、一つのテーマです。それで、「撃ちてしやまむ」が出てくるわけですが、もうご存知の人はご存じだし、ご存じでない方も、そんなの知ったこっちゃないと思われるのがわたしはまともだと思いますので、初めて聞くとかなんとかいうことは、気にしないで聞いてください。できるだけ嘘を言わないように、つまりわたしの勇み足をしないように、できるだけ事実を、今までの記録事実に即してお話ししたいと思います。

「撃ちてしやまむ」というコトバは、もう、多くの方がご存知の通り、「古事記」と「日本書紀」という日本の官製の、天皇制が、文字通り、天皇制というコトバはなかったけれども天皇が唯一の主権者であった短い時代——これは平安時代の半ばまでのほんとうに短い時代——ですけれども、西暦(キリスト教紀元の)712年、今から1310年前に、太安万侶という人が中心になって、「古事記」が完成されます。また、その8年後の720年に、「日本書紀」が、「古事記」をも資料の一つとして、編まれます。この8年の年月の差はかなり大きくて、「古事記」では書かれていないことが、いろいろ脚色されて、脚色されただけではなく「風土記」などいろいろなものを参考にしながら書き足されていますので、わたしは、日本の建国神話といわれるものを勉強するときには、「日本書紀」の方が示唆に富んでいるという思いがあります。ただ、古典文学の研究者などは、「古事記」の方の正統性を重視するというのが一般的みたいですが。読んでみても、「日本書紀」の方がずっとおもしろいという、個人的な感想を持っています。

今日お話しするのはもちろん「古事記」も参照しながらですが、主として「日本書紀」の記述を踏まえたものだと思ってください。

■神日本磐余彦火火出見尊という鰐(わに)の子がいた
さてここから、いろいろな固有名詞が出てくるわけですけれども、まず、神日本磐余彦火火出見尊(かむやまといわれひこほほでみのみこと)というやつがいるんです。神日本磐余彦火火出見尊、この「火火出見尊」の「火火出見」というのは省略されることが多い。だから、神日本磐余彦尊と言われることが多いのですが、この人はワニの子どもです。

ワニというのは、中国山脈、中国山地をご存じの方はいると思いますが、現在でも中国山脈の奥の山村では、鰐(ワニ)というのを食べているんですね。日本海でとれた鮫、これを冷凍にして山の中に持ち込む。魚の中では、サメというのはいちばん氷漬けにしたときに今のような冷凍技術以前のころから、長持ちするんです。わたしも子どものころから、しばしば臭いのきついサメを食べた記憶があります。そのサメのことをワニと言います。

あの、因幡の白兎で、皮をむかれて赤裸になる、皮を剥いたやつがワニです。つまりワニというのはワニザメともいわれる、サメのことですね。で、この神日本磐余彦尊と言われるのは、サメの子どもです。そんな馬鹿なと思われるかも知れませんが、それはわたしのせいではないので、とにかくそう思ってください。で、その子が生まれるまでの経緯を、ざっと言いますが、それも神話の話ですから、「おはなし」と思って聞いてください。

まず、彦火火出見尊というのが登場します。この彦火火出見尊は、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の子どもです。「瓊瓊杵尊」というのは何かというと、これは天孫降臨、つまり天照大神の子孫の神々のうち、ある一代になったときに、伊弉諾伊邪那美(いざなぎいざなみ)の「国生みの神話」というのがあって、そこで豊葦原瑞穂の国というのが生まれるわけですね。国が生まれるわけですが、その国というのは、天照大神の神勅によって、「わが子孫の王(きみ)たる国なり」と、天照はのたまった。そして、その子孫のひとりの瓊瓊杵尊というのが、宮崎県と鹿児島県の境にある「高天原」に天下ったわけです。天孫降臨として降り立った。だから、これがいわば人間世界に降りた神の第一世代です。

この瓊瓊杵尊の子どもに、彦火火出見尊というのがいたのです。これは二人兄弟の弟だった。兄さんは、火酢芹命(ほのすせりのみこと)で、これは海彦山彦、海幸彦山幸彦という神話で知られている、海幸彦が兄さんです。その弟の山幸彦が、この彦火火出見尊です。ご存じの方もあるかと思いますが、あの、おじいさんは山へ芝刈りに、おばあさんは川に洗濯に、ではありませんが、この兄弟、瓊瓊杵尊の子どもの兄弟はですね、これ、よくできた神話ですね。

お兄さんは海ですなどりをする、漁をする、弟は山で猟をする、それによって生活を切り開いて自分たちの住むところを作っていった。ところが、あるとき、その弟である山幸彦が、お兄さんの釣竿を貸してもらって、自分も漁に行こうとするんですね。ところが、魚に釣り針を取られてしまう。そこで、お兄さんの大事な釣り針を取り戻すために、山幸彦は、海に入って行って、そこで海の王である、大鰐鮫の一家と出会うわけです。そこで、豊玉姫(とよたまひめ)という、この海の神である大鮫の娘と愛し合うようになる。そして、その子どもを豊玉姫は産むわけです。

産むのは、人間の世界つまり陸に上がってきて産むわけですが、「わたしが子どもを産んでいる間、決してわたしの姿を見ないでくれ」と、よくある話で、そして突然に産気づき、鵜の羽、鳥の羽で産屋を作るんですが、それがまだできないうちに陣痛が始まってしまう。だから、鸕鷀草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)というのが産まれるわけです。ところが、それを産んでいるのを、見てしまったわけ、この山幸彦は。「見ないでくれと言ったのに、見たな」と言って、「わたしはもうこんなところにいられないから、海に還ります」と言って豊玉姫は、またサメの姿に変わって海に帰ってしまった。

