〈2022.8.15集会講演録〉

「いかなる理由があろうとも武器はとらない」という原則から
  ——戦争・死者・天皇制:ウクライナ戦争下で考える

小倉利丸(批評家)

まず、資料の説明を最初にします。レジュメと参考資料として陸軍省「満州事変の概要」(1931)抜粋トルストイの「日露戦争論」抜粋、1903年に出た藤原惟昶編『日露開戦論纂』から「満州問題に関する七博士の意見書」、新聞記事です。そして参考資料として私が『市民の意見』192号(2022年8月)に書いた「ロシアとウクライナ国内の反戦運動から--戦争で戦争を止めるべきではない」と、ブログに書いた「『戦争放棄』を再構築するために(https://www.alt-movements.org/no_more_capitalism/blog/2022/04/12/sensouhouki_no_saikouchiku/)」のコピーです。

 

私の話のタイトルが「戦争・死者・天皇制:ウクライナ戦争下で考える」となっているので、ウクライナ戦争に関わることで私の方から発言があると期待されている方もあるかもしれませんが、そうではない話になります。

1 暴力は正当化されるのか

平和運動の軸足が問われている
ウクライナ戦争も含めてですが、このかん戦争状態は一貫してずっと続いているわけです。日本政府の言い方で言えば「日本はどこの戦争にも参戦していない」、ということになるわけですけれども、私は「対テロ戦争」にも日本は参戦してきたと考えているし、よく「自衛隊は一人も人を殺していない」という言い方をしますけれども、日本は明らかに戦争に加担して、人殺しの手助けをしている、共謀共犯の国である、ときちんと認識しておく必要があると思ってきました。

ウクライナ戦争以降の日本の反戦・平和運動が直面した事態は、「実際にウクライナのような状況になった時にどうするんだ」という「脅し」が繰り返し出されて、市民の中でもそういった議論がされてきました。そういう「脅し」に対して、「そのような状況になったとしても、戦争放棄という日本国憲法の基本的な理念は捨てるべきではない」と断固として言えるのかというと、そのように主張する議会内の革新政党はなく、平和運動の中でもさまざまな形での戸惑いや躊躇が見られるわけです。

これは初めてのことではなくて、以前に、朝鮮民主主義人民共和国(朝鮮)が、何回も続けてミサイルを発射した際にも、朝鮮に対する不安や恐れ・怖いという直感的な感覚から、「丸腰で大丈夫なのか」というそんな実感を持つ人が増えてきたと思います。しかし、他方で「平和は大切だし、9条は大切だ」と考える人たちはいたのですが、今の状況はもっと深刻な状況にあると思います。反戦平和運動の軸足をどこにおくのかということが問われているだろうと思います。

その結論(答え)はすぐに出せすことはできるはずもないので、私たちがやらなければいけないのは、いくつかの意見があるとしたら、お互いにその意見を出し合って、議論を続けていくことです。そしてその議論のなかで、一つの結論に至るとは言いませんけれども、少なくとも戦争を止めるにはどうしたらいいのかという、いくつかの選択肢をきちんと確認し合うことが、とても大切だと思います。なかなか議論は難しくて、熱くなって、感情的な言葉が出ることもあるわけですが、しかしやはり議論は議論としてきちんとやっていくことが必要です。そうした議論のための一つの手がかりとして、今日は私が少しだけ話をさせていただきます。

いかなる理由があろうとも武器をとらない
私自身の戦争についての考え方は、若い頃からはずいぶんいろいろと変わってきました。私はレジュメに「私たちはいかなる理由があろうとも武器をとらない、という強い決意がなければ、日本の戦争は阻止できない」と書きました。問題は「いかなる理由があろうとも」です。何か理由をつけて、「武器をとることはいたしかたなし」というふうに考えることはいくらでもできます。けれどもいまこそ、「武器をとらない」という選択ができるかどうかが問われていると思います。私は「いかなる理由があろうとも武器はとらない」という立場で考えてみたい、ということです。これはなかなか同意をとれないし、納得がいかないと考えられる方もいると思います。蛇足ですが、「私」の代わりに誰が他の者——現実にはこの国でいえば、自衛隊か米軍ですが——による武力行使も選択肢としない、という意味合いになります。

