『読売新聞・歴史検証』(6-5)

第二部「大正デモクラシー」圧殺の構図

電網木村書店 Web無料公開 2004.1.5

第六章 内務・警察高級官僚によるメディア支配 5

「王道の旗を以て覇術を行う」インフラの「文装的武備」

『後藤新平』(1)では、当然のこととはいえ、後藤の台湾統治を大変な成功として持ち上げている。後藤の植民地支配政策の根本的な思想については、さらに深い批判的研究が必要であろう。植民地のインフラ整備を単純に「善」と評価するのは、短絡的欺瞞の典型である。

 たとえば一九九五年一一月にも、村山内閣の江藤総務庁長官が、「朝鮮で日本がいいこともした」という趣旨の放言をした結果、辞任に至った。原因は、当然、戦後日本の「官学的」な近現代史教育の欠陥にある。しかし、この種の傲慢かつ幼稚な主張は、日本の海外侵略の先頭に立つ理論的指導者だった後藤新平の主張とは、完全に矛盾するのである。

 後藤は、台湾総督府初代民政長官を皮切りに、以後、満鉄初代総裁、外務大臣、内務大臣などを歴任した。植民地政策の総合参謀本部、満鉄調査部をも創設した。元満鉄調査部員、伊藤武雄の談話集『満鉄に生きて』(勁草書房)などにも詳しいが、『後藤新平』(2)では、第二章「満鉄総裁」に第五節「文装的武備」を立てている。

 後藤は、教育設備を含めた「植民地政策の間接設備」を「文装的武備」と呼び、これを「文化侵略」や「文装的侵略」の同義語とし、「王道の旗を以て覇術を行う」ものとしていた。「文装的武備」は後藤独特の造語である。後藤はこれを「軍装的武備」と対比している。軍部との対抗関係を意識する造語であったが、「いったん緩急あれば武断的行動を助くるの便」として位置づけている。「文装」は、武力による支配と補い合う関係に相違ないのである。後藤はさらに、「帝国に帰依せしむる」には「人間の弱点に乗ずる」必要があるとし、「弁護士と医者程この人生の弱点に乗じていくものはない」とか、「人の迷いの起こったところ、窮したところがその弱点である。宗教の如きすでにそうである」などと、そのものズバリの表現をしていた。

 後藤は持論を「生物学の原理」として語っている。他の官僚の「文学的」または「法学的」な弱点を、持ち前の医学を基礎とした「科学的政策」で衝くのが、後藤の得意の論法であった。『台湾統治救急案』における「調査研究」の重視については、『岩波講座/近代日本と植民地』(3)の注釈にも、つぎのような経過が記されている。

「後藤新平は岡松参太郎(京都帝国大学教授)を招き、大規模な台湾旧慣調査を実施した。その一連の調査研究成果は日本の近代中国研究、植民政策、法制史、文化人類学の発展の基礎をつくることになる」

 このような調査研究重視の姿勢は、のちに記す満鉄調査部や「大調査機関設立の議」の建白へとつながる。『満鉄に生きて』の中で伊藤武雄は、つぎのように回想している。

「旧慣調査については、後藤新平の文化センスと一般に理解されていますが、そもそもの発案者は大内丑之助という人の創案でした。この人物は日清戦争のはじまるすこし前、ドイツに留学。ドイツの植民政策について勉強し、その奥義を究めるため、植民の実務機関にはいり、実際的事務に携わってみたこともあるという経歴の持主で、帰国後、明治三一年、台湾の民政長官に赴任しようとしていた後藤新平に面会を求め、植民政策のあるべき姿について説き及ぶこと数時間。後藤はかれを台湾に随行することになった人だそうです。その船中『植民行政意見』として脱稿。後藤に提案した意見書中に、植民地統治に、その土地の旧慣調査の欠くべからざるゆえんが委曲をつくし、その具体的方法にまで及んで書きつらねてあったとのこと。後藤はこれにしたがい台湾に着くと、京都大学教授岡松参太郎をよんで、土地調査事業にさきだって旧慣制度の調査を委嘱することにしました」

 後藤はのちに、この大内丑之助と岡松参太郎を満鉄に呼びよせている。後藤の場合、「生物学の原理」の提唱とか「旧慣」調査研究の重視とかは、決して現地住民の生命や意志の尊重を意味するものではなかった。要するに、「彼[敵]を知り」という孫子の兵法にもとづく、戦いの勝利への原則にしかすぎなかったのである。


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