「即位・大嘗祭違憲訴訟」と日本の裁判

佐野通夫(原告及び訴訟の会呼びかけ人)

「即位・大嘗祭違憲訴訟」
2018年12月10日、私たち241人は、政教分離原則や人民主権原理に違反する即位の礼・大嘗祭等の差止等を求めて東京地裁に提訴しました。そして19年3月31日、77人が二次訴訟を提起しました。合わせて318人の原告は、儀式の差し止めを求めるとともに、違憲違法な儀式が強行されたことに関して国家賠償を請求しています。しかし、本訴訟は予想外の展開をたどります。

この訴訟が配属された民事第10部は差止訴訟を分離して立件することを決定、一次訴訟の差止訴訟部分は行政部といわれる民事第38部に係属。2月5日、民事第38部は、差止訴訟(一次)について口頭弁論を経ないで(裁判を開かないで)訴えを却下、控訴しますが4月17日、東京高裁民事第11部はやはり口頭弁論を経ないで控訴棄却を決定。上告および上告受理申立て。10月1日、最高裁も口頭弁論を経ることなく上告棄却決定。結局、この裁判は一度も開かれることなく、私たちの敗訴が確定しました。

2月25日、分けられた国賠訴訟(一次)の第1回口頭弁論。国賠訴訟については一次・二次が併合され、5月8日、6月26日、9月25日、20年2月5日と第5回の口頭弁論が行なわれ、第6回が5月20日に予定されていましたが、コロナを名目に延期されました。

「口頭弁論」もない裁判
その間、差止訴訟(二次)について、19年6月28日に民事第3部はやはり口頭弁論を経ないで訴え却下。私たちが1つのものとして提起したこの訴訟について、裁判所は勝手に2つの裁判とし、しかも、口頭弁論も行なわないで私たちの敗訴を決めています。民事の裁判は「口頭弁論」と呼ばれるように、本来は対等な当事者が「口頭」で議論し、それを主権者の代理人である裁判所が理屈の当否を判断するというものであるはずです。それを「弁論」もさせずに判決するとは何事でしょうか。また、裁判所は、差止訴訟は行政訴訟であるとして分離しているのですが、そもそも、日本国憲法は第76条第2項で「特別裁判所は、これを設置することができない」と定め、大日本帝国憲法下の行政裁判所を否定したのではなかったのでしょうか。東京地裁でなく、民事部が1つか2つしかない地方の裁判所なら分離することもできなかったはずです。アメリカ合州国においては、事件名なども「○○ v United States(○○対合州国)」と表示されるように、民事訴訟においては国も原告と変わらない一当事者のはずです。また、地方自治法においては地方公共団体の長、職員等が違法若しくは不当な公金の支出等を行なう場合には「住民監査請求」を経て「住民訴訟」を提起できるのに、国の行為についてはそのような訴訟の定めがなく「住民訴訟」は提起できないとして納税者基本権に基づく訴訟を認めないのは法の欠缺といわなければなりません。即位の礼・大嘗祭等の政教分離原則や人民主権原理違反を訴えるのに、国家賠償という形でしか裁判を起こせません。しかも、その際には個々人にどんな損害があったかを立証しなければなりません。日本の裁判所は人民主権の下、人民の代理として裁判をしているという自覚があるのでしょうか。大日本帝国憲法下の天皇の権力による裁判、あるいはさらに遡る徳川時代の御白州の裁きのつもりででもいるのではないでしょうか。

差止訴訟(二次)は
19年11月26日、東京高裁で差止訴訟(二次)の口頭弁論が開かれ、12月24日、民事第7部は原判決を取り消し一審に差し戻す判決を下します。これまでで私たちの唯一の勝訴です。ただし、その理由は、差止の理由として納税者基本権だけでなく人格権も含まれている。人格権による訴訟については民事訴訟として適法に訴えられているとするもので、納税者基本権による裁判を認めたものではありません。差し戻された差止訴訟について、東京地裁はこの裁判を、さらに納税者基本権による行政訴訟と人格権による民事訴訟に細分化し、行政訴訟については3月3日、東京地裁民事第38部がやはり口頭弁論を経ないで訴え却下、私たちは控訴。10月7日、東京高裁がまたまた口頭弁論を経ないで控訴棄却。そして残りの人格権による差止訴訟の口頭弁論が20年10月14日に始まりました。