暴力(力)は正当性があるのか
世の中にはさまざまな主張があり、その間に、摩擦や対立があります。そのときに、それぞれが自分の言い分の正当性を主張すしますが、それでも一つの合意に達しないような場合に、最終的に持ち出されるのは暴力になる——これは近代の政治の一つの枠になってしまっています。これがあまりに当たり前のことになっていて、国家間の交渉ごとが外交的な話し合いで決着がつかない場合は、それが暴力の正当性を担保すると考えられがちです。しかしよくよく考えてみると、暴力で解決すること——つまり力の強い方が「勝つ」こと——に正当性があるのか。最終的に暴力で解決されるならば、それまで続けられてきたさまざまな議論や論争、話し合いはといったものは、いったいなんだったのかということになる。それらは最終的に力で解決すべきものとしてお互いがそれで納得してしまうという、そういうふうにいま基本的に世界の秩序を支えているルールと力の関係それ自体がおかしいんじゃないか、というのが僕の基本的な考え方です。

なぜそういうふうに考えるかというのは、別に何か外交とかといった難しい話ではなく、私たちの日常生活の中で、さまざまないさかいや対立があった時に、自分の意見や主張を通すために暴力で相手をねじ伏せて言うことをきかせるということは、やっていはいけないことである、という理解があります。私たちの基本的な道徳というのか、倫理というのか、ちょと言葉は難しいですけど、暴力はやってはいけないだろうというのが、私たちが日常的に持ってきたスタンスだと思います。意見が違う時に暴力で決着をつけるということはすべきではない、ということです。

それが国家と国家の間の関係の中においては許されるのか。国家間の話になると別にまた論じられなければいけないことはさまざまあるのかもしれませんが、基本的な枠組みは同じだろうと思います。この問題、つまり私たちの日常生活の中で、暴力が正当性を持つということに皆が一致して納得のいく理論があるのであれば、それは逆に暴力の正当性をめぐる国際関係のなかでも検討に値すると思いますけれども、力の強いものが正義であるという理論的な因果関係はありません。そのことが、一番大切なことだと思っています。

暴力に対して暴力ではない立ち向かい方というのは、日常生活の中ではたくさんあります。力でねじ伏せられる、あるいは自分の尊厳を傷つけられるようなことがあった時に、それに対してこちらも暴力で相手を押さえつけたり命を奪う、そういうことで解決するというのではなく、もっと恒常的にその暴力を生み出してきた人間関係や社会関係それ自体を視野に入れながら、自分がどうやってサバイバルできるかを模索する。そうしたことが、日常生活の中で繰り返しなされてきたと思います。とくに私が念頭に置いて考えてきたのは、たとえばドメスティックバイオレンスのような暴力に対する解決の仕方です。暴力には暴力でということではない解決の仕方、考え方が、繰り返しさまざまな形で提起されてきました。国家が絡む社会的政治的な場面でも、良心的兵役拒否や非暴力不服従、非暴力直接行動などと呼ばれてきた抵抗運動の歴史は長くありますが、こうした運動への関心が今の日本の反戦・平和運動ではきちんと理解されずに、侵略に対しては自衛力行使という選択肢しかないかのような反応か、戸惑いのなかで沈黙しがちになっているように感じます。

2 心的外傷・PTSD・トラウマと反戦運動

戦争・暴力による心の傷
かなり前に出されたジュディス・L・ハーマンの『心的外傷と回復』(中井久夫訳、みずず書房、1999年、増補版)という本があります。この本は、PTSD、トラウマの問題を考える時の一つの基本文献になっているものです。ハーマンはフェミニストの研究者ですが、彼女はこの本のなかで、戦争とレイプも含めた女性が日常的に被っている暴力の二つを交互に参照しながら、心的外傷、PTSD、トラウマと呼ばれているものが、一体なんなのかを論じています。

実際に心的外傷や暴力によって心が傷つけられるという現象が発見されたのは20世紀初めのころです。フロイトをはじめとした精神分析や精神医学の人たちが、それまでは謎であった、ヒステリーと呼ばれる女性たちの症状が、その背後に女性たちが幼児期に被ってきた性的虐待等の被害があってそれが心の傷として残り、身体的な症状として出てくるということをつきとめました。それが20世紀初めの頃です。

