吾が輩は猫である。野良猫ゆえに住みかは特に決まっていない。得意技は猫キック。このサイトにはたまに立ち寄って、うだうだしようと思う。
天皇がまた動き始めた。コロナ禍での自粛中であったが、エリザベスの葬儀への出席を切っ掛けに、国内の「行幸」も再開だ。イギリスくんだりまで出かけておいて、恒例の国内巡行をスルーするわけにはいかなかったのだろう、さっそく栃木での国民体育大会の開会式に「お出まし」である。
下火になったとはいえ、まだまだ現在進行中のコロナ禍のなかで、本人の感染予防のためか、周辺に対する配慮のためか、どちらを優先したのは確かではないが、珍しく日帰りとなった。4大行事(国体、植樹祭、海つくり大会、国民文化祭)で、全国あまねく出かけて、ついでに、周辺の事業所や施設を訪問して回る。支持者を集めるためのどぶ板選挙と同じで、国内行脚は、天皇(制)にとって必要不可欠だ。戦前と違って、憲法によって、「神聖不可侵の地位」が与えられているわけではない。あいまいな「象徴」としての存在をなんとか「国民」に認知させるために、天皇は動いて顔(存在)を売り込まざるを得ないのである。そのようにして生き延びる方法を、先代の明仁は、戦後の一時期に、自分の先代(父・裕仁)が絞首刑かギロチンに掛けられかねないという状況に身を置いて、死ぬ思いで編み出したのであろう。
だから「象徴天皇(制)」は、マグロやカツオなどの回遊魚と同じで、泳いで(動いて)いないと死んでしまうのである。(もっとも吾が輩が日頃目にするフレーク状の奴らが海を泳ぐ姿は想像できないのだが)。
そして地方に出かけて、しきりと「媚び」を売る。この「媚び」が、絶妙に効果があるのは、普段は「皇居」の奥深くに鎮座して、わけのわからない祈祷だか儀式だかを「厳か」に行っているからである。もちろん、戦前の絶対君主としての強権的な振る舞いの記憶(歴史)が、「国民」「臣民」に恐怖として染みついていることも大きな理由だ。そうした「雲の上の人」的歴史と演出を背景に、時として「地上」に登場して人びとにすり寄る。吾が輩たちの得意な「ツンデレ」だ(ただし吾が輩たちのは本性からで彼らのように演出ではない)。
この「回遊」と「ツンデレ」が、天皇制を支える大きな武器であるのだが、これが姑息な計算された振る舞い(パフォーマンス)であることを、多くの「国民」が見抜けていない。むしろ有り難がっている。それが吾が輩には不思議でならない。
(気まぐれな猫)