冷酷なシステムの権威

高齢化社会にあって介護問題は大流行りだ。でも、介護・被介護のどちらかの立場に立たなくては、その冷酷なしくみはよくわからない。経験しなくてはわからない冷酷なしくみ、であれば経験しない方がいいにちがいない。でも、みんな歳をとり要介護者になっていく。

大概のことは金さえあれば解決する。どれだけ持っているかで、人生の最後をどのように生きるかが決まるというしくみ……。む〜

ん? 金で解決できない領域もある、と言われるか?
たとえば、要介護者の「思い」の達成? 精神的な充足感? 家族の「絆』とか? ほんとか?
 
やはり、大概のことなら金さえあれば叶うに違いない、と持たない私は妬みも込めて思ってしまう。だってさ、たとえば住み慣れた家で最期の時間を静かに過ごしたいとか、料理や洗濯もできなくなったので施設に入るかとか、いかにもつつましく誰もが享受できてしかるべきと思えるこんなことでも、それ相応の金がなくては叶わない。この悩ましさはわかるまい。

被介護者が自宅で生活するために必要な支援。あたりまえの人権が尊重される施設。ただ、これらを手にするにはまず財力、と気づくのに時間はいらないのだ。

私の周りにそんな条件を持ち合わせる人たちは、いったいどれくらいいるのだろうかといぶかしむ。実際、自分と大差ない条件を持つ人たちがたくさんいるだけだ。

そんな悩みとは無関係の、全世帯の10%も満たない富裕層。この人たちにこそ「金で買えない大事なことがあるんだよ」と言ってやれ。そんなものないかもしれないけど、富裕層にはわからないものもあるだろう。

だがしかし、珍しくも公金で生活する富裕層の住人、その上「最高権威」として存在し世襲でその地位を繋ぐその一族には、そんなセリフも虚しく、届くまい。なにしろ、わかりづらさと冷酷さを作り出すシステムの「権威」なのだ。
(橙)

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