それが社会的に大きな問題として脚光をあびたのが第一次世界大戦です。戦争から帰ってきた兵士たちにはさまざまな心の病が見られました。「戦争神経症」と当時は呼ばれたりしました。最初は、そうした病は、臆病でなさけない兵士たちが、戦争に耐えられないことで起因する症状でしかないか、とか、精神的な病ではなくて、爆弾が近くで破裂したことによる脳震とうの結果ではないのかと言われたりしました。その後に、さまざまな研究や調査が進む中で、誰しも、たとえ極めて勇敢だと言われる兵士であっても、戦争の中で心に傷を負うものであることが証明されてきます。

第二次世界大戦のころになると、そうした「戦争神経症」と呼ばれた症状を、軍としてどのようにコントロールするか、が重要な問題になってきます。軍としては、そういった兵士を回復させて、もう一度戦場に戻して戦えるようにする。メンタルなリハビリを行えるシステムを作ろうとしたわけです。そうしたシステム作りは、第二次世界大戦中にかなり進められてきました。つまり戦争の暴力を原因として多くの心を病んでいる兵士たちがいても、その原因になっている戦争をどうするか、と考えるのではなくて、再度戦争に立ち向かえるようにどのように兵士のメンタルを鍛え直すか、というところで、戦争神経症にかかわる専門家の対応がなされたのです。そうした症状を示す人たちに、短期的に対処療法を施して、もう一度戦場に戻す。要するに人を殺していける兵士に再生していくということが繰り返されました。

戦争が取り返しのつかない傷を心にも与えるという問題は、ベトナム戦争を経るなかで、とくに米国で、帰還兵の社会復帰に関わる社会問題として注目されるようになりました。左翼の人たちやベトナム戦争に反対する帰還兵のグループが中心になって、戦争に伴う心のトラウマや戦争神経症の問題に取り組むということがかなり進んくるのです。

兵士だけではない心の傷の問題
ベトナム戦争も終わって、さらに10年、20年経ってやっと、心的外傷後ストレス(PTSD)やトラウマは精神疾患の基本的な症状として承認され、米国の精神医学のルールブックのなかにきちんと記載されるようになりました。最初に戦争神経症として「発見」されてから70年もたっています。その中で初めて、戦争による暴力と、女性たちが日常的に家庭の中で被っている暴力に、共通した環境と症状がある、ということがいわば医学的に「公認」されるようになった、ともいえます。

長い歴史を見てきた時に、日本の場合であれば日露戦争、あるいはアジア・太平洋戦争など戦前の戦争の時代には、こうした心が負う傷の問題はほとんど論じられなかった。しかし、いま私たちが反戦・平和運動を考える時に、この心的外傷やトラウマの問題を、戦争の問題として捉え直しながら、これもまた戦争をしてはいけない理由として議論していかなくてはいけないと考えています。

ここ5年くらいのごく最近のことでは、沖縄戦の過程で、兵士ではない多くの人たちが、悲劇的な地上戦の状況の中で、心に傷を負うことがあったということも注目されるようになりました。日本(「本土」)の場合は空襲や原爆の経験もあります。さらにアジアに目を向ければ、日本の侵略によって深刻な被害を受けた人たちは膨大な数にのぼります。彼らは戦争に直接参加していなかったとしても、その目撃者であったり、あるいは戦闘ではない形での被害を受けたりした人たちが多くいます。あまりにも数が多いために、そういった人たちの心が病むということがあったとしても結果として、そのこと自体が気づかれないということが続いてきてしまっている、という状況がありえます。

