電網木村書店 Web無料公開
読売グループ新総帥《小林与三次》研究 序章-5

序章《新生か復古か》

あっと驚く〈ウルトラ人事〉とマスコミ独占集中の違法性

5 ナメられっ放しの郵政電監局

 さて、「読売と日本テレビの両方の社長にはなれない」というのが、新しいマスコミ帝王自らの弁である。だが、いくらなんでも御役所ともなれば、さきの省令通り、「代表権」とか「常勤」とかの字義通りに、この兼任の違法性を追求してくれるだろう。純情な「国民」は、そう思うはずだ。

 ところが、肝心の監督官庁たる郵政省電波監理局は、これでも新聞による「放送の経営支配」、いわゆるマスコミ独占集中には当らぬと判断している。なぜなら、日本テレビからの新役員人事報告によると、小林会長は「非常勤」と記されているからというのだ。行政指導で「兼任」を禁じる目安は、もう一度ポイントを記すと、「代表権を有する役員または常勤の役員を兼ねること」という文章になっている。代表権については、株主総会を経て法的にも明らかにされる。それでも実質上の権限の所在は、役所への届けとは別の場合が多い。それぞれの企業の状況で判断しなければ、関係者は仕事にならない。それが常識である。だが、「常勤」か「非常勤」かという区分けとなると、もっとアイマイだ。まったく規準がないに等しい。それなのに、「非常勤という届けが出れば、よほどのことでもないかぎり、それを頭から疑って調べるというわけにもいきません」というのが若手官僚の廊下答弁。そんなものですかと、シラける他はない。

 ところが、つい先頃、大問題となった事例がある。株投機で大穴をあけたスキャンダルの主人公、北海道のドン、岩沢靖の一件だ。岩沢は北海道テレビ放送の代表取締役社長だったのだから、他の会社では代表権を持たず常勤でもなかったはずである。行政指導の規準は東京のキー局についてもローカル局についても、同格の扱いになっているのだ。だが、岩沢のグループ支配の実態は、今更いうまでもない。岩沢は、グループ企業のすべてに対して、背任行為お構いなしのワンマン支配権を握っていた。そして郵政省は、この異常な民放経営者による、「報告書」トンの術を見逃していた。そういう明々白々なシリヌケ「監督」の実績があるのだ。

 いわゆる行政指導の恐ろしさは、ここに如実に記されている。本来は、「一の者」(個人、法人およびグループ)とくに新聞社が、放送局をも同時に経営支配することが禁じられた。少なくとも、そういう建前であった。ところが実際の規制は「常勤」云々にわい少化され、その「常動」の実態認定はかくのごとし。つまり、書類だけは整っているかに見えて、まったくの野放し同然である。しかもこの場合、常日頃は政府批判の格好をつけるマスコミ企業自身の犯罪だから、かのヤクザ専売拡販と御同様。ミニコミないしミディコミによる批判しか存在しないのだ。郵政省の高級官僚は、ナメられてもおり、一方では天下りのアメをナメさせられてもおり、いまやベタベタの癒着振りというしかない。

 たとえば、本年四月に開局予定の熊本県民テレビの社長は、元郵政事務次官の竹下一記であるが、この放送局の成立そのものが、電波行政の腐蝕構造の典型でもある。熊本県民テレビの免許は、三年越しの“朝読”もしくは“読朝”戦争の的になり、朝日系が鹿児島に一局を確保したのと引換えに、日本テレビの“自称”「完全系列局」(『社報日本テレビ』’81・11・5)となった。その間、地元紙の熊本日日が、「波立つ第三局の周辺」という特集(‘81・4・12~15))を組むなど、現地と中央を右往左往する電波分捕り合戦が大評判となった。読売が「目自の実力者」をかつぎ出したため、地元の文化人らも免許申請をして対抗し、「熊本にも角の影」「許せぬ“中央”の介入」「電波は県民の手で」といった大見出しつきの騒ぎになったのである。

 ところが、最後には元郵政事務次官の天下り社長就任という結末。しかも、法の精神をふみにじる「完全系列局」獲得の勝利宣言である。放送法第五二条の三項には、「協定の締結」へのわい少化ではあるが、「特定の者からのみ放送番組の供給を受けること」を禁じている。しかし、いまや、おおっぴらな系列化競争である。熊本県民テレビだけではない。「本年四月のテレビ新潟開局と十月の福島中央テレビの日本テレビ単一ネット化についで当社の完全系列局『熊本県民テレビ』が開局する」(『社報日本テレビ』前出)と称される事態だったのだ。

 もうひとつ、独占を問題とするべき制度に、公正取引委員会があるが、この実態も、さる三月一一日、参院予算委員会で共産党小笠原議員による暴露があったばかりだ。それも、元公取職員による「談合」指導とあっては、最早救いがたい。

 これらの“日本版ザ・ネットワーク”による違法行為の数々、電波法と放送法のじゅうりん、もしくは法そのものの“しりぬけ”状況については、前著および『テレビ腐蝕検証』などでも追及したところである。何度もいうことになるが、対抗すべきマスコミの新聞自体が、この電波利権に血眼となっているため、他の分野の構造汚職以上に世間の眼をくらます“大奥”の権力犯罪として、放置されてきたものだ。

 もちろん、識者によるミニコミ批判は、早くから行なわれていた。テレビ関係者は、この電波腐蝕の野放し状況について、知いなかったわけではないのだ。


第一章《旧内務省の幻影》1 “田中角栄構想”の申し子