『読売新聞・歴史検証』(8-4)

第二部「大正デモクラシー」圧殺の構図

電網木村書店 Web無料公開 2004.1.5

第八章 関東大震災に便乗した治安対策 4

号外の秘密を抱いて墓場に入った元報知販売部長、務台光雄

 務台の伝記『闘魂の人/人間務台と読売新聞』(地産出版、以下『闘魂の人』)には、務台が、震災直後から一週間ほど社の講堂で寝泊まりしたことやら、その奮闘ぶりが克明に描き出されている。「活字が崩れてしまったので、大きい活字を使って、号外のような新聞を、四日には出すところまでこぎつけた」ということになっている。ところが、『新聞生活三十年』には、「写真1」のような「九月一日」付けの報知号外のトップ見出し部分のみが印刷されているのである。「四日」と「一日」とでは、この緊急事態に際しては大変な相違がある。

新聞記事

写真1 『新聞生活三十年』より

 謎を解く鍵の一つは、まず、『別冊新聞研究』((4)、77・3)掲載、「太田さんの思い出」という題の、務台自身の名による文章である。そこでは、「直ちに手刷り号外の発行を行う一方、本格的新聞の発行に着手、まず必要なのは用紙だ」となっている。地震で電気がこないから、輪転機が動かせない。輪転機用の巻紙もない。だが、活字を組んでインクを塗れば、「手刷り」印刷は可能だった。しかも、「手刷り」には、もう一つの手段があった。

 さきの『新聞生活三十年』を出典とする「朝鮮人暴動説」の号外は九月三日付けだが、「写真2」のようなガリ版印刷である。本文中には、「汗だくになって号外を謄写版に刷る」という作業状況が記されている。

ガリ版号外

写真2 『新聞生活三十年』より

 務台のフトコロ刀といわれた元中部読売新聞社長、竹井博友の著書、『執念』(大自然出版局)によると、電気がこないので九月九日まで、「四谷の米屋からさがしてきたガス・エンジンでマリノニ輪転機を動かして」いたという。普段よりは印刷能力が低かったので、手刷りやガリ版印刷で補ったのであろう。晩年の務台から直接取材したという『新聞の鬼たち/小説務台光雄(むたいみつお)』(大下英治、光文社)では、震災当日に「手刷り」と「謄写版」の号外を出した事を認めている。つまり、務台自身が、段々と真相の告白に迫っていたのだ。

 もう一つの手段は、近県の印刷所の借用である。斉藤久治の表現によれば、「報知特有の快速自動車ケース号(最大時速一時間百五十哩)」で前橋の地方紙に原稿を届け、九月七日までに、「数十万枚を東京に発、送し、市内の読者に配ることに成功した」という。

 さて、そこからが一編の歴史サスペンスを感じさせるところである。『新聞生活三十年』の本文には、問題の号外の文章は復原されていない。そのほかにも本文には、「朝鮮人暴動説」報道に関しての記述はまったくないのである。

 「写真2」は同書の実物大(WEB上の注:87ミリ×53ミリ)である。もともとのガリ版が乱筆の上に、かなりかすれている。しかも、極端に縮尺されているから、拡大鏡で一字一字書き写してみなければ、判読できない状態である。結果から見て断言できるのは、「写真2」のガリ版号外が、『新聞生活三十年』の本文の記述を裏切っているということである。奇妙な話のようだが、当時の言論状況を考えれば、真相は意外に簡単なことかもしれない。著者の斉藤が、手元に秘蔵していたガリ版号外の内容を後世に伝えるために、検閲の目を逃れやすいように判読しがたい状態の写真版にして、印刷の段階で、すべりこませたのかもしれないのである。

 わたしは、このガリ版号外の件を『噂の真相』(80・7)に書いた。読売の役員室に電話をして務台自身の証言を求めたが、返事のないまま務台は死んでしまった。あの時代の人々には、この種の秘密を墓場まで抱いていく例が多いようだ。残念なことである。


(8-5)「米騒動」と「三・一朝鮮独立運動」の影に怯える当局者