フロイトは戦争神経症を、外的暴力によって平時の自我が深刻な影響を受けることへの反応であると指摘し、徴兵された一般市民の方が職業軍人よりも、罹患する確率が高いと指摘していました。言い換えれば、平時から戦時を想定した心理的な対処を国策として展開するような場合——兵役を義務化している場合がその典型かもしれません——、外的暴力への心理的な防御が強化される反面、暴力を肯定する行動を許容する文化を形成しやすくもする、ということになります。日頃から災害に備えるといった防災意識は、この文脈でいうと、両刃の剣になります。問題は、外的暴力との関わりですから、直接戦闘に関与していないけれども心の病に至る多数の人がいるというところも視野に含めて、はたして暴力で問題を解決するという方法が妥当なものと言えるのかどうか、ということを再検討しなくてはいけない。同時に自然災害の関わるPTSDへの対処などが、容易に戦争に転用されない工夫を意識的に追求することが非常に重要になります。19世紀から20世紀以降にさまざまに出てきた反戦・平和の問題を考える枠組みのなかでは論じられてこなかった、そうしたPTSDやトラウマのような問題を含めて、戦争や暴力の問題を考えていくということが、非常に重要な問題となっていると思います。

軍隊は基本的に人を殺すための組織ですから、人を殺すことにともなって起きる兵士のメンタルな問題、あるいはその兵士の家族や友人などその周りの人たちにも起きているかも知れないメンタルな問題は、実は戦後社会を作っていくときの社会の構造にも深く影響するであろうと思われます。あるいは軍事的な組織や意思決定の構造のなかで、自発的な表現が抑圧されてきたことにより、それがメンタル及ぼす影響などが、戦後社会構造にも反映されてくるだろうと思います。この観点からすると、戦争後社会の民主主義が戦時下の暴力や軍事組織の意思決定の仕組みと明確に決別することの難しさがあり、この難しさを自覚しない「戦後」は民主主義の意識形成に失敗するということも意味しているように思います。

3 戦争の渦中で「正しい」判断ができるのか

もう一つ今日話そうと思っていたことは、とても簡単なことです。戦争状況の渦中にある時に、私たちは、自分が直面している世界の情勢・状況を客観的に「正しく」判断できるだろうか、ということです。僕はできないと思っています。

かつての戦争をみてみても、多くの人たちが正しい情報を得て正しい判断をしているとは思えません。そもそもの得られている情報それ自体が正しくない場合が多い。しかしそれが正しくない情報であるということにも気づかず、気づくのはずっと後になってからです。そうした状況の中で、戦争が正当化されていくということが繰り返されている。

『満州事変概要』
その例として一つ、いわゆる「満州事変」と呼ばれていた出来事について資料を出しました。

当時の陸軍省が「満州事変」が起きた直後の1931年10月に出した『満州事変概要』という文章の冒頭の部分です。

「最近両国間に起こった事件は、大小三百余件にも及び、ことにその内でも駐支公使のアグレマン問題、萬賓山、青島事件、支那官兵の中村大尉虐殺事件は、吾人の今なお忘れるることのできない重なる事柄である」。いろんな事件が三百件余り起こった、そしてこのさまざまな事件の結果として、「皆我が居留民や軍人軍隊に対して不法行為を為し侮辱あるいは迫害を加えている」というふうに文章は続いています。これを全体として見ると、三百件余り起こった事件は、みな日本、あるいは日本軍・関東軍に対する「支那」側の不法・不当な事件であるという筋書きになってる。後の時代からみれば、ここで書かれているようなことは必ずしも正しくはなく、そこに裏事情があることもハッキリわかっている。でも当時裏事情などぜんぜん分りませんから、一方的に日本が理不尽な力によって、日本人の権利が侵害されている、としか読めないようになっている。そして、その結果「昔日の消極的排日は漸時積極的の毎日行為と化し、ついには挑戦的態度に出づるに至った」と、つまり、中国は一方的に日本を侮蔑するような行為を公然と行うようになり、挑戦的態度をとってきたと、書かれています。

日本に対してさまざまな攻撃的な事態が三百余りもある、今で言えば「テロ行為」があったということかもしれませんが、そして日本に対する敵対感情が極めて高くなっている。これは典型的な物語の構築です。ひとつひとつの事象そのものは「事実」であっても、それらの解釈の記述を通じて、出来事全体の意味を創作することになります。この「物語」は、だから中国側が満洲鉄道への破壊工作をするような行動を起こすのは当然である、という筋書きを妥当な推論だとみなす方向へと誘導します。実際には、関東軍の自作自演だったわけですが、そのようなことは当時ぜんぜんわかりようもないわけですから、権威ある陸軍省によって書かれている事柄が、たぶん当時の一般的な庶民の人たちが戦争に対して持つ前提知識になってしまっていたはずです。

