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読売グループ新総帥《小林与三次》研究 序章-2

序章《新生か復古か》

あっと驚く〈ウルトラ人事〉とマスコミ独占集中の違法性

2 ファミリー伝説の思想的直系

 といった所で、本題に戻らせていただくが、若干ゴシップまじりに書き始めたのには、わけがある。

 前著の『読売新聞・日本テレビ・グループ研究』については、事情通の友人多数から、貴重な助言の数々をかたじけなくした。とくに強調されたのは、個人的ゴシップの取扱いであった。大方の意見は、もっとゴシップを書けということだった。そうしなければ、実感がわかないというのだ。一方には、もっとクールに背景から描いた方が、一般向きになるという意見があった。それぞれに真反対ともいえる意見の違いである。だが、そんな話合いを通じて感じたことは、ひとつの法則性であった。

 つまりここは現状批判の言論の、避けられざる最前線。やっちゃ場である。たとえば”マスコミ概論”などといったのをものしていれば、現実の企業や経営者個々人にはほとんど触れることなしに、一巻の書を編むという芸当すら不可能ではない。ところが、マスコミ関係の現場の働き手は、ゴシップ専門の週刊誌にすら書きつくされないような、ドロドロの現実の中で日々の「文化」商品を紡ぎ、吐き出しているのだ。いわゆる理論と現実のへだたりは、これに過ぎるものなしといってよいだろう。

 そこでともかく、事態を見なおすと、まず、ヤクザ拡販の仕掛人等々として、マスコミ界に腐臭を放つ読売グループに、正力家への“大政奉還”だなどと中世的に表現される事件が起ったのである。たまたま同じ頃『週刊読売』が特別企画として連載していた「ザ・三菱」「ザ・三井」などの財閥シリーズによっても、世襲制の大企業経営者は減る一方。「だから資本主義は民主化されている」などという妄説は、ここでは問題としないが、ともかく、資本主義の冷徹な法則は、血統支配を排しつつあるようだ。財産そのものの世襲はともかく、経営トップの椅子は、実力で奪い取らねばならぬ時代となっている。そんな時代に、“大政奉還”の古めかしいおとぎ話だけで、この異例人事を見過してよいものであろうか。大いに疑間とし、やはり、ゴシップだけの追及にも、底の浅さを感じないわけにはいかないのである。

 たとえば昨年の『現代』9月号だが、小林与三次読売新聞社長に「異例」の声があるといいながら、まったく見当違いのオベンチャラに終始していた。『現代』誌はこれまで何度か読売グループを取り上げ、かなりの実態追及をしていた。日本テレビ系列の社長会で「『現代』を何とかできぬか」と有力地方局社長が突き上げたという噂も立ったものだ。それかあらぬか、『現代』はこのところ妙に、小林や読売グループに対しては、点が甘くなっている。その前の6月号でも、なぜか読売新聞記者が何名も執筆する特集「80年代のドン……」とかを載せ、小林を「旧内務省人脈を操るマスコミ界の帝王」として大物扱いにした。傑作なのは「持ち込み企画」の“底割れ”で、「読売新聞内部でこうした予想される批判に対し、対策が講じられている。小林という人間を売り込む作戦だ」とあった。“内務省”(現在の自治・建設・厚生・労働各省、警察庁など)云々の暗い影を、別の売り込みでスリカエようとしていたのだ。  そこでまず、“大政奉還”云々の真に“現代”的意味を問おう。つまり、内務省問題そのものだ。小林は、元警視庁警務部長の正力松太郎にとって、その内務・警察高級官僚としての後継者に他ならない。これは、血統的ファミリーに優先する問題であり、むしろ戦前の天皇制警察支配国家という大ファミリー内の、思想的根幹のつながりというべきだろう。現状は、その恐るべき伝統への「復古」だ。

 ついで「異例」の人事構造だが、その第一は、読売新聞と日本テレビの実質的トップ兼任である。第二は、その仕掛けの強引さである。読売では、代表権を務台会長と分け持ったが、そこは元官僚の面目躍如。儀礼を欠かず、しかも代表権のないお飾り社主の正力亨を刺激せず、巧妙に実権を握ろうとしている。だが、元副社長の原が退任となったのに、原が兼任していた「編集主幹」という肩書きは、宙に浮いたまま。新聞社としては、「経営と編集の分離」が云々されることもあり、「編集主幹」は紙面を左右する独立的な重要ポストのはずだ。これを置かぬとすれば、小林社長が実質的に兼務か、という声も出る。

 さらに日本テレビでh、社長を置かず時に、高木副社長に代表権を持たせた。もちろん、次の項で実状の一端をうかがうが、形だけのことである。

 一言でいえば、読売新聞と日本テレビの両方をワンマン支配。そしてこれも、故正力の継承である。世間的には「異例」人事。しかし読売グループでは“大政奉還”による“玉政復古”。絶対王制の新局面である。


3 ワンマン支配は批判せずの競争相手?