まだ未完成の産屋で産まれた、彦火火出見尊の子どもは、鸕鷀草葺不合尊という、鸕鷀草(うがや)がまだ葺きあがっていない、完成していないという名前を取ったわけです。つまりこの人は、お父さんが天照の子孫で、お母さんはワニの子どもだったわけです。生みの母がいなくなってしまったので、また、龍宮から妹が駆けつけます。これもサメです。もちろん。これが玉依姫(たまよりびめ)で、豊玉姫に代わって、天照の子孫とサメとの間に生まれた鸕鷀草葺不合尊を母代りになって育てる。

母代りになって育てながら、その、育てた子どもと結婚します。そして、4人の子どもを産むんですが、神日本磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこと)というのが、その第四番目の子どもとして生まれた。だから、上に兄さんが3人いた。これは、天孫降臨の第四世代で、そしてさまざまな意味で神意の象徴として生きることになります。

■「神武東征」と「大和朝廷」樹立
この神日本磐余彦尊というのが、のちに、神武天皇という名前になる人物です。成長した神武は、お兄さん3人と相談して、東の方の中つ国、ちょうど真ん中へん、この豊葦原瑞穂国の真ん中へんにいいところがある、そこへ行ってそこを自分たちのものにしようと相談して、4人で合意して、宮崎県の南の日向の国から船で日向灘を北上していきます。北九州で一度上陸して、北九州のあたりをずっと制覇する。初めのうちはみんな歯向かわないんです。天照大神の子孫がやってきたということで、みんな恭順を誓います。みんな従っていく、どんどんと。ところが、北九州から関門海峡を渡って、広島に入り岡山に入ると、いろいろ歯向かうやつがいる。だから歯向かうやつを次々と征伐しながら、ずっと海沿いに、時には陸をゆき、時には船で行き、ついに難波の国にやってくる。大阪湾までやってきて河内の国に上陸します。

河内の国に上陸するのですが、そこから中つ国である、奈良、ヤマトに入ろうとする。生駒山を越えると奈良県に入るのね、だから、生駒山を越えないと、河内からヤマトに行けないんですが、それを越えようとしたところで、2つの強敵に遭うんですね。一つは、土蜘蛛といわれる一族、これは、有尾人つまり尻尾のある民族として描かれています。それを蹴散らして、まだ平らげてはいないですが蹴散らして進もうとすると、とてつもなく強いやつが、生駒山の上から立ち向かってくるわけね。これが、長髄彦(ながすねひこ)、脛が長いという象徴的な名前を持つ強敵で、こいつと戦ったとたんに、その軍勢が放った矢に、一番上の兄である五瀬命(いつせのみこと)というのが、腕を射抜かれて、その傷から病が重くなって寝たきりになってしまう。

そのときに、神日本磐余彦尊、つまり一番下の弟である神武が何と言ったかというと、「われわれが間違っていた」と。われわれの神である、祖先である天照大神は日の神なのに、長髄彦は河内から見たら東にある奈良県の方から迎え撃ってきたわけですね、従って、神武の方は東に向かって矢を射た。だから、太陽に向かって戦ってしまったので罰が当たったのだと。で、兄さんは討たれてしまった。これからずっと迂回して、西から攻め込まなければならないということを神武は一同に諮って、それで、なんとまた河内の海沿いに戻って、紀伊半島を海沿いに南下して、熊野の方に、今の和歌山県と三重県の境まで行ってまっすぐに北上すると吉野・熊野ですね、だから、熊野からまっすぐに北上すると吉野で、吉野から東に迂回して東側から今の奈良に攻め込んだわけです。

そうすると、迎え撃った敵の長髄彦の方が、太陽に向かう。それに加えて、二つの神のご意向が明らかになる。神は、この熊野から吉野を通って、ヤマトに攻め込む道がわからなかったときに、八咫烏というカラス、これがここに出てくるんですね。これを遣わしてくれる。どこからかカーカーとやってきてこっちだと言ってくる、それについて行って、無事に吉野の山を越えていくんです。そして、いよいよ長髄彦との決戦になった時に、金の鳶が飛んでくるんです。金の鳶が飛んできて、太陽に向かって矢を射ようとした長髄彦の目を眩ませてくれる。神武の弓の先に止まったという金の鳶です。つまり、これは神の導きによって達成したわけですね。

ところが、神の導きは、そこまでははっきりと神話に書かれているのですが、もう一つあるというのが、私は重要だと思うのです。まず、一番上の兄である五瀬命は、長髄彦との第一回目の戦いで矢に射られて、数か月後に死ぬのです。そのときは長子相続であるかどうかは知りません、長男が天皇位を継いだかどうか知りませんが、とにかく長男は死んだわけです。四人兄弟の一番下が神武ですからね。ところが、兄が死んで、それからずっと紀伊半島沿いを南下していったときに、海がものすごく荒れた。海が荒れたときに、二番目の兄さん稲飯命(いなひのみこと)と三番目の兄さん三毛入野命(みけいりののみこと)が人身御供になった。自分たちが神の怒りを鎮めると言って一人は海に入った。もう一人は、常世の国に飛んで行ってしまった。