こういうふうな状況の中で、私たちが、たとえば今風で言えば「自衛のための戦争、自衛のための武力行使」の議論をすることを想像してみればわかりますが、「自衛のための武力行使もこうした状況を考えればやむなし」と世論を誘導していくというのは、非常に容易な話だろうと思います。

「中村大尉虐殺事件」と「青島事件」
陸軍省が具体例として挙げた事例について、二つだけ取り上げて、もう少し具体的に説明しましょう。日本が一方的に被害を受けたという話ではないのですが、それは「裏」を知らなければ理解しえないことばかりです。

まず「支那官兵の中村大尉虐殺事件」です。これは中村大尉が軍人であることを隠して民間人を装って、中国大陸でスパイ活動をやっていて、中国軍にばれて処刑された事件です。ところが民間人を装ってスパイをしていたということは新聞には出ずに、多くの人たちはそうしたスパイ活動がなされていることを知ることがありませんから、あたかも軍服を着た軍人が殺害されたかの印象を与えています。

もう一つ「青島事件」を紹介します。(以下については、郭琤「満州事変期における青島日本人居留民の暴動」早稲田大学大学院教育学研究科紀要 別冊 26号2 2019 年3月を参考にしています)ここ中国民衆の暴動が起きたことは事実といっていいと思います。青島は19世紀末にドイツの租借地となるが、第一次世界大戦で敗北し、戦勝国の日本が青島を占領下に置く。この時期に、日本の漁業者が青島の漁業権を独占する。その後、1929年に国民党政権に返還されるが、漁業権は日本側が独占する状態が続きます。問題は、暴動の背景です。日本の業者が青島の漁業権を独占していたのを中国側が奪い返そうとして紛争が起きたのです。背景にあるのは植民地支配の問題であり、この背景抜きだと、あたかも中国の民衆が理不尽な暴動で日本人に敵意を抱いているかのような印象だけが与えられてしまいます。この時に日本の漁業者の権利を守るために活躍したのが「青島国粋会」です。この団体は「大日本国粋会」の青島の組織です。大日本国粋会は、「官製ヤクザ組織」といっていいでしょう。大日本国粋会は、床次竹二郎内務大臣が世話役、右翼の大物、頭山満が顧問、総裁は貴族院議員の伯爵大木遠吉、会長に貴族院勅撰議員の村野常右衛門(自由民権運動から出発し、大井憲太郎とともに大阪事件に連座した過去をもつ)、衆議院議員の中安信三郎が理事長となって、東西のヤクザ組織を糾合する形で結成され、創設当時は60万人の会員を擁したといいます。(任侠大辞典、国粋会の項より。https://www.yakuza.wiki/?%E5%9C%8B%E7%B2%B9%E4%BC%9A)つまり戦前の日本の権力の中枢が関わって作った右翼団体です。上にあるように、当時の政権の中心にいた人たちが大日本国粋会の結成に深く関与していました。戦後になると「国粋会」として存続し、いまは山口組傘下のヤクザ組織です。かつて山谷で敵対していた金町一家もこの国粋会系のヤクザ組織です。いずれも労働争議とかに介入して労働運動を弾圧している民間の武装組織です。

この大日本国粋会の青島の組織が、日本の漁業の独占的な利権を防衛するために、中国民衆の抗議に敵対してきたことが事件の背景にあります。この青島事件というのは、そうした日本の暴力的な支配に対して、中国の民衆が怒り、暴動を起こすという背景があるんですが、そういったことはいっさい語られない。

その結果として、すべてのこうした事件は中国側に非があり、それが日本を侮辱する「侮日」という、日本にいる人たちを感情的に刺激するような言葉遣いで、日本が自衛権行使として武力行使するのも致し方なかったんだという、そういうシナリオを作っていたということです。当時生きていた人たちがはたしてどこまでそうした状況が客観的に見えてただろうか。たぶん見抜けない人が圧倒的に多くて、結果として自衛権行使やむなしと考えた人たちが多かったんだと思います。言うまでもなく青島の国粋会は自衛権行使の一環としての暴力組織ですが、今流にいえば、政府が後ろ盾となった民兵組織、あるいはミリシアと呼ばれるような組織といえそうです。

