『読売新聞・歴史検証』(5-3)

第二部「大正デモクラシー」圧殺の構図

電網木村書店 Web無料公開 2004.1.5

第五章 新聞業界が驚倒した画期的異常事態 3

最近なら「金丸システム」だった「番町会」への「食い込み」

 すでに紹介したように、元読売販売部員の大角盛美は、『別冊新聞研究』(8号、79・3)の「聴きとり」に答えて、次のように語っていた。

「問題は社の復興費だったんですね。それができないんですよ。松山さんを後援していた番町会の方から出ないんですよ。出ないというより出さないんですよ」

 大角の回顧談では、読売を本野子爵家から買い取った財界の「匿名組合」と、「番町会」とが完全に同一視されている。ところが、なんと、読売の社史には、「番町会」の「バ」の字も出てこないのである。まるっきり、「いない、いない、バー」なのである。

 その一方で、最新かつ最大の正力松太郎の評伝『巨怪伝』では、これも逆に、なんと、一〇頁にもわたって、正力と「番町会」の関係が記されている。「番町会」と読売の関係は、当時、秘密でも何でもなかった。公然と語られ、報道されていたスキャンダルである。それに続く「正力襲撃事件」、または「東京日日丸中販売部長事件」を、その余波として考えれば、『巨怪伝』の記述は全部で一九頁になる。この落差は、いかにも大きすぎるのである。

 そこで、「番町会」そのものを紹介する前に、もうひとつの戦前の第三者による同時代の証言として、『現代新聞批判』の記事から、当時の新聞業界の「番町会」と正力の関係に対する認識の程度を探ってみよう。まず最初に、『現代新聞批判』そのものを改めて紹介する。

『現代新聞批判』は、一九三三年(昭8)から一〇年間にわたって、大阪で月二回、各月の一日と一五日に発行されていたタブロイド版の新聞である。

 発行部数は約五百部と少ないが、当時の新聞関係者の間では内々に、質の高い批判紙として珍重されていたようである。復刻版がでたのは、つい最近、一九九五年八月のことである。なかには、戦前の読売を批判したり、または内情を伝える記事が、全部で五〇ばかりあった。「創刊の辞」にはこうある。

「現代新聞批判は現代のヂ(ママ)ャーナリズムに厳正なる批判を加え、その純化と向上を図るために創刊された」

 原版の収集に当たった立教大学教授、門奈直樹は、「戦時下、ある小型ジャーナリズムの抵抗/『現代新聞批判』とその周辺」と題する解説を執筆している。それによると、『現代新聞批判』の「編集発行人・太田梶太」は、「『大阪朝日』を諭旨戒告処分に等しく、依願退社させられた」という経歴の人物である。太田は朝日の社内で、戦後に読売の労組委員長となる鈴木東民や、ゾルゲ事件に連座する運命の尾崎秀実、森恭三らとともに「新聞研究会」を組織していたという。太田とともに編集の中心となった住谷悦治は、それ以前に同志社大学の教授になっていたが、一九三三年(昭8)に、京都大学を舞台とする「滝川事件の余波を受けて大学を追放された」のだという。住谷は戦後、同志社に返り咲き、総長となっている。

 門奈が収録した森恭三の追悼文によると、「当時、各新聞社の幹部たちは太田さんの筆を恐れ、若い記者たちは、痛快がって愛読した」という。大手紙の著名記者たちが、ある場合には署名入りで、ある場合には匿名で、この「小型ジャーナリズムの抵抗」に参加していたようである。

 正力と「番町会」の関係について、『現代新聞批判』では、まさに歯に衣きせぬ率直な表現でズバズバ書いている。以下、要点だけを紹介しよう。

「東京の二流紙と経営の玄人素人」(36・6・1)では、「読売がかくまでに猛進出し、また報知が一歩一歩後退したか」という理由のひとつとして、読売の経営資金の出所を、つぎのようにチクチク皮肉っている。

「正力にしてみれば、どうせ金は番町会辺から貢いで貰っているのであるから、そう金にケチケチする必要がいささかもない。それよりも威勢のよい新聞を作りあげて、多数の読者を獲得さえしておけば、マサカの場合、番町会のために大いに役立つのである。番町会としても、天下の利権を独占しようと企む強か者揃いであるから、読売に五万や十万の金を注ぎ込むことを屁の糞とも思ってはいないだろう。それよりも読売を利用して如何に番町会を有利にカムフラージュせしむるかにあるらしい。[中略]正力には番町会との腐れ縁が禍して、とにかく陰鬱(いんさん)なサムシングが付き纏(まと)っている」

「読売新聞論(二)」(36・8・15)では、つぎのような関係を指摘している。

「彼はいつの間にかしっかりと番町会に食い込んでいた。警視庁の役人だったことは言うまでもない。[中略]役人時代に握って置いたネタが番町会食込みに口を利いたであろうことは容易に想像がつく」

 さて、問題の「番町会」であるが、この会については、すでに『巨怪伝』以前に何冊もの、いわゆる疑獄史ものの著作に詳しい記述がある。わたしも旧著で簡単に記した。最近の例でいえば疑惑の「金丸システム」のような巨大な利権集団だった。

 本書は正力の評伝ではないから、詳しくは『巨怪伝』などにゆずる。読売の資金源の暗さを暗示する程度に限って、戦前の「金丸システム」の有様を紹介するにとどめる。『巨怪伝』では、つぎのように要領良く説明している。

「番町会というのは、正力はじめ若手実業家が毎月一回、財界の大立者の郷誠之助を囲んで集まる親睦会で、発足は大正十二[一九二三]年の二月だった。会の名は郷の私邸があった麹町番町からとられた。メンバーは中島久万吉、河合良成、後藤圀彦など正力の読売買収資金を工面した日本工業倶楽部匿名組合の面々のほか、伊藤忠商事の創業者の伊藤忠兵衛、渋沢栄一の秘書から実業界に打って出て、戦後は岸内閣の運輸大臣となった永野護、同じ山梨県出身の根津嘉一郎に認められて実業界入りし、戦後は桜田武、永野重雄、永野成夫とともに『財界四天王』と呼ばれた小林中などがおり、番町会のメンバーのなかには、「この顔ぶれだけで内閣ができるな』と、冗談めかしていう者さえいた」『巨怪伝』には、番町会の設営役だった生き証人、古江政彦の証言が記録されている。古江は、郷の秘書役、後藤圀彦の書生であった。その証言には、つぎのような実感溢れる部分がある。

「あの当時、番町会の勢いは大変なもので、会社を合併するにも、番町会に図らんとできん、郷さんのうちに相談にこなければ大臣にもなれん、といわれていた。事実、その通りだった。[中略]正力さんも、番町会あっての正力だった。番町会で人脈を広げなければ、読売もあれほど伸びなかっただろう。あの人がきているのは玄関先の靴をみればすぐにわかった。いつも汚い靴を乱雑にぬぎ捨てたままだった」


(5-4)「帝人事件」から「陰鬱なサムシング」の数々への疑惑の発展