さて、これは神意でなくてなんでしょうかね。つまりこれで、期せずして、天皇の位は、一番下の神武に落ちたわけです。だから、神武は、文字通り、神の意思で、神話にはそう書かれていないけど、天皇位が転がり込んでくるわけです。これはものすごく大事なことだと思います。つまりね、古代の天皇制が絶えずやっていた身内の戦い、その身内の戦いで自分たちの勢力を削いでいって、結局は武士に政権を取られてしまうわけでしょ。それを、この最初の段階で、はっきりと神の意思で避けることができていた。で、こうして、神武は大和橿原の宮に、いまから2682年前に、わたしは年齢が同じなので絶対に間違えない、わたしは紀元2600年生まれなので、これに自分の年齢を足せば、神武が即位した年齢がわかるので(笑)、2682年前の2月11日に、ついに、神日本磐余彦尊のスメラミコトの神武天皇が即位します。

ついでに言いますと、天皇が生きているうちは神武天皇ではないんですよ、神日本磐余彦尊のスメラミコトであって、神武天皇というのは死んだ後の謚(おくりな)として言われるわけで、昭和天皇もそうでしょ、昭和天皇も、生きているうちは昭和天皇と言ってはいけないんですね、ほんとうは。いまの天皇も令和天皇ではなくて、イヤな言葉ですが、今上天皇と言い、謚としてナントカ天皇となるわけです。160何歳かで死んだ後に、神武天皇という名前になります。

■「来目(くめ)の子等が」——「撃ちてし止まむ!」の現場とその意味
さて、「撃ちてしやまむ」というのは、この長い旅の中で、とりわけ兄さんが3人いなくなって、そのあと、神武天皇のイニシアティブで迂回して北上する、その戦いの中で詠われた歌、で、どういう歌かというのを見てみましょう。最初の歌は、

忍(お)坂(さか)の 大(おほ)室(むろ)屋(や)に 人(ひと)多(さは)に 入(い)り居(を)りとも 人多に 来(き)入り居りとも みつみつし 来目(くめ)の子(こ)等(ら)が 頭(くぶ)椎(つつ)い 石(いし)椎(つつ)い持ち 撃ちてし止まむ
(有尾人の土蜘蛛を討つ)

これは、二回目に「土蜘蛛」と対戦して勝ったときのものなのです。忍坂というのは地名です。大室屋というのは、どうやら、大きな岩の洞窟があったようですね。これは、石造りの家という解釈もあるようですが、そうじゃなくて、たぶん、大きな洞窟に、土蜘蛛たちが、人多く、多数に入っているけれども、「みつみつし来目の子等」が、これがキーワードですね、つまり、みつみつし、というのは、御稜威(みいつ)というのを、自分で受け止めている、御稜威を蒙っているというのです。御稜威というのは、天皇の尊い意思のことを言います。その御稜威を自分の身に蒙っている、浴びている、それが「みつみつし」という形容詞になっているのです。御稜威を一身に浴びている「来目の子」、「来る」という字と、目玉の「目」で「来目」、後に、「久米」と書くのが一般的になっています。「来目の子等が」、文献的によっては「久米」になっているのもありますが、「日本書紀」、「古事記」では「来目」と書いて「くめ」と読ませている。

「来目の子等が、頭椎(くぶつつ)い」、これは解釈にいろいろ分かれがあるようですが、「くぶ」というのは頭のようなこぶになっているという意味で、そのころ青銅、銅の剣を持っていたわけですが、その銅の剣の握りの一番上が、スポッと手が滑って抜けないようになっている。これが「頭椎い」だという説と、そうではくて、こん棒の先に石がしばりつけてある、そういう武器だという説があるようですが、次のところが「石椎(いしつつ)い持ち」、「石椎い」というのは疑いもなく、こん棒の先に石が、ゲバ棒にくぎを打ったのを持った人がいたかどうか知りませんが、そういう武器です。それを持っている「来目の子等が」、「撃ちてし止まむ」、撃ち果たしてしまってはじめて止めるぞという歌ですね。これは相手は、しっぽのある、有尾人だとされている。どういうことで出てきたかわたしは知りません、しっぽのある人間、それは象徴的に人間ではないという、おそらくそういう思いが、この神話に込められているのだと思いますが。

さて2番目は、

みつみつし 来目の子等が 垣本(かきもと)に 粟(あは)生(ふ)には 韮(かみら)一本(ひともと) 其(そ)根(の)が本(もと) 其(そ)ね芽(め)繋(つな)ぎて 撃ちてし止まむ
(長髄彦との決戦にさいして)

です。この「垣本に」は、カッコでくくっといてください。これは明らかに間違いなんです。後でお話しします。

「みつみつし 来目の子等が、(「垣本に」は飛ばしまして)、「粟生(あわふ)には 韮一本(かみらひともと) 其根(その)が本(もと) 其(そ)ね芽(め)繋(つな)ぎて 撃ちてし止まむ」。

