『読売新聞・歴史検証』(3-9)

第一部 「文学新聞」読売の最初の半世紀

電網木村書店 Web無料公開 2003.12.1

第三章 屈辱の誓いに変質した「不偏不党」 9

第二次護憲運動の山場で座長に推された読売社長の立場

 (男子)普通選挙の即時実施は、大正時代後期の政治的対決の焦点であった。

 だとすれば体制側が、この政治論議の勢いを弱めようとするのは、水が低い方に流れるのと同じように法則的であった。すでに紹介したように、朝日・毎日の連合軍があらゆる手段を駆使して廃刊に追い込んだ大正日日の紙面でも、(男子)普通選挙の即時実施に関する激しい論調が見られた。

 ところが、大阪でその大正日日の紙面を担っていた記者たちが、つぎには首都東京で松山経営の読売に新たなメディア梁山泊を築きつつあったのだとしたら、当時の日本の体制側にとって、こんなに危険なことがほかにあっただろうか。かれらの目には、当時の読売が「アカに乗っとられた」ように見えたのではないだろうか。この推測の当否については、のちに別の角度から検討しなおす。

 ともあれ、この状況下、一九二三年(大12)九月一日という運命の日に、読売の夢の新社屋は激震におそわれ、大火になめつくされた。読売の停刊は四日間、以後、二ページ、四ページ、六ページ、そして八ページに戻ったのは八〇日ぶりのことだったという。

『読売新聞百年史』によれば、その際、「東京市中の日刊紙十七種のうち、焼け残ったのは丸の内にあった東京日日新聞[大阪毎日が買収済み]、報知新聞と内幸町にあった都新聞[現東京中日]の三紙」のみであった。もちろん、活字ケースは倒れ、電気やガスも止まっていたが、復興の速度は全焼の場合の比ではない。

 東京日日は社屋が残っただけでない。東京朝日と同様に大阪が本拠になっていた。以上の基本条件の下に、震災後の新しい読者獲得競争は熾烈をきわめた。『読売新聞百年史』では、松山時代の章の最後の一区切りで、つぎのように記している。

「ひところ十三万を突破する読者を獲得した松山経営もこの年の暮れには五万を割るとうわさが流れるようになった。日本工業倶楽部の出資の夢も断たれ、古い伝統の上に新しい経営をとの松山のユメはついえ去った。明治七年の創刊から五十年の歴史をもつ本社は、さらに強力な人物を待望せざるを得なくなっていた」

 さて、この記述のみが「さらに強力な人物」の登場、すなわち正力松太郎による「躍進」の第二部への導入になっているのである。だが、正力が経営権を獲得するのは翌年の二月二五日である。その間、丸々六か月、または丸々半年の期間については、なぜか突如、社史の記述がほとんど空白になっている。実は、ここにこそ、読売の社史の最大の問題点が潜んでいるのである。

 たとえば、震災後の執筆者として名をとどめている著名人のなかには、戦後日本の、いわゆる左翼運動でも指導的立場にあった江口渙、藤森成吉、宮本百合子らがいた。紙面の傾向の問題は、震災後の世相、政治の大混乱のなかで、非常に緊迫した関係をはらんでいたはずなのであるが、その経過が、ほとんど無視されているのだ。

 経営面の問題点についても、社史の記述は、非常にあいまいである。

 同時代の新聞業界の基本資料、『日本新聞年鑑』(一九二四年版)には、この間の事情が、つぎのように要約されている。

「もちろん、松山社長は東西に奔走した。この歴史あり、特色ある新聞を復興せしむるは自己の使命であるとなし、工業倶楽部、日本倶楽部等の実業家に連日の会見を重ね、ようやくにして、その諒解を得るにいたるや、突如として社長更迭の幕は、切って落とされたのである」

 つまり財界筋は、震災の被害に苦しむ松山の東奔西走の要請に応えて、一度は財政援助に踏み切ろうと相談をまとめたのである。ところが、ある日突然に、冷たく突き放してしまったのである。

 当時の読売記者の証言もある。『別冊新聞研究』(8号、79・3)には、正力の乗りこみ以前から読売の販売部にいた大角盛美の回想が載っている。インタヴュアーが、つぎのように質問する。

