『読売新聞・歴史検証』(9-7)

第二部「大正デモクラシー」圧殺の構図

電網木村書店 Web無料公開 2004.1.5

第九章 虐殺者たちの国際的隠蔽工作 7

後藤内相が呼び掛けた「五大臣会議」で隠蔽工作を決定

 これだけの言論弾圧を行った当時の内務大臣は、いったい誰だったのであろうか。

 おりから新内閣の組閣中で、関東大震災発生の九月一日までは留任中の水野錬太郎(一八六八~一九四九)、二日からは再任の後藤新平(一八五七~一九二九)だった。つまり、内務大臣としては水野の先輩に当る後藤が、この激動の際に、二度目の要職を引き受けていたのである。

 後藤が果たした役割については、『歴史の真実/関東大震災と朝鮮人虐殺』に、つぎのように記されている。

「一〇月中旬に王希天の行方不明が報道され、同二〇日に中国代理公使から王の殺害について抗議をうけると、日本政府も対策の検討をすすめた。内務省当局では大島事件、王希天事件を両者とも隠蔽する意見で、一一月七日には閣議のあと後藤内相、伊集院彦吉外相、平沼騏一郎法相、田中陸相、それに山本首相も加わって協議したうえ、『徹底的に隠蔽するの外なし』と決定し、中国がわとの応対方法については警備会議に協議させることになった」

 この「閣議のあと」の「協議」については、『関東大震災と王希天事件』にも『震災下の中国人虐殺』にも、さらに詳しい記述がある。内務省や外務省の関係者の記録が残されているからである。「協議」の場は「五大臣会議」と通称されている。

 本稿の立場から見て、もっとも重要なことは、この「五大臣会議」が行われた「一一月七日」という日付である。つまり、「まぼろしの読売社説」を掲載した少部数の早版が、輪転機で刷り出されてしまい、その後に急遽、鉛版が削られた日付なのである。日付の一致は偶然どころではない。これこそが「協議」開催の原因であることを示す明白な記録が、すでにたっぷりと発掘されているのである。

 閣議後に協議を呼び掛けたのは後藤である。だが、内務大臣の後藤が「五大臣会議」を発案したという経過の裏には、なにやら、ご都合主義の謀略的な臭気がただよう。

 本来の建て前からいえば、内務省は、犯罪を捜査し、処罰すべき主務官庁である。ところが後藤個人は、すでに簡略に紹介したように、外務大臣時代に推進したシベリア出兵とそれに続く米騒動に際して、外務省の霞倶楽部の記者たちと紛争を起こしたり、報道取締りの先頭に立ったりしていた。メディア界の進歩的勢力とは激しい対立関係にあった。すでに紹介したように「新聞連盟」結成工作、ただし時期尚早で実らず、などの「新聞利用」なり「新聞操縦」政策を展開していた。ラディオ放送の支配に関する構想をも抱いていたはずである。後藤は、しかも、首相の座を狙う最短距離にいた。その機会に備えて、メディア界の敵対分子を排除したいと腹の底で願っていた可能性は、非常に高い。当の読売社説の内容自体も重大な問題ではあったが、それを逆手を取って政府部内の主導権を握り、一挙に、かねてからの狙いを実現しようと図ったのではないだろうか。

 政府部内の主導権を握る上では、王希天の虐殺事件は絶好の材料だった。後藤と田中陸相とは不仲だったというし、外務省は国際世論上、日頃から言論統制には消極的だった。ところが、この際、後藤と相性の悪い陸軍は加害者であり、被告の立場である。外務省は国際世論対策で四苦八苦である。いまこそ特高の親玉、内務官僚の出番であった。


(9-8)「荒療治」を踏まえた「警備会議」と正力の「ニヤニヤ笑い」