『読売新聞・歴史検証』(5-5)

第二部「大正デモクラシー」圧殺の構図

電網木村書店 Web無料公開 2004.1.5

第五章 新聞業界が驚倒した画期的異常事態 5

「大きな支配する力を握って見たい」という珍しい本音の告白

 正力の読売乗りこみの背景には、以上のように、数多くの疑惑の人物が潜んでいる。かれらの正体を追及することによって、事態の深層は、より鮮明に浮かび上がってくるであろう。前内務大臣の後藤新平などは、数多い疑惑の背景人物の象徴的存在である。

 以下、資金源以外にも数多い乗りこみ物語の矛盾を指摘しながら、同時に、疑惑の人物名と、その位置づけを整理してみよう。

 およそ物語には「発端」がなければならない。犯罪でいえば「動機」である。正力講談では、疑惑の背景をぼかすために、なぜか突然、正力自身が読売の経営に意欲を抱いたという筋書きを組み立てている。それが「発端」であり、「動機」であるというのだ。

 なぜ読売が候補に上がったかという理由について、『伝記正力松太郎』では、つぎのように説明している。

「どうせ新聞をやるのなら、少しでも格のいい、信用のある新聞がいいし、あまり上級の新聞を手放す筈はないが、読売は当時ひどい経営難だったから、もし手に入るなら、この方がいい」

 実にあいまいな理由である。講釈師の御手洗自身が、これだけでは説得力に欠けると感じたものか、「少し話がうま過ぎてタナボタのようだが」と付け加えているほどである。

 なぜ新聞経営を志したかという理由となると、さらにあいまいである。

『読売新聞百年史』では、まず、正力が「虎の門事件」で懲戒免官になった事情を記している。事件そのものは著名だから、本書では、以下のように簡単な経過のみを記す。

 関東大震災の年の暮れ、一九二三年(大12)一二月二七日、のちの昭和天皇となる当時の皇太子、裕仁が、摂政の宮として大正天皇の代理で開院式に出席するため、自動車で議会に向かう途上、虎の門を通過中に仕込み銃で狙撃された。裕仁は無事で、犯人の難波大助は、その場で逮捕された。『読売新聞百年史』の記述から、その後の経過の要点だけを抜きだすと、つぎのようになる。

「事件当時、正力は警視庁警務部長の要職にあった。警衛の責任者として、正力は警視総監湯浅倉平らとともに、即日辞表を出していたが、年のあけた大正十三年一月七日、懲戒免官となった」

「大正十三年二月になって、匿名組合の郷誠之助に、正力の友人である後藤圀彦、河合良成の二人が『正力を読売の社長にしたらどうだろうか』と推薦した。郷も賛成して正力を呼び、『君もどうせ政界に出るんだろうから、新聞をやったらどうか。ちょうど読売が売りものに出ている。資金は三井、三菱から十万円出させる』と話した。

 たまたま、この年一月二十六日、摂政殿下[裕仁]のご結婚式があり、正力の懲戒免官は特赦となっていた。官界復帰の道は開けたのだが、本人にその意思はなく、それかといって実業界に行く気もしなかったので、新聞経営の話に乗り気になった」

 さて、最大の問題点は最後のくだりの「特赦」である。すでにも記したように、佐野眞一が『巨怪伝』で「元日本テレビ社員木村愛二」の説として紹介してくれた『マスコミ大戦争/読売vsTBS』でのわたしの主張は、この「特赦」の評価を、もっとも重要な根拠としている。中心部分は、つぎのようになっていた。

「虎の門事件というのは、時の皇太子兼摂政、のちの昭和天皇が虎の門で日本人青年から仕込み銃で射たれたという一大不祥事件だから、関係者一同が連座しただけである。正力は翌年の一月二六日、他ならぬ皇太子の結婚を機に『特赦』となった。つまりこれで、官界への復帰は可能となっていたのであって、せっかく警務部長まで昇りつめていた正力松太郎が、まったく未経験の新聞経営に乗り出す必然性は、非常に弱いのである」

 さらに具体な根拠を追加すると、ほかならぬ『読売新聞百年史』にも、重要な欄外記事がある。「特赦」の直後の二月一一日、読売の紙面には「私設総監正力さん」の見出しがあった。問題の欄外記事の主要部分は、つぎのようである。

「この記事によると、正力の敏腕ぶりは“正力の警視庁”とまでいわれたほど。浪人中でも、心酔する若手連は相変わらず相談ごとをもち込む。正力の身のふり方については、総選挙出馬のうわさもあるが、本人は『断じて出やせん』と否定。警視庁の一幹部は『やっぱり本領を発揮する官職につくのだね。[中略]目下はゆうゆうとして私設総監が適任だろう』という……。

 こんな消息記事ののんびりした扱いを見ると、わずか半月後の正力の読売入りは、夢にも考えられていないようだ」

 つまり、「私設総監」などという、現職の警視総監をないがしろにしているといわれかねない表現で、「正力の身のふり方」が、警視庁内で論じられていたことになる。すでに警務部長まで昇りつめた正力は、警視総監への最短距離にせまっていた。特赦になった以上、警視総監から、さらには内務省の警保局長などをねらう高級官僚コースに戻るだろうという予測が、警視庁内でも当然のこととして取り沙汰されていたのである。