「みつみつし 来目の子等が」っていうのは、天皇の身内を一心に担った「来目の子等が」、その子等が耕しているっていう意味です。「粟生」——当時、主食が粟だったんだ、ということが分かりますよね——「粟生には」は、粟の田んぼのことです。粟の畑のことです。「韮」っていうのは、この字の通りニラ、現在はニラと呼ばれている、あの臭い、わたしは大好きですけれども、ニラが「一本(ひともと)」、一本生えてきた、大変だ。つまり雑草の中でもニラっていうのはすごい繁殖力がある、根がものすごく強いんです。刈り取っても刈り取っても出てくる、そのニラが一本生えてきた。「其根が本 其ね芽繋ぎて」、これも解釈がいろいろあるようですが、「其根が本」っていうのは、その根の根元からっていう意味です。「其ね芽繋ぎて」は、その根と芽を繋いで、一緒くたに、つまり上だけ刈り取ってもダメだし、だからその根と芽とを一緒につないで刈り取ってしまう、こそげ取ってしまおう。そうして殲滅してしまうまではやめないぞという歌ですね。これは、長髄彦との最後の決戦のときの歌です。

もう一つ、同じ長髄彦との最後の決戦で歌われる歌があります。

みつみつし 来目の子等が 垣本に 植(う)ゑし山椒(はじかみ) 口(くち)疼(びひ)く 我(われ)は忘(わす)れず 撃ちてし止まむ
(同上)

「みつみつし 来目の子等が 垣本に」のこの「垣本に」が二つ目の歌に紛れ込んでしまったというのが定説になっているようです。そうしないとリズムが崩れるでしょ。上の、2番目の「粟生」の前に「垣本に」っていうのは、間違って入り込んだんだと。古事記ではこれがありません。ですから日本書紀に入り込んでしまった。

わたしはこの歌、割と好きなんですけども、すごく思いのこもった歌ですね。「来目の子等が垣本に」、やっぱり来目の子も自分のところの畑の周りに、生け垣か竹垣か知りませんけれども、垣で区切っているわけね、私有財産がもうあったのか、そこに山椒の木——京都の大原に行くと、山椒の木の生け垣があります。だからちりめん山椒なんかが、名物なんです——、その山椒の木が「口疼(くちびひ)く」、口がヒリヒリする。山椒の実をプチっと噛むと口がヒリヒリする。わたしはこれを聞いたときに、すごく感動したんですが、「口疼く」っていうのは、どういう意味かというと、「口ひひく」なのね。「ひひく」っていうのはヒリヒリするでしょ。「びひく」っていうのはどんな感じか実感はないですよね。なんで「びひく」になるかっていうと、これはものすごく大事な日本語の規則で、「続濁」っていうのがあるんです。

それは天皇制とも関係あると、僕は思うんですけれども、続濁っていうのは、ある言葉に、下にある言葉が続くと、下に続いた言葉の最初が濁音になる。イケ「ダ」なんです、わたしは、残念ながら。例えば太田さんなんかは、オオ「ダ」にならないのに、イケ「ダ」でしょ。クチ「ビ」でしょ、イヌ「ジ」ニでしょ。「イヌシニ」と言わないですよね。クチヒとも言わないですね。イヌジニ、ワタリ「ト」リじゃないね、ワタリ「ド」リですよね。スミ「ダ」「ガ」ワなんて二重に続濁ですよね、スミ「タ」「カ」ワじゃない。

つまり日本語は下位についたやつが上に引きずられて濁るんですよ。これはまったくの冗談ですが、天皇制の下につくと、わたし自身が濁ってしまうんですよ。そういう続濁という現象があります。これはとても重要だと思います、この続濁というのは。だから、口びひく。

「われは忘れず 撃ちてし止まむ」。これは分かりますね。なんで、ぐうっと吉野、熊野を回ってきたかというと、長髄彦に兄さんが殺されたからでしょ。その恨みを絶対忘れないぞって言っているんですね。山椒を噛んだときのヒリヒリするのを、いつまでも忘れないようにって言っている。それと同じ。

■「来目の子等」が歌う未然形の「撃ちてし 止まむ」
さてここからが問題です。いったいこれはだれが歌っているんだということです。

「みつみつし 来目の子等が」というのは日本書紀にあと2つほど出てくるんですけれども、集中的に大和での決戦前の3つに限ってここにもってきました。「来目歌」と一般に言われ「来目の子等が」と歌った歌です。つまり、先ほど誰が主体なんだと言いましたけれども、この歌3つを読んでいただいて、「ええ?」と思った方がもしかしたらおられるかもしれませんけれども、どこにも神日本磐余彦尊は出てこないんですね、まったく。「来目の子等が」の歌なんですね。で、来目歌と言われるわけです。

つまり戦いの主体というのは、完全に「来目の子等」です。そして、「来目の子等」が決意表明しているわけです。それが「来目歌」だということを念頭に置いておく必要があると思います。天皇賛歌でもないわけです。それが決定的に重要なことだと思うんです。天皇が歌われているんではない。天皇を歌ったのでもないし、天皇が歌ったのでもない。「来目の子等」が自分たちのことを歌っているわけです。まったく、自分たちのことを。

そして、実はそれが決定的にわたしは、いまわたしたちが言うところの天皇制を考えるときに、決定的に重要なことだと思います。つまり天皇が自分の御稜威について歌った歌でもないし、天皇の決意表明でもない。「来目の子等」が自分たちを歌った歌です。

このことが天皇制にとって重要だったというのは、天皇制というものを考えるときに、「来目の子等」が主体であるということが重要だというのと同時に、もう一つあります。この歌には出てこなかったけれども、八咫烏が道案内をしてくれたり、金の鳶が飛んできたり、それから何よりもですね、神意、あるいは神慮、神様の思し召しとしか言いようがない事件が起こりました。一番上の五瀬命がいち早く戦死してしまう。二番目の兄さん、三番目の兄さんがあの世へ行ってしまう。それで兄弟のいさかいが全く避けられたわけですね。