「満州問題に関する七博士の意見書」
もうひとつは、満州事変よりもさらに前の日露戦争の頃のことをすこし話たいと思います。戦争当時に話題になった文書があります。「満州問題に関する七博士の意見書」というものです。(以下、この項については、宮武実知子「「帝大七博士事件」をめぐる輿論と世論——メディアと学者の相利共生の事例として」『マス・コミュニケーション研究』No.70、2007を参考にしている)この七博士(実際には宮武の研究では入れ替えがあり10名の関与が指摘されている)の主だった人は東京大学の博士です。その「意見書」には、露西亜は海や陸でますます勢力を増強して、我が国を威圧しようとしており、一日黙っていれば、一日リスクが高くなっていく、といった状況にあるとし、次のように書いています。

「今や露国は我々と拮抗し得べき成算にあるに非ず。然るに、其為す所を見れば或は条約を無視し、或は馬賊を煽動し或は仮装以て其兵を朝鮮に容れ、或は租借地を半島の要地に得んと欲するが如き、傍らに與国なきが如し。今日巳に然り他日彼れ其強力を極東に集め、自ら成算あるを知らば其為す所知るべきのみ。彼れ地歩を満州に占むれば次に朝鮮に臨むこと火を睹るが如く…」(句読点は小倉が適宜追加した)

つまり、ロシアは、ルールに違反し、馬賊を煽動して、傍若無人に振る舞っている、というようなことが書かれています。さらにそうしたロシアの状況をふまえて、ロシアは極東に勢力を集めて、満州に手を伸ばして、それを占領するならば、次は朝鮮を占領することになるのは火を見るより明らかである、といっている。明確な根拠は示されていません。「満州問題に関する七博士の意見書」は、そういう危機を煽る文書です。ロシアをほっておけば、満州が占領・支配され、次は朝鮮が占領・支配される。そしてその次は日本も危ないのではないか、こう書かれているので、「ロシアは酷い国なんだ」ということになる。

しかし、この七博士のなかの主要な人物、戸水寛人は、別の文章で、次のようにも書いています。

「日本人が移住に最適当な場所といふものは矢張り亜細亜大陸です(略)日本人の移住に適当な場所はその他にまた朝鮮もあり満州もあるそれゆえ日本人は力を尽くして朝鮮及び満州に移住の便利を図る方が宜しかろうと思ふ」
「日本人は帝国主義を実行するの必要があるそうしてまた亜細亜大陸に日本植民地を求むるの必要があるそうして亜細亜大陸中でも朝鮮や満州は最移住に適当な場所としたならば日本人はあらゆる機会を利用してその二つの場所に於て日本の国力を発展するの道を考えなければならぬと思ふ」(『日露開戦論纂』蔵原唯昶編、東京国文社、1903年)

はっきりと「帝国主義を実行」しなければならないと言っている。当時は、帝国主義は当然であると支配層(右派)は考えていました。今流に言えばグローバリゼーションと言ってもいいかもしれません。「世界がグローバリゼーションの流れにあるならば、日本もそうするするべきである」と言うのと似たような言い方です。

戸水らは、そういう「帝国主義」の観点に立ちながら、日本国内の権益や利益の問題を考えていながら、それをロシアの脅威として正当化するような問題提起をしている。理不尽で横暴なロシアの南下があり、これを防衛しつつ帝国主義を実現することも可能になるという一石二鳥だとでもいいたいのかもしれません。

この七博士は世論に影響力を与えることができる東京大学の「博士」たちです。今でも、大学の知識人とか偉い人が、発言をしたり声明を出したりすることがあります。それをメディアが取り上げて、多くの人が注目する。そうしたことは、日露戦争のころも同じでした。対露強硬路線は前々からあったけれども、それまではあまり注目や支持がされなかった。それがこの「意見書」もひとつの切っ掛けとなって、戦争モードへと世論が誘導されたとも評価されています。七博士は「意見書」を出すだけでなく、全国を講演して回ることで、この対露強硬路線を広げていきました。いってみればプロパガンダ活動をしたわけです。その結果、メディアも注目して、もっと大きな関心が集まるようになった。そして日本全体が戦争に向かう状況へと大きくかわり始めていった。

