天皇制と対峙する

天皇制に反対するということは、単なる一つの意見や思想にとどまらず、その人の生涯にわたる生き方になる。天皇の時間である元号を使わない、君が代を歌わない、日の丸を掲げないという選択肢だけでなく、自らの「内なる天皇制」と向き合い、日本的精神風土、家父長制のあり方といった、無意識、無自覚に天皇制を支えるものの解体を目指す模索だと思う。その過程で、実は古く伝統的だとされていたものが、新しく最近になって確立されたものであったり、その逆に気づくこともある。

天皇制をめぐる様々な問題をあぶり出し、権力や体制と対立し、「非国民」として自らのアイデンティティを解体する。伝統、文化、慣習、地域性に包摂されそうになる自分をすくい出し、濁流に逆らって泳ぎつづける。戦争犯罪、侵略と植民地化、性暴力はじつは帝国主義や軍事大国だけの問題ではなく、身近な人と人との繋がりのなかにも些細な萌芽がある。

わたしは、わたしが生きているうち、目が黒いうちに、日本国民当事者の意思で、天皇制が廃止されることを願っている。しかし、それが実現されず、女性・女系天皇へ流れたとしても、あるいは逆に我々の活動が身を結び、天皇制が廃止されたとしても、形を変えた新しい天皇制がまた出現するという、この国の終わらない課題も抱えている。「反天皇制」に至る過程は人それぞれなのだろうけれど、単に天皇制の廃止にとどまらない「日本人」に巣食う奥深い問題と向き合っている。現実的には、国民投票により憲法から「天皇条項」が削除され、「天皇教」が宗教法人化し、国民の税金ではなく、それを支持する人たちだけが献金で成り立たせていくようになるのが穏健な廃止案なのだろうが、かれら「皇室」の存在がある限り、過去の戦争責任、侵略責任が完全に清算されることはあり得ない。

現代日本にあって、それでも天皇制にNOを言う。個人を抑圧する「日本らしさ」に立ち向かう。身の回りから、身近なところから、それに支配されない空間をつくり出してゆく。そういう人が増えてゆくために、わたしは動きつづける。
(水蓼)

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