後に、奈良時代から平安時代にかけて、繰り返し天皇一家が引き起こすような内輪喧嘩というのが、神の意志によって避けられている。これは神慮とか、神意というしかないんですね。だから「来目の子等」の奮闘、決意という人為的な努力と、それから神の意志とが、神武天皇を天皇の位につかすことができたし、神武天皇の子孫たちもその路線の上で大和朝廷を運営していくことができたということです。

そのことを一つ確認したうえで、もういっぺん来目歌に戻りたいと思います。なんで完了形ではなくて常に未然形——「撃ちてし 止まむ」、撃ち果たした後で止めようという、つまりまだ撃ち果たしていないという——です。これはこの歌だけではなくて、実はわたしたちがいうところの天皇制というものの本質にかかわるスローガンだというふうに、わたしは思います。

常識的に考えても、これは極めて当たり前です。この後、何百年も天皇権力は、東北地方さらには蝦夷地を平定できなかったわけです。だから源義経は、そういう東北に逃げることができたわけですし、ジンギスカン伝説によれば、北海道を経由して大陸まで義経は逃げることができた。つまり天皇制の権力は平安時代の末期に至ってもなお、大和、豊葦原瑞穂の国を全部、征定することができなかった。

恐ろしいことが始まりますね。天照大神はどういう神勅を下したと思われますか。「勅語勅諭集」という天皇の勅語や勅諭を集めたもので、後にまた詳しくお話ししますが、こう言ったんです。

天照大神は、「豊葦原の千五百秋の瑞穂の國は、是れ吾が神の子孫(うみのこ)の王(きみ)たる可(べ)き地(くに)なり」——つまり、豊葦原瑞穂の国というのは、わたしの子どもたちであるところの神の子が、「王(きみ)」である土地だ、というのが、天照大神の神勅とされているんです。

これが、天皇が豊葦原瑞穂の国の王であることの根拠なんです。わたしたちが言うところの天皇制では、天照大神がこういう神勅を下されたから、天皇がこの大和の国の王であるという。

ところが、そのあと、明治維新によってほぼ天皇権力は豊葦原瑞穂の国の王となりました。そうすると、天皇制はそれで神の意志が完結したはずでしょ。豊葦原瑞穂の国の王になり切ったんだから。

ところが、そのあとに、天皇制は何をスローガンとして持ち出してくるかというと、「八紘一宇」、もしくは「八紘為宇」です。「八紘」というのは天の中心からずうっと四方八方に伸びる、そういう線のことを言うんですね。その四方八方に果てしなく伸びる、その線をずうっと、一つの「宇」——屋根によって覆われた建物のことを「宇」と言います。だから、この世界の四方八方を一つの屋根で覆うというスローガンを、天皇制は出してきますね。これはご存じの通り、八紘一宇の塔というものまで作ったんだよね、ものすごいものを。

大和の国だけで満ち足りなくなってなお天皇制は未然形になるわけです。つまり完了しないわけです。当然のことながら、先ほどの歌を思い出すと、「来目の子等」であるわたしたち、ないしはわたしたちの先祖は、また「撃ちてし止まむ」という歌を歌い続けなければならないわけです。

■天皇制は戦後にその本性を現した
こういうふうな、わたしの知っている限りでは、アメリカ帝国主義以外にあまりないような世界制覇の野望というものを、天皇制は持ち続けるわけですよね、ずっと。

さらに、身に覚えがある方もこの中ではおられるかもしれませんが、こういうふうな「正義の戦い」というのは、やっぱりやめるべきだとわたしはずっと思っているんですが、「正義の戦い」を自分はしているんだというふうに思って、大なり小なり戦いをしていると、ろくなことはないですよね、本当に。

つまり自分が正しいことをやっているというふうに自分で自分に言い聞かせると、どんな悪逆非道なことでもできるという体験を、わたしたちは、この半世紀ほどの間にしてきたと思うんです。自分たちの仲間同士でも。

正義の戦いが頓挫したとき、挫折したときに、待ち構えているのは止めどもない転向です。戦前の共産主義者たちが正しい反天皇制の運動をやっていて、結局、天皇制権力によって、自分たちがそれを阻止されたときに、次に転向というのが待っていたわけです。天皇制も、まったく同じだとわたしは思います。

神の意志で行っている戦いが挫折したときに、止めどもない転向が、天皇制に待っていました。それは何か。「人間宣言」です。つまり戦後の象徴天皇制というのは、天皇制の「撃ちてし止まむ」という、国民たちによって歌われた「撃ちてし止まむ」という決意が絶たれたとき、そのときの転向の印であるとわたしは思います。幸いなことに、そのとき裕仁が「朕ト爾等国民トノ間ノ紐帯ハ」と言って、「紐帯」が国民たちによって維持されましたよね。だから「来目の子等」は健在なわけです。

じゃあ、いったい神意、神の意志である八咫烏と金の鳶はどうしたか。ちゃんとアメリカ、マッカーサーが来てくれたじゃないですか。だから、普通だったら、それを拒否して玉砕するというのが、少なくとも僕はあり得たと思うんですけれども、天皇制はちゃんとそれで生き延びたわけです。