「松山さんが『読売』から手を引かれたいきさつについて何かご存知のことはありませんか」

 大角のこたえは、つぎのように明確である。

「問題は社の復興費だったんですね。それができないんですよ。松山さんを後援していた番町会の方から出ないんですよ。出ないというより出さないんですよ。松山さんをおっぽって、手離したほうがよいという実業界のほうの人の話で、結局金が出ない」

 文中の「番町会」については、のちに詳しく紹介する。ともかく大角は、もう一度、つぎのようにも語っている。

「松山さんの出した復興費の要求をあの実業界の五人か六人が入れなかったんですよ」

 つまり、重要な決定権をにぎっていたのは、「番町会」の「五人か六人」であった。なぜ彼らは「復興費」を松山に「出さな」かったのであろうか。のちにこの「五人か六人」の重要人物の横顔を紹介するが、『読売新聞百年史』の記述は、そのもっとも肝心な経過を無視している。

 ところが面白いことには、『読売新聞百年史』そのものが同時に、松山「社長更迭」への「突然」の圧力を暗示する状況の一つを収録してくれている。『読売新聞百年史』の欄外には、震災の翌年、一九二四年(大13)一月二一日付けの社説の写真版と、つぎのような解説がある。

「[三面は]四段抜き見出し『清浦内閣を倒壊し、併せて非立憲内閣の出現を根絶せよ』という社説で、全面うめられた。[中略]

 筆者は花田比露思(大五郎)、『民意を代表する衆議院を無視した組閣は憲政の本義に反する。清浦内閣の倒壊をもって足れりとせず斯くの如き非立憲内閣の出現する諸原因を根絶せねばならない』と、元老の責任、貴族院の役割など論じきたり、ついに一ページに及ぶ。

 二月五日上野精養軒に開かれた護憲全国記者大会に集まる者、記者、代議士ら三百余人。松山忠二郎が座長に推され、震災後の本社復興に骨肉を削りながら、なお烈々の闘志をみせた。これを第二次護憲運動と称する」

 この社説の見出しを、より正確に記すと、つぎのようになっている。

「清浦内閣を倒壊し併せて非立憲内閣の出現を根絶せよ/今日の政局を訓致せしものは誰ぞ/床次氏一派の謬想を破れ」

 床次とは「誰ぞ」という説明が必要であろう。床次(とこなみ)竹二郎はのちにも本書に登場するが、当時の内務大臣だった。つまり、読売は社説で、首相の首のすげかえを要求しているだけでなく、その首相の内閣が憲法に違反していると主張し、憲法違反の政局の黒幕が内務大臣の床次だと名指しで攻撃していたのである。内務省は、新聞などの言論機関を統制する監督官庁である。このことの持つ意味を、ここで強調しておきたい。

 第一次護憲運動では「憲政擁護・閥族打破」のスローガンで、大正の初めに長州閥の桂太郎内閣と薩摩閥の山本権兵衛内閣に対決し、辞職に追いこんでいる。その直後には、すでに「白虹事件」で紹介した一九一八年(大7)の寺内内閣シベリア出兵に端を発する「言論擁護内閣糾弾」の大波がある。それらの闘いの先頭には当時、常に新聞人の姿があった。松山が座長に推された第二次護憲運動の集会の模様には、いかにもそれらの運動の復活を思わせるものがある。

「白虹事件」の原因となった大阪の「言論擁護内閣糾弾」記者大会では、大阪毎日の本山彦一社長が座長に推され、大阪朝日の上野精一社長が冒頭あいさつをしていた。同じ位置づけの役割を読売の松山が首都東京で果たすとなれば、体制の危機を意識する支配層が黙って見過ごすわけはないだろう。ましてや、読売の社説で「憲法違反の政局の黒幕」と名指しで批判された内務大臣こそが、「天皇制警察国家」といわれた当時の大日本帝国の国内の治安をつかさどる暴力装置の長であってみれば、何が起きても不思議ではなかった。

『読売新聞百年史』で、いかにも「待望」の人物であるかのごとくに描く正力が登場するのは、とりあえず、こういう状況下のことであった。ところが面白いことに、同じく提灯持ちの『伝記正力松太郎』を執筆した御手洗辰雄ですらが、『日本新聞百年史』には、つぎのように記していた。

「この日、同業朝日の夕刊短評には『読売新聞遂に正力松太郎の手に落つ、嗚呼(ああ)』と出ていた。それほど不人気、まさに四面楚歌である」


(3-10)「黄金の魔槌」に圧殺された大正デモクラシーの言論の自由