ここで考えなければいけないことは、こうした知識人であるとか専門家であると言われている人たちが、オピニオンリーダーになりながら、世論を組織化する活動家だったのか、という問題です。全体を誘導していく裏側の仕掛けです。七博士が自発的に行ったような体裁はとっていますが、実は、裏の仕掛けがあったことを宮武は指摘しています。世論を主戦論へと誘導する世論対策として、対ロシア強硬派の対露同志会(ここには先の大日本国粋会にも関与していた頭山満も参加している)の近衛篤麿や陸羯南が戸水らを「オルグ」して、意見書を出させる下地を準備のです。それまでの対露強硬路線には否定的なメディアも世論を変えさせて、日本全体を戦争に向かわせる、侵略に向かわせる上で、「七博士の意見書」という知識人路線は効果的でした。彼らは、意見書を出すだけでなく、講演会などを各地で行ないますが、こうした活動を大学の「博士」が自分たちで組織できるわけではない、ことは容易に想像できると思います。

トルストイの『日露戦争論』
ひとつ資料としてあげたのが、トルストイの『日露戦争論』です。今は現代語訳が入手できます(国書刊行会)が、資料としたのは平民社版です。幸徳秋水などが訳して出版した当時のものです。(国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/871597)日露戦争を含めた戦争に対する批判は有名なものもふくめていくつかありますが、トルストイはあまりとりあげられないのでここで紹介します。

トルストイのこのエッセイは、イギリスの『ロンドンタイムズ』(1904年6月27日)に掲載されたものだ。トルストイはこの中で、日露両国の双方を批判しているのですが、資料であげたところは、ロシアと日本を対比して論じている箇所です。ロシアについては、

「之が主たる責任者たる露国皇帝は、たえず兵士を点閲して彼らに感謝し、賞与し、且之を奨励す、彼は又勅旨を発して予備兵を招集す、かの忠良なる臣僚は再三再四、その財産生命を我が敬愛せる(口先のみにて)君主の足下に委すと称して而して一面に於いては彼らは口先のみにあらずして、直に実行によって功名を立てんが為に、人の父、人の良人を取り去り、一家よりその稼ぎ人を奪い去りて、以て屠戮を準備せしむ」

と書いています。つまり徴兵された彼らに人殺しをさせるということを、皇帝はやっている。その次にメディアのことが書かれています。

「露国の形成益々非なるに従って、新聞記者の虚言は益々放漫を致す、彼らは何人も彼らに反対せざるを知れるがゆえに、醜辱なる敗北を勝利と詐り、以て其紙数を増加し、金銭を利するの具に供する」

つまり戦局が不利になってもウソ八百を言って、敗北も勝利と言いくるめる、日本で言えば大本営発表のようなことを書いて、売上げを伸ばす、と書いています。その後には、戦争で金儲けをする投機師なども出てくると言っています。

日本についても同様なことが、言われています。

「日本皇帝も亦其軍隊を点閲し、賞賜し、幾多の将官はその殺人を学べることを以て、高尚なる知識教育を得たるが如くに思惟して、盛んに其武勇を相誇負す」「新聞記者が虚言を吐散して、利益を得るを喜ぶとも亦露国と異ならず」

などと記されています。

宗教の戦争への加担についても書かれています。露国はキリスト教、日本は仏教ですが、いずれも人殺しを是とはしないはずの教義であるにもかかわらず、宗教者たちも教義に背いて戦争に加担していると言うことをはっきり書いています。