まだ未然形です。だから完了しないわけね。なんで完了しないか。それはアメリカが、当時のソ連と、あるいは中共との関係で日本を極東の不沈空母にしたかったから、天皇制を生き延びさせました。裕仁は、沖縄はどうなってもいいから、とにかくわたしを救ってくれ、と言ってマッカーサーに頼みました。

そういうふうなことを誰が許したか。「来目の子等」が許したわけです。「過てる神話にあらず」と言われて、ああそうか、そうか。ああ、「相互ノ信頼ト敬愛(の念)」だ、という。それで結局、「撃ちてし止まむ」と戦争中まで自分たちが歌わなければならなかったところへ自分たちを追いやった天皇制の存続というものを、わたしたちが了承してしまったということが一番、問題だと思います。

わたしが言いたいのは、せめて新聞紙法がまだ生き延びている4年の間に、国民がなぜ違う意思を表示できなかったのか。もちろん血のメーデーとか、さまざまなことが戦後の社会主義、共産主義、あるいは労働組合の運動の中で試みられてきたけれども、それは相対的に少数であったわけです。それを共通の認識にしようとする試みがなされなかった。つまり、天皇制というものを甘く見ていたんでしょうね、反体制といわれていた人びとが。もしかしたら、「天皇制は終わった」と思ったのかも知れない。しかし、むしろ本性を現したのは、戦後の天皇制として蘇ったその天皇制だと思います。

わたしたちはまさにそのまっただ中に生きている。その時わたしたちにはものすごくたくさん迷惑になるものがあるわけです。そのことを最後にお話ししたいと思います。

4.天皇はどこの「国」の、何の「象徴」なのか?

■日本はなお占領下に置かれている
まず、日本の政体がなんであるのか規定できないようなそういう国家にわたしたちは生きていると言うことをお話ししましたが、いったいそもそも天皇と「来目の子等」、両方の国というのはどこにあるのか、ということです。

話しは飛ぶようですが、2022年9月30日にロシアの大統領プーチンが演説をしました。これは、ウクライナの南部の4つの州を併合したときの演説です。このプーチンの演説の中に、日本という国名が二度にわたって出て来ます。ひとつは、アメリカはロシアが侵略したと言うけれども、日本に原子爆弾を二回も落としているではないか、とい脈絡の中です。その後に、アメリカはそれだけではなく現在もなお、世界に不法な支配を続行しているという脈絡の中で、ドイツも日本もなお占領下に置かれている、と明言をしています。

図A

図C

 

わたしはまったくその通りだと思います。ドイツと日本はまだ占領下に置かれていて、独立していません。そのことは、わたしは実は、ドイツについて勉強しているときにドイツの現代史家に教えられました。まだ若い50代になったかならないフレーナーという人ですが、なんといっているかというと、ドイツの国章

(図A:鷲の羽の数が7枚)は、帝政ドイツだけではなくてヴァイマール期まで使われていました。
ところが今ドイツのパスポートは羽の数が6枚だと指摘しています(図B)。もうひとつあります。ドイツ連邦共和国の現在の国章がこれです(図C)。これはドイツに行くといろいろな役所や公共機関の前に彫刻とか旗に記されています。これは羽の数が片方に5枚ずつです。

そこでみなさんのお手元にある図版を見て下さい。他人事ではない。日本のパスポートです。(図D)が現在のものです。(図F)は敗戦までのものです。みなさんは、日本の国章であるかないかは別として、菊のマークがいろんなところにあるのはご存じですよね。

図D

 

図E

図F

いろいろ調べてみると1920年に「パスポートの表紙には、国章を刷ること」といった国際協定ができたそうです。その時に日本政府は、皇室の紋章(図E)である、十六葉八重表菊を国章としてパスポートの表に印刷したのです(図F)。よく見て下さい。菊は2重になっています。

これが「八重」です。でも現在の右の文様は一重です。別に皇室の紋章を持って歩きたくはないのでこれは結構なことだとわたしは思いますが。つまり、主権国家として認知されていた時代の国章を使うことが、ドイツも日本も出来ないのです。だからプーチンはデマゴギーを言ったのではないのです。占領下は終わっていない。

この前、安倍の国葬なるものが行われたとき、バイデンは来なかったがハリス副大統領が来た。さて、どの空港に降り立ちましたか。横田空港です。なぜ、日本に来るのにアメリカの基地に降り立つのですか。アメリカ軍基地の飛行場上空の制空権は日本にはないでしょう。ドイツでもまったく同じです。ドイツでもアメリカ軍、NATO軍に関してはドイツに制空権はないのです。制空権のない独立国はありますか。そういうことなのです。

 

■「来目の子等」は天皇対する「信頼と敬愛」を止めにしよう
わたしたちはそういう状態で国と言われるものの中で生きていて、しかも日本国と言われる政体の正体のわからない国の、「天皇は日本国の象徴であり、日本国民統合の象徴であって、その地位は主権の存する国民の総意に基づく」といわれても、いったい、どこに主権があって、どこに総意があるのか。そういう国に生きているわけです。