 正力の経歴は、のちに詳しく紹介する。とりあえず、この時期までの経過を見ると、ただただがむしゃらな出世欲を、むき出しにしたまま走っているだけである。およそ、言論を通じて理想を求めるなどとという、文人的性格があったとは考え難いのである。

 その点では佐野眞一が、「珍しく本音を語っている」と『巨怪伝』で評価する正力の発言がある。出所は、『現代ジャアナリズム論』所収の、「昭和初期の文芸評論家の杉山平助との対談」だが、引用されているのは、つぎのような部分である。

「杉山 新聞をやり初めたときには、何か理想でもあったのですか。

 正力 そういう抱負とか云うものは持ち合わさないんで、ただ単純に考えていたのですよ。うすうすながら、これからの人間は、筆の力か、弁論の力か、金の力のいずれかに拠らねばならないと考えていた。そこで新聞によって、世の中を覚醒しようとも考えていなかったが、ただ筆の力を認めていたわけです(中略)。

 杉山 そうすると、あなたが新聞を始められたのはさしあたり明瞭な理想もないが、とにかく大きな支配する力を握って見たい。そして、それを握ってから、何かを行おうというんですね。

 正力 まあ、そうです。

 杉山 そこらは既成政党首領なぞと同じですね。とにかく党員を獲得して、力を握らなければならん、というのに似た考えで、まず新聞の紙数を増やそうと努力なさるわけですね。

正力 そうです。その通り」

 この対談の流れから判断すると、正力は、杉山の「何か理想でもあったのですか」という、いかにもぶっきらぼうな質問の仕方に、気合い負けしているようだ。正力が得意の柔道でいえば、いきなり股下に潜り込まれたような、気味の悪い状態に陥ったのではないかと思える。まるで「持ち合わせ」のない「理想」などというシロモノを、さらに追及されるのではないかという潜在的な恐怖感が先立って、正力の全身から不意に力が抜けてしまったのではないだろうか。

 佐野は、この正力の「本音」を「没理想家ぶり」と評している。いわゆる右か左かの思想傾向は別として、正力には、新聞の発行に人生を賭けるような理想家肌の物好きな性格は、まるでなかったのだ。

 しかも、当時の新聞経営は、経済的に極めて不安定だった。資金の出所となる財界の目から見れば、いわゆる「金食い虫」であった。その側面から見ると、実際のところ、財界の友人たちが正力に新聞経営を「推薦」したのだという「正力講談」の説明は、これまた極めて疑わしくなるのである。『読売新聞八十年史』の方の、つぎのような記述を見ると、「期待」どころか、むしろ、大いに心配している。

「藤原も正力の経営手腕には相当不安を持っていたらしく、当時出資者の会合ではこのことがよく話題に上り、出資者の結論は、『警視庁の敏腕家が新聞界で切れるかどうか、新聞事業は一種特別だから期待するとえらい目に会うかも知れん』というのがおちであった」

 文中の「藤原」は、読売の匿名組合の「正力」監督責任者の一人となった王子製紙社長、藤原銀次郎のことである。藤原は、ただ単に「えらい目に会うかも知れん」と心配しただけではなかった。「正力が社長になると、藤原銀次郎は、『君は新聞のことはわからないから大毎から支配人を入れよう』といい出した」のである。

 この話は正力が断るが、藤原の本拠地、王子製紙の会計部員だった安達祐四郎が、読売の会計主任に入っている。要するに財界人たちは、正力の経営能力をほとんど信用していなかったのである。『読売新聞八十年史』では、そのほかにも、財界の有力者が毎月の第三金曜日に集まる「三金会」で、読売の経営的側面の議論をしていたと記している。『読売新聞八十年史』では、「三金会」を、単に読売の匿名組合のメンバーが集まるものという形で表現しているが、そこに集まる彼らこそは、当時の財界の押しも押されぬリーダーたちだったのである。

 とくに藤原銀次郎と正力の関係については、『巨怪伝』に、当時を知る生き証人の証言が記録されている。「大正八[一九一九]年に読売入りし、後にラジオ部長となった阿利資之」は、「正力が乗り込んできたときの読売を知る唯一の証人である。平成六[一九九四]年九十八歳になるその阿利によれば、この当時の本当の社主は藤原銀次郎だといわれていたという」のである。正力の存命中に発行された『読売新聞八十年史』にも、「新たに郷誠之助と藤原銀次郎が監督することになった」と記されている。何を監督するのかといえば、正力の読売経営である。郷は、すでに本書でも、「番町会」の会場となった麹町番町の邸宅の主として登場している。現在ならば東京証券取引所理事長の立場で、日本の独占再編成を指導していたという、まさに財界の若手実力派の中心人物である。

 番町会でもかれらは一緒だったが、実際には、警視庁官房主事時代から、正力と郷ら財界人との深い関係が続いていた。しかも、その人脈の広がりには、陰の部分があった。


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