10月14日は、これまたコロナを名目に車椅子専用法廷とか言って立ち見をするスペースも充分にあるにもかかわらず傍聴席は座席数の3分の1の12席に制限。これまた日本の裁判制度の問題で、差止訴訟は国賠訴訟より高い手数料(印紙)が要求されます。そのため、二次訴訟77人の原告の内、差止訴訟の原告は2人だけです。

国賠訴訟は
2020年12月21日、国賠訴訟第6回口頭弁論が開かれました。この第6回口頭弁論は先に述べたように、もともと5月に行なわれる予定であったものが、裁判所の都合で取り消され、2月の第5回口頭弁論から10ヶ月以上、放置されたものです。しかも、その間に当事者に通知することなく裁判体(裁判にあたる3人の裁判官)の構成が変わっていました。裁判体が変わったときには「弁論の更新」が行なわれます。口頭でない「口頭弁論」と同じく、多くの場合は、当事者(原告と被告)が「更新します」と言えば、実際には内容を語ることなく更新がなされます。日本の裁判は「口頭弁論」ではなく書面裁判になってしまっているのです。私たちは、裁判体の変更が伝えられていれば、口頭で私たちの思いを新しい裁判官に知ってもらうために陳述をするはずでした。しかし、その裁判体の交代が知らされていなかったので、その準備ができませんでした。私たち「即位の礼・大嘗祭等違憲差止等請求事件」原告一同は、「告知なしの裁判長交代に関わる抗議」を21年2月10日、東京地裁に提出しました。

国賠訴訟第6回口頭弁論において、原告は訴えの追加的変更を行ないました。追加された訴えは、当初原告が18年12月に即位の礼・大嘗祭等の差止を求めた際に国から発表された儀式の一覧表に記載のなかった「立皇嗣の礼」に関係する儀式(この儀式はテレビ等では「一連の即位儀式の最後となる」と報道されていたものです)、また「天皇陛下御即位をお祝いする国民祭典」(この国民祭典は神道と密接に関連する日本史の神話的解釈によって天皇制の歴史や新天皇の即位を賛美するもので、これが宗教的活動に該当することは明らかです)に国が後援を行なうことによる損害の賠償を求めるものです。国賠訴訟は、この後、21年4月14日、7月5日、10月4日、22年1月31日、5月23日に行なわれ、次回は9月21日です。

差止訴訟(二次)はその後
20年10月14日に始まった《人格権による差止訴訟》の口頭弁論は、11月11日、12月9日、21年2月10日、3月8日の5回の口頭弁論を経ましたが、3月24日に原告敗訴の不当判決。控訴して10月11日に口頭弁論がありましたが、1回で結審。そして11月17日、控訴棄却の不当判決にいたります。不当判決の論理は、諸儀式は「個々の国民」に向けられたものではなく、たとえ宗教的感情を害するものであったとしても、「具体的権利侵害」はないとするものです。諸儀式が個々の日本国に居住する人間に向けられたものでないならば、なぜ多額の国費を費やしてこのような儀式を行なう必要があるというのでしょうか。儀式を行なう側は、その効果を認識しているからこそ行なうのです。政府の式典委員会は「各式典が、国民こぞって寿ぐ中でつつがなく挙行できるよう」に協力を求めていましたし、「国民こぞって祝う」という首相の言葉は新聞やTVでもよく読まされ聞かされました。また、儀式を賛美する言論はメディアを通して報道され続けました。これは祝うのが当然という「教育」であり、祝意の強制です。このような儀式が行なわれればこの国に生きる者の信教の自由も、思想・良心の自由も保障されません。「思想の強制などで直接不利益を受ける」ような事態にならないように、国の行動を規制することが裁判所の役割ではないでしょうか。

*『連続無窮』30号「『即位・大嘗祭違憲訴訟』と日本の裁判」(2022.3)に現況を加筆し短縮されたものです

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