わたしは別に天皇は人間だとは思っていないので、憎しみもないのですけれども、天皇を愛していると思っている人、あるいは、天皇は立派な人だ、民主主義者だ、安倍のようなクソみたいな奴よりよっぽど民主主義者だ、と思っている人、中には山本太郎のように、直訴までする人がいるでしょう。石牟礼美智子もそうですが、そういうふうな思いを天皇に対して持っている人は、いったいその天皇というのはどういう地位にあると思っているのでしょうかね。つまり、わたしたちは主権国家の国民としては、客観的に冷静に見る人から見れば、認知されていない。そんななかで、自分たちの象徴、文字通りの象徴ですよね、象徴として天皇を敬愛すると言うことを、「来目の子等」は、もう止めようではなないか、それをわたしはいろんなところで言いふらしたいと、思っています。

つまり、「来目の子等」は、ようやく2680年、そろそろ1700年を経て、やっと自分たち自身の歌を歌わなければいけないのではないか、と思います。

だからそのためにどうしたらいいか、というアイディアはまったくないのですけれども、これからみなさんと話し合いをするための橋渡しとして、思っていることを述べさせていただきたいと思います。

天皇というものはそういうわけで、正体が掴めないのですが、今お話ししたようなことをわたしたちが考えていく上で、少し注意しておいた方がいいことをお話しします。

さっき、「天照大神のお言葉」を紹介しましたが、これは、「勅語勅諭集」というもので、いつ発行されたかというと、そのまま読みます、昭和14年7月15日に初版が出ています。1939年です。3年後の昭和17年、1942年の8月5日に第78版が出ています。この78版の刷り部数が1万部です。版を重ねる毎に刷る部数が増えていくことは通常はないので、それまでも1万部以上が刷られていたことになります。したがって、少なくとも3年後の78版までに、78万部出ているのです。なぜそんなに出たかというと、小学生、中学生および入営した兵士たちが、皆、胸のポケットに入れて、「拳々服膺」と言いますが、いつも読むために携帯していた。また、「勅語勅諭集 附戦陣訓」というもの、これは、入営した兵士に配られたものです、もあります。

そのなかから、冒頭の部分に収録されている、日本が明治維新以後、外国と戦争してきた、たった4回の戦争の開始にあたっての「宣戦ノ詔勅」です。たった4回です。支那事変もシベリア出兵も義和団の乱に対する干渉戦争に際しても一切なかった。日本は明治維新以降、たった4回しか戦争をしていない。天皇が開戦の詔勅(詔書)を発表しない限り、戦争と認定されないからです。支那事変もシベリア出兵も満州事変も天皇は宣戦布告をしていないから、戦争ではない。「事変」なんです。

さて、とてつもないことがまた起こります。その4回の戦争の最初は、清国に対する宣戦の詔勅で「天佑ヲ保全シ萬世一系ノ皇祚ヲ踐メル大日本帝國皇帝ハ忠實勇武ナル汝有衆ニ示ス」と書かれています(図1)。これは決まり文句です。祖先の神である天照大神を初めとした天による恩恵に浴している、万世一系である、「忠實勇武ナル汝有衆」は「「来目の子等」」です。これに「示す」、つまり戦争するから「やれ!」と「示す」わけです。

露国に対する宣戦の詔勅では、「天佑ヲ保有シ萬世一系ノ皇祚ヲ踐メル大日本帝國皇帝ハ忠實勇武ナル汝有衆ニ示ス」と同じ文章から始まります(図2)。この二つ、日清戦争と日露戦争の宣戦の詔勅は、明治天皇睦仁によるものです。

3番目の独逸国に対する宣戦の詔書は、これは第1次世界大戦に参戦したときのものです。ここでも「天佑ヲ保有シ萬世一系ノ皇祚ヲ踐メル大日本國皇帝ハ忠實勇武ナル汝有衆ニ示ス」とあります(図3)。

4番目が、米国及び英国に対する宣戦布告の大詔で、ここは「大詔」となっていて、「天佑ヲ保有シ萬世一系ノ皇祚ヲ踐メル大日本帝󠄁國天皇ハ昭ニ忠誠勇武ナル汝有眾ニ示ス」とあります(図4)。

宣戦布告の文章は、外交官が相手国に手渡すわけですが、これらの詔勅は、国民に向けての言葉なのです。終戦の時もそうです。国民向け、つまり、「来目の子等」に向けた、戦争をするぞ、という言葉です。

そして4つ目の「大詔」は、「大日本帝󠄁國天皇」となっています。それまでの3つは「大日本帝國皇帝」です。昭和天皇が、歴史上の天皇124代の中で、ただ一人、自分のことを「天皇」と言ったんです。明治天皇も含めて自分の祖先(お父さんも含めて)のことは天皇と言っているのだけれども、自分で自分のことを天皇と名のってはいない。自分で天皇と名のったのは昭和天皇だけなのです。近代天皇制になったのは明治時代以降だと言われます。その明治天皇や大正天皇ですら、自分のことを天皇とは言っていない。

これは最初にお話しした、日本の政体は、立憲君主制でも共和制でもないということと関連するのですが、「天皇」というのは、ロシア皇帝、ドイツ帝国皇帝、オーストリー皇帝、イギリスの国王と違うでしょう。「天皇」という英語なりドイツ語はないんです。外交的にはエンペラー(emperor)といいますが、エンペラーと天皇は違うわけです。