これを平民社がいち早く戦争中に翻訳して出版したわけです。もとの文章が新聞に掲載されたのが6月末ですが、9月頃には翻訳書が出されている。船便でロンドンから東京まで当時1ヶ月くらいかかります。これを訳したのは、幸徳秋水と堺利彦です。社会主義者がヒューマニスト(トルストイ)の文章を訳すわけです。このトルストイの文章について、平民新聞40号の社説で、「戦争の罪悪、害毒及之より生ずる一般社会の危険を切言するを見て感嘆崇敬を禁ぜずと雖も、而も将来如何にしてこの罪悪、害毒、危険を救治防遏すべきかの問題に至りては、吾人は不幸にして翁と所見を異にする者也」として、トルストイが戦争の原因を資本主義の制度にあるとはみていない点や社会主義制度という問題解決方法を提起していないことには納得はしない、という論評が書かれています。

幸徳らが平民社は、まさに日露戦争をめぐって、非戦論を掲げてきた萬朝報が主戦論に転じたことを批判して設立したものです。非戦論が大きく動揺した時期だったこを踏まえておく必要があると思います。彼らは、いまでこそ注目されますが、当時の状況の中では、孤立していた人たちで、平民新聞は、日本全体の世論を動かすような力を持てなかった。

4 「どのような理由があろうとも武器はとらない」という原則を揺るぎのないものへ

わたしたちが置かれている状況が、客観的にどういう状況にあるのかを見ることは、本当に難しいと思います。そうした難しい中で、何が出来るかということを考えると、やはり、原則をどこに置くか、ということだけしかないんです。その原則を、今日の話の最初のところでお話ししました。わたしたちは、どん状況、どんな理由があろうとも、武器は取らない、という原則を立てると言うことがまずあって、そこからわたしたちの主張を展開していく。その一歩を揺るがないものにしていくには、どうしたらいいのか、ということを考えていくことが必要だろうと思います。

そのときに、かつての反戦運動、反戦平和運動がつくってきた、さまざまな反戦平和についての考え方がありますし、なぜ戦争をすべきではないのか、についての考え方もありますが、その長い歴史の中で、さらに今、もっときちんと自覚的に視野に入れなければいけない問題が、心的外傷・トラウマ・PDSTと思われるような問題への関心、着目だと思います。たとえば、フランツ・ファノンの『地に呪われたる者』の暴力論は、武装解放闘争を肯定する議論としてよく引き合いに出されますが、同じ本のなかで、精神科医でもあったファノンが戦争が引き起してきた心的外傷の事例を詳細に記述している点をどのように評価するのか、という点は十分に議論されていないように思います。

天皇制については全く言及する余裕がありませんでした。一言だけ述べておきたいと思います。戦争に伴うPTSDと天皇制イデオロギーとの関わりという切り口は、これまでほとんど議論されてきていません。また、「満州事変」や日露戦争における言論状況しかし、天皇制がイデオロギー装置であるなら、そのなかに、必ず、戦争に伴う心的外傷への心理的な対応の効果が組み込まれているはずです。殺すことの正当化と、いかなる過酷な状況にあっても、その状況を「国家」との自己同一化を通じて克服させようとする心理的な仕組みが組み込まれているからです。「慰霊」という記憶の儀礼が人びとの心の傷としての戦争体験を心理的に抑圧してきたということ、植民地支配の被害者とされた民衆の心にもまた、無視できない「傷」を刻むことになっているのではないか、と思うのです。戦後日本の平和言説は、日常生活のなかに繰り返し表れてきている暴力の制度的な根源には、家父長制があり、この同じ家父長制が戦争遂行へと至る回路でもあるということ、この双方に日本の近代ナショナリズムの根幹をなす天皇制が存在するということを十分に認識できてきたでしょうか。今日おはなししたいくつかの事例からみても、「武器をとらない」という立場が試練に直面するのは、自衛としての武力行使なしには侵略には抗えないと思われるような事態のなかで、それでもなお武力による自衛という選択肢をはっきり拒否することは、(官製)流言飛語や主戦論が支配的となるなかでは、決して臆病な選択ではなく、多様な不服従の闘争の回路を創造することなのであり、断固とした確信と連帯が重要になるのだと思っています。

*この記録は2022年8月15日、『国家による慰霊・追悼を許すな! 8・15反「靖国」行動』として行われた集会にて、小倉利丸さんにお話いただいたものの全文記録です。主催の実行委員会と講演者の承諾のもと、当編集委員会でまとめました。

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