『読売新聞・歴史検証』(7-2)

第二部「大正デモクラシー」圧殺の構図

電網木村書店 Web無料公開 2004.1.5

第七章 メディア支配の斬りこみ隊長 2

僕は我儘一杯に育ってきた」と自認する元「餓鬼大将」の正体

 これまでの正力講談では、もっぱら柔道の修行が、正力の人となりを語る最初の材料になっていた。

 京都で行われた三高との対抗試合で、四高の大将、副将につぐ三将の位置にあった無段の正力が、三高の大将を奇襲の巴投げで倒し、逆転勝利を勝ち取ったのである。大学時代も柔道に熱中したという。そこから「豪腕」という形容が選ばれるようになる。

『巨怪伝』には、本人が語った子供時代が出てくる。すでに紹介済みの『現代ジャアナリズム』に収められている文芸評論家、杉山平助との対談の一部である。『巨怪伝』の著者、佐野が、「子供時代の思い出と健康法」と呼ぶ部分の引用は、つぎのようである。

「杉山 土木請負業の息子は、僕の友達にも二三ありますが、一体に素朴で、餓鬼大将気分が濃厚で、気っぷのいいところなど、共通点がありますね。

 正力 僕も子供時分から、いつも餓鬼大将だったから、煩悶もなかったですね。

 杉山 所が、いつかのお話で共鳴なさった日蓮は、アレで中々若い時には煩悶のあった人ですが。

 正力 僕には煩悶は全くないですね。僕は我儘一杯に育って来たから」

 このように「我儘一杯に育って来た」ことを自認する正力松太郎は、名前はまるで長男のようだが、実際には、男三人女七人の兄弟姉妹のなかで五番目に生まれた次男だった。『巨怪伝』によれば、生家は、「こんもりと茂った森のなかに石垣をめぐらせ、庄川のほとりにそそりたっている。黒々とした瓦が屋根に波打つ広壮な屋敷」であり、そこには「印半纒(しるしばんてん)の人足が何十人となく出入りしていた」のである。

 正力の祖父の庄助は、庄川の氾濫を防いだ功績によって、奉行から名字帯刀を許された。正力の名字は、庄助が古い橋の杭を抜くために工夫した「正力輪」という金具に由来している。

 以上のような材料だけでは、まだ、「豪腕」とか「傍若無人」とか、またはさきに紹介したような本人談の「蛮勇」の形容の範囲内にとどまるであろう。本物の戦国講談の「岩見重太郎」並の「豪傑」と比較して、かえっていわゆる悪名を高めてしまう場合も出てくるだろう。だが、人間の本性は、自分自身が危急存亡の際に立たされたときに、もっとも正直に明らかになるものである。正力は、そのような場合に果たして、いわゆる豪傑らしい「泰然自若」とした態度を取ることができたのであろうか。

 一九四五年(昭20)一一月一〇日、第一次読売争議の山場で、全国新聞通信従業員組合同盟主催の「読売新聞闘争応援大会」終了後、約千名のデモ行進が読売本社に向かった。そのときの正力の狼狽ぶりが、『読売争議(一九四五・四六年)』(御茶の水書房)に記録されている。この本には、著者である東京大学社会科学研究所の助教授(当時)、山本潔の「聴き取り調査」が含まれている。以下は山本が、元読売従組員の綿引邦農夫から直接聴き取った証言にもとづいて、文章を構成したものである。

「正力は、『「共産党が来るぞ」という通報にあわてふためき』、『下駄箱に頭を突っ込んで尻を出していた』、そして配下に注意されて避難した」

 山本は、この状況について、「この時、正力は本能的に生命の危険を感じ、一時的に錯乱状態におちいっていたに相違ない」と判断する。判断の論拠は、御手洗辰雄の『伝記正力松太郎』の記述に求めており、つぎのように注釈を加えている。

「では、正力松太郎は、何故にそれほどまでに共産党を恐れなければならなかったのか。それは、一九二三年(大正一二年)、正力の警視庁官房主事時代、猪股津南雄宅にスパイの按摩を送り込み、猪股家捜索 → 早稲田大学の研究室捜査 → 第一回共産党検挙を指揮したからであった。そしてこの直後の大震災下の虐殺事件ともからんで、一部の共産党員の間で正力襲撃計画が立てられ、正力は『共産党に襲われた夢を見てうなされ』るような過去があったからである。したがって、戦後はじめて、共産党系のリーダーの指導するデモ隊が、読売新聞社におしよせつつあるという知らせを聞いたとき、正力の脳裏をかすめたものは、人民裁判によって殺される己の姿ではなかったろうか。正力が、一時、正常な判断力を失ったのも、もっともなことである」

 山本のいう通りに、正力は長い間、無意識下にもせよ、共産党員からの報復を恐れ、悪夢に悩まされていたようである。晩年の『週刊文春』(65・4・19)での大屋壮一との対談でも。「ぼくは夢をみた。殺しにこられた夢ですよ」と語っている。その悪夢が現実になると感じた瞬間に、白昼、しかも人前で「頭隠して尻隠さず」の典型的錯乱状態をさらけ出してしまったのだろう。それは確かに、一般人、または当時までの軍隊用語の「地方人」ならば、「もっともなこと」として笑って許される状況だったのかもしれない。

 正力の場合には、育ちから見ても、長年の経歴から見ても、豪傑のはずだった。本人も、人並優れた胆力の持ち主のように振る舞ってきた。この時、正力は六〇歳である。その後も、健康の秘訣を「人を食う」ことと称していたくらいだから、まだまだボケ現象が出る年ではない。この直後にA級戦犯に指名されて巣鴨入りするのだが、戦犯の容疑としては、紙面で戦争をあおり、若者を戦場に送り、最後には特攻隊に志願させたような責任も、すべて問われなければならない立場だった。死の予感で錯乱状態に陥ることが許される立場ではなかった。

 以上のような事実経過を考慮に入れると、正力が自称していた「蛮勇」の正体は、非常に怪しげなものに見えてくる。最初の「餓鬼大将」時代には、「親方」の父親という、地元の絶対的権威が背後に控えていた。警視庁時代には、それこそ「親方日の丸」の旗の下である。人目には派手に映る「単身突入」という芸当の場合、相手は、武術の心得のない烏合の衆である。正力の背後には、日頃から日課の柔道や剣道で鍛え上げた警察官の大部隊がいた。正力の「蛮勇」は、いわば、「衆を頼む」類いのものにすぎなかったのではないのだろうか。


(7-3)第一次共産党検挙の手柄をあせった特高の親玉の独裁性