天皇制というのは、国民、つまり「来目の子等」が、尽くせば尽くすほど、頑張れば頑張るほど、思い上がってきている。それが昭和天皇。明治天皇はもしかしたら、清国に負けるのではないか、露国に負けるのではないかと、思いながら、今は文明化で突っ走るしかないかと思って、外国と戦争した。大正天皇は、今の安保条約と同じような軍事同盟をイギリスと結んでいたから、ドイツにはなんの恨みもないのにドイツに宣戦布告したわけです。そして裕仁は八紘一宇を大東亜共栄圏として実現するために、そしてそうしなければならないところへ、わたしたちの先輩たち、つまり「来目の子等」ががんばって押し上げてしまったというふうにわたしは思います。

もう一つ、図3を見てもらえばわかりますが、「独逸に対する宣戦ノ詔書」は、手書きの一時資料からコピーしたものです。なぜこうしたかというと、「勅語勅諭集」に載っていないからです。ではなぜ重要な宣戦の詔書が、「勅語勅諭集」に載っていないのか。

先ほど言いましたが、「勅語勅諭集」が発行されたのは初版が1939年です。でこの78版は1942年の発行です。その時期に発行された「勅語勅諭集」にこの独逸国に対する宣戦の勅書を載せるわけにはいかなかったのです。ドイツは当時の同盟国ですから。つまりこの「勅語勅諭集」でさえも、歴史を隠蔽、歪曲しているわけです。天皇制というのはそういうふうに自分たちの都合で、自分を皇帝にしてみたり天皇にしてみたり、帝国にしてみたり日本国にしてみたり、そうしたことを勝手にやっているわけです。

「綸言汗の如し」といいます。「綸言」は天皇の言葉、「汗の如し」とは一度出てしまうと引っ込まない、ということです。天皇が一度言ったことは絶対に取り返しがつかないということです。そんな人に任せておいていいのでしょうか。誤りはあるだろうし、たとえ誤りでなくとももっといい道があったときに、軌道修正出来るということではない。歴史さえ粉飾して自分の都合のいいところに国民の目を向けている。「勅語勅諭集」を一生懸命憶えた小学生にとっては、第1次世界大戦がなかったことになる。

そういうふうな体制の中で、わたしが生きている、そういうことを是認するわけにはいかないと思います。

だけどそんなことを言ったって、歴史は常に客観的に進むものだから、一人がどう言おうが、そんな力がないじゃないかというのが、歴史を生きる人間にとって一番大きな難題だと思うのですけれども、それはしかし、その時点で、わたしたちの先輩たちが、そのことに気がつかなかったり、考えなかったことには、後に生きるわたしたちが言わなくてはいけない、その責任はあると思います。

わたしには、今でも手遅れではないから言いたいことがあります。それは、わたしたちはどんな社会に生きたいのか、そしてわたしたちが生きたい社会では、天皇はどうなるのか、ということを絶えず考えていくことが、もう取り返しが付かない歴史を歩んできた、この現時点で生きるわたし自身の為すべきことだと思っています。

例えば大東亜戦争の敗戦に際して、裕仁に、「朕󠄁ト爾等國民トノ間ノ紐帶ハ、終󠄁始相互ノ信賴ト敬愛トニ依リテ結バレ、單ナル神󠄀話ト傳說トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ」(わたしとあなたたち国民との間の絆は、いつもお互いの信頼と敬愛によって結ばれ、単なる神話と伝説とによって生まれたものではない)と言わせることをしてはいけなかった。

何をすべきであったか。天皇の戦争責任をアメリカが訴追しないことを決めようが決めないが、わたしたちが言い続けるべきであった。その時にはもう不敬罪はなかった。不敬罪は最初に廃止された法律で、新聞紙法は生きていても、不敬罪がなくなれば新聞紙法で裁くことができないわけです。その時に、共産党でさえも言わなかった。わたしは絞死刑にする必要は全然ないと思います。昭和天皇を絞死刑にしてもわたしたちはなんの得になるものもない。そうではなくて、退位させてそのまま天皇制を止める、そして、憲法は、第9条がそのまま第1条になる、そういう憲法をまずつくると言うことと、その時に、永世中立国宣言をするということ、9条があっても永世中立国宣言がなければ意味がないのだから。

このことは、わたしは政治学者でも歴史学者でもないので、断言することは資格はありませんけれども、ソ連・中国との力関係で、日本が永世中立国宣言を提起していれば、天皇制と引き換えに9条を1条とする憲法は出来る可能性があったのではないかと思います。これは政治学者の方にぜひ教えていただきたいと思います。日本が永世中立国宣言をしていない限り、アメリカ・NATOとソ連や東側を支持する国々との間で、日本は軍事力の被害を被らないという保障はまったくなかったわけですから。オーストリアとスイスのように、オーストリアは戦後に中立宣言をしたわけです。ナチスのご本家のオーストリアが永世中立国宣言をすることが出来たわけですから、日本がそれをすれば善かったという、「夢物語」を描いています。

そういうことも含めて、御聖断を仰ぐ、唱和する、安倍に対して民主主義を守っている、と思うのは、御聖断を待望している精神ですよね。そういうのを止めるためにも、自分一人ではなくて、隣の人と、あるいは普段はそうしたことを話したことはないけれどもあの人ならば大丈夫かなと思う人と、話し続けると言うことを、わたしも残り少ない人生の中で続けていきたいと思います。

*この講演録は、2022年11月3日に行われた「wamセミナー天皇制を考える(8)」における池田さんの講演を文字に起こし、池田さんに手を入れていただいたものです。池田さんおよびwamのご了解を得て掲載いたします。

カテゴリー: 講演記録, 運動